第16期 #22

ひとり

「信号待ちをしていた。車はそんなに多くなかった。彼女は……そこにいた」
 彼は二メートル右の空間を指差した。
「それで?」と俺は先を促す。
「車が来た。車種とかはよくわからない。詳しくない」
「うん」
「白の車。中の男はスーツを着ていた。たぶん仕事中で、疲れてたんだと思う」
 今は何もない空間を、彼は懐かしむように眺めている。
「車が突っ込んできた。それで、そこにいた彼女を撥ねた」
 歩行者信号が点滅を始める。人通りは少ない。寂れた町。
「弧を描いた」
 彼は視線を移動させる。視線は昔彼女がいたはずの空間から、弧を描き、彼の前を通り、左側の地面に落ちた。車が三台だけ通り、また静かになった。
「ブレーキ音が響いた。何もできなかった。グシャッと音がして、彼女は、そう、変形した」
 変形って……。ロボットアニメじゃないんだから。
「車は僕の前を通り過ぎて、やっと止まった。僕は彼女を見ていた。目が合って、彼女の顔はこっちを向いていて、それから少し笑った。僕は微笑み返した。あんまり女性と見詰め合ったことなんてなかったから、少し照れた。彼女は動かなくなった。僕と見詰め合ったまま、目を開いたまま、停止した」
 彼は俺のほうに目を向けた。
「車から男が出てきた。彼女を抱き起こした。『おい、おい』って呼び掛けていた。彼女、もう動かないのに」
 静かに話し、彼は一旦空を見上げた。それからまた俺に視線を戻した。
「なあ……」
 俺を見つめる彼の目が、少しだけ不思議そうな色に変わった。
「あんた誰だ?」


 俺はただ独り言を呟く。
「車が突っ込んできた。そこに」
 二メートル横の空間に。
「彼女はいた」
 車の信号が黄色になり、赤になる。
「君はとっさに動いた。彼女の腕を掴み、そのまま引っ張り、投げた。君は彼女を助けた」
 彼は青の歩行者信号を見つめている。
「君自身は……撥ねられた。弧を描いて地面に落ちた。変形した。……グシャッと」
 誰も通らない。青の信号が点滅して赤に変わる。
「君の顔は彼女のほうを向いていた。君は彼女に笑いかけた」
 俺は彼に笑いかける。
「彼女は微笑み返した。君を撥ねた男が駆け寄り、もう動かない君に『おい、おい』と呼び掛けていた」


「あんた、誰だ?」
 もう一度そう聞いてくる彼を、俺はただ見つめる。
 やがて、彼は「僕か」と思う。「あんたは僕なんだな」と思う。
 俺は頷き、ゆっくりと空を仰ぐ。それから、途方に暮れたように、少し笑った。



Copyright © 2003 西直 / 編集: 短編