第16期 #12

電子の蝶

「やあ、早かったね」所長室の扉を叩いた林を、所長自ら出迎えた。
「今日からこの研究所の研究員となりました、林といいます。宜しくお願いします」
「所長の郷です。宜しく」所長は白衣の衿を直しながら、軽く礼をした。「ここで立ち話というのも何だから、部屋で話を聞こうかな」

部屋に招き入れられた林はソファに腰を下し、室内を見まわした。未整理の工具や論文の山を眺めていた林は、やがて一頭の蝶のような物体が天井の辺りを飛んでいるのに気付いた。
「あれは、博士の研究の成果ですか?」林は窓や壁を器用に交わす蝶を指差しながら訊ねた。
「君はAIの専門家だったね」所長はポットから注いだ茶を林の前に置きながら訊き返した。「だったら、あの動きの仕組みも予想できるのではないかな?」
「ええと、カメラから得た情報を分析して、障害物の位置を推論し、それから方向計算を…」林は湯呑に浮かぶ茶柱を眺めながら考え込んだ。「どこかに計算用のサーバはありませんかね?それと通信をしながら」
「いい所に気付いたね。でもあんな小さな蝶にどうやってカメラを乗せるのかな?」
「カメラか…まさか単なる光センサということはありませんか?」
「センサなら明るさだけしか分からないがね…と、無くなったか」湯呑にわずかに入った茶を、所長は一口で呷った。「ここまで言えば分かるかな?」
「さすがに明るさだけで推論は無理だろうし」
「そうだね、明るさだけで推論というのは難しいね。でも初めから推論などしていないとしたら?」
「まさか、明るすぎたり暗すぎたりするところを避けているだけとか?でもそれでAIと言えるのですかね」
「君は人間的な『考えるAI』を目指して研究していたね?」林の論文を片手に、所長は部屋を歩き回った。「あれは虫の様な『考えないAI』を目指して作ったものなんだ」
「考えるないAI、か…」林は皿に置かれた茶菓子を一口頬張りながら、再び蝶に目をやった。「博士のことなら、もっと高度な推論や演繹を行っていたと思っていたのですが」
「推論や演繹をせず、ただ環境に対して反応するだけで、虫達は何億年も生き延びてきた。そんな虫達を参考に作ったのが、あの蝶なんだ」
「そう言われてもなあ…」林は釈然としない思いで蝶の動きを眺めていた。
「それより君は、蝶の動力には興味が無いのかな?」部屋の隅から捕虫網を取り上げながら、所長は微笑んだ。「半導体を駆使した自慢の作品だったのだがね」



Copyright © 2003 Nishino Tatami / 編集: 短編