第159期 #7

魚の骨

 心臓の上に傷跡がある。魚の骨の形をしている。それをどう思っていいのか未だにわからない。誇らしいのか。嫌なのか。恥ずかしいのか。最初に「誇らしいのか」と自問したので、誇らしいと思いたいのかもしれない。
 昔、付き合っていた人にこの傷を見せたら、まじまじと凝視された。手を伸ばしてきて、傷跡をそっと指先で触った。するすると指が滑っていくのを目で追った。それはお互い少し臆病に。壊れ物を触ったり、眺めたりするかのように。そのうちに彼は、ふーっと満足そうに息を吐いた。そうか、この人はこういう人なのかと何となく理解したのを憶えている。
 過去のくすぐったさを思い起こしながら、座椅子を倒し、寝転んで、頭の後ろで手を組んで枕にした。足はこたつの中にあって、あたたかい。眠気でとろとろしながら、みかんのことを思う。みかんが食べたい。それほど切実な欲求ではないけれど、ほんのりとみかんが食べたい気分だった。みかんの夢を見そうだなと思いながら、わたしは眠気に任せて目を瞑った。
 夢と現実とが入り混じったまどろみの中で、わたしは座椅子に座ってみかんを食べた。こたつにみかん。それは幸せの一つの形だった。公園のベンチで缶コーヒーを飲んでいたら野良猫が寄ってきて、身体をすりつけてくるのに匹敵するくらいの幸せだ。いや猫のほうが上かもしれない。わたしはみかんをもう一つ食べてから寝転んだ。横向きになって、折り曲げた左腕を枕にしてとろとろする。目を落とすと肌色が見えた。ちょっと物足りないくらいのふくらみを帯びた胸。真ん中辺りに白っぽい肌色の魚の骨がある。心臓は左胸というよりも、胸の真ん中やや左寄りにある。
 にゃあという呼び声に顔を上げると猫がいた。霧が集まって出来たような、手でぱたぱたすると散ってしまいそうな猫だ。猫はわたしの胸元に寄ってきて、魚の骨に前足を伸ばしてきた。爪でかりかりする。そのうちに魚の骨はぽろりとはずれた。はずれるんだ。
 にゃあ。猫はまた一声鳴いて、魚の骨に顔を寄せる。わたしは意地悪にも、猫が咥える前に魚の骨を掠め取った。そうして、にゃあにゃあという抗議の声を心地よく聞いたわけだけれど、そのうちに猫は諦めて、わたしのお腹の辺りで身体を丸めて目を瞑った。
 わたしは魚の骨を摘まんで、しばらく眺めてからまた元いた場所へ、自分の胸元に戻した。するすると指を滑らせる。柔らかで小さなおうとつ。意外と愛しい。



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