第16期 #17

霧の中

 政市は慎重に急がなければならなかった。
 深い深い霧の中では自転車のライトはいかにも頼りなく、時折白い壁を突き破って現れる人影に肝を冷やしながらも、相手の側にも同じように感じられているのだと気を引きしめる必要があった。
 今日の一面は株価の話題だ、松田の爺さんはきっと派手に怒るか笑うかするのだろう。彼はペダルを踏み込んで、かなりの金を株に突っ込んでいるらしい爺さんの顔を思い浮かべた。
 前回株価が急落した翌日には爺さんは表でわざわざ政市を待ち受けていて、その内上がりゃいいんだ、もう随分儲かっとるしな、と自慢気に語って缶コーヒーをくれた。
 株価が下がっても余裕綽々だなんて、そんな大物と毎朝挨拶を交わしていたとは気付かなかったと、政市は熱い缶コーヒーよりもそちらの方がずっと嬉しかった。
 田舎町の住人はなるほど田舎者には違いないが、一人一人がそれなりに取り柄を持っているものだということに思い至って、政市にはそれまで退屈で仕方が無かった毎日が、多少はましなものに思えるようになったのだった。
 それはそれとして日々代わり映えのしない新聞を配らなければならないのだが、この日のような悪天候はいい刺激になる。鹿間の家の馬鹿犬も、霧の中では大人しかった。
 政市の自転車は長い坂に差し掛かる。彼は自転車の整備を怠るほど慢心してはいないし、無茶なスピードを出すほど幼くもない。いつにも増して気を払い、坂を緩やかに走り降りたところで声を発した。
「おはよう」
 陸上部員の高橋は、毎朝政市以上に長い距離を走っている。どうかしていやがるぜと思ってはいても、毎朝決まって坂の麓で挨拶を交わすようになってみると高橋との間には友情めいたものがあるような気がしてきて、せめて今年中に一度くらいは会話らしい会話をしようと、政市はずっと機会を窺っているのだった。
「よう、気をつけろよ」
「すごい霧ね」
 息を切らさず目も合わさずに、高橋は坂を駆け上り出した。弾む後ろ姿はすぐ消えた。
 どうせならあいつが新聞配りゃ効率いいんだよな、その閃きを政市は名案だと思ったが、しかし自分の家が苦しくなると思い悩みつつ松田の屋敷の前に自転車を止め、何となく彼女を見習って小走りに門を抜けた。
「ご苦労だな、小僧」
 松田の爺さんがにやつきながら放って寄越した缶を易々と受け取った政市は、未だ晴れない霧の中にいた。



Copyright © 2003 戦場ガ原蛇足ノ助 / 編集: 短編