第16期 #14

小人

 部屋の真ん中で蹲る親指程の小さな人は、じっと見つめる僕に気付くと、ちょっと顔を上げ、自分は寂莫であると名乗りまた顔を伏せた。ほんの一瞬覗き込んだ小人の目付きを脳裏に焼き付けながら、名乗るべき名があることは実に羨むべきことだと思い寂しい気持を覚え、と、それは恐らく夢の話で、実際のところ部屋の真ん中には誰もいはしないし、何もなく、あるのは得体の知れない黒いシミだけで、得体が知れないとはいえそれは恐らくはコーヒーを零した痕か何かで、格別気にするような類のものではないはずだ。
 
 物音がして部屋の奥にある台所を見ると、いつの間にか這入り込んでいた白猫が、三匹の黒猫を産み落としていて、子猫は其々唖と盲と聾だった。これも恐らく夢に違いないと思うのだが、いつまでたっても、そう気が遠くなるほどの時間が経っても目が覚めず、自ら寂莫と名乗った小さな人のことを懐かしく思いながら、唖でない二匹の子猫の鳴き声を聞いていた。
 さてはて、この子猫たちの父猫は一体全体どこにいるのだろうかと思うのだが、それは勿論判然としないし、母猫であるはずの白猫もいつの間にかいなくなっていて、いつまでも鳴き止まない子猫だけが部屋に残されていた。窓の外は真っ赤な夕陽に染まっていて、飛交う二匹の蝙蝠が、声無き鳴声をあげていた。
 僕は多分、子猫のためのミルクでも買いにいくべきなのだろうけど、どうにもそんな気にはなれず、ただ、部屋の真ん中で蹲まるしかなかった。そんな僕をじっと見つめる誰かがいて、僕はちょいと顔をあげると、自分は寂莫であると名乗り、その途端目が覚めた。

 日はとっくに暮れていて、じっとりとかいた汗を拭いながら部屋を見渡すのだが、勿論のこと部屋の中には誰もいはしないし、何もなく、子猫の鳴声もしない。部屋の中には僕がただ独りぽつんといるだけだ。確かなことはそれだけだと当たり前のことを改めて思うのだけど、ふと本当にそれは確かなのだろうかと、疑問に感じるのはどうした訳だかまるで解からない。
 灯りを付けてもう一度部屋を見渡してみると、部屋の真ん中に得体の知れない黒いシミがあって、改めてそれはコーヒーを零した痕か何かであるはずだと思うのだけれども、コーヒーなんてここしばらくまるきり飲んでいないはずで、やはりその黒いシミは得体が知れないと、まるでそれ以上詮索せぬよう自分に言い聞かせているのは一体全体どうした訳だろうか。



Copyright © 2003 曠野反次郎 / 編集: 短編