第157期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 朝凪 八代 翔 999
2 本の主 しま 906
3 程好く甘くて酸っぱくて苦くて辛くてしょっぱくて 桜 眞也 500
4 犬、猿、キジ かんざしトイレ 1000
5 裏切りボタン コルフーニャ 583
6 マンハッタン 池田 瑛 994
7 包み 岩西 健治 999
8 牢の幻燈 ウィザードリィ 789
9 ハロウィンナイト わがまま娘 996
10 銀座、仁坐、蹴坐 Gene Yosh (吉田 仁) 998
11 名波浩の視点 なゆら 869
12 導く者 孤独な獅子 530
13 中学生男子匿名 l-i-na 989
14 夜の杯に想う わくわくさんた 702
15 出産後五十倍に伸びる qbc 1000
16 存在 euReka 1000
17 となりに座った人 宇加谷 研一郎 1000
18 一握の砂もどき 弥生 灯火 276
19 逆流 Y.田中 崖 1000

#1

朝凪

 告別式は三日後だった。うるさい音を立てながら、僕は通学路に自転車を走らせる。赤フレームが隣に走らない、静かな朝だった。

 『交通事故』

 小学校のころ、体育館で警察のひとが口にしていただけの単語だった。町外れの交番の、色あせた掲示板の文字に過ぎなかった。
 僕と彼女は、木曜日だけ朝練がかぶった。ユカはいつも、この海岸線で遠回りして、学校に通っていた。僕も木曜日だけ、この海岸線を通って走った。水平線をバックに映える彼女のシルエットを見つめる僕を、ユカはいつも笑った。「どしたの。事故るよ」が、「なに、恥ずかしいよ」、「バカ」に変わっていくのが面白かった。
 ……先に事故ったのは、彼女の方だった。
 「朝凪っていうんだよ」
「え」
事故当日の朝、彼女は教えてくれた。朝、海岸線で風が止む現象だという。
「きれいな言葉だよね」
「うん」
打ち寄せる波と自転車の音以外、なにも聞こえない朝だった。女の子の弱さを白いブラウス越しに捉えながら、夏の坂道を走った。手を繋いでここを歩く日を夢想したりした。

 その日の夕方、ユカは命を落とした。飲酒運転のトラック一台が、その後1年8ヶ月、通学路の景色を変えてしまった。

 市場が賑わっているのを通り過ぎた。荷物を載せたトラックが、今日はまっすぐに走っていく。遠くの商店街からはJ-POPが漏れ聞こえてくる。
「あっ」
 事故現場を通り過ぎた。花束が頼りなく、路側帯に置かれていた。ぽつんと。自動車が通り過ぎるだけで、飛ばされてしまいそうで。そのとき初めて、僕は泣きたくなった。賑やかな町の声が、近くのはずなのに遠く聞こえた。
「よぅ」
「え」
 父さんの声。振り向くと、さび付いた自転車と染みだらけのネクタイがこちらに近づいていた。
「車じゃないの」
「今日は、自転車で走ってみたい気分なんだ」
 遅刻ギリギリの出勤なんて、今まで一度もしなかった父さんだ。心配そうにこちらを見る瞳に、僕はそれ以上の追究はしなかった。
「静かだな。風もないし」
「朝凪っていうんだ」
「そうなのか。知らなかった」
 父さんは興味深げに海の方に目をやっていた。
 朝凪というのだ。
 僕は知っている。
 こうして風のない朝、僕はいつもその言葉を思うだろう。
 あの花束がなくなっても、木曜日、僕はここを走る。そのたびに蘇るだろう。赤いフレーム、シルエット、照れ笑い……
 大丈夫だ。
 自転車で疾走しながら、なぜか、僕の心は凪いでいた。


#2

本の主

 チリーン。
 鈴が鳴る。気づけば、白い空間にいた。目を凝らしても、もやで奥は見えないが、隣には何故か本屋がある。木の板に、大きく墨で“奇文堂”と書いた看板を下げた平屋だ。カラスの張られた引き戸から本棚と番台が見えた。誰かいるらしい。半纏とベレー帽を被った後姿が見える。
 突然現れた本屋に驚きを隠せないが、周りにあるのはこの本屋だけだ。気は進まないが、引き戸を開けることにする。
 すると、ベレー帽が振り向いた。猫だ。
「おや、おかえりなさい」
 古そうな老眼鏡を掛けた三毛猫が、俺に向かって笑いかけた。
「随分長くお楽しみでしたね」
 俺は何のことか、分からず固まる。猫がしゃべることにも驚いたが、この猫が俺のことを知っているらしいことに戸惑ったのだ。
 俺はこの店に一度も足を運んだことはないし、こんな猫にあったことはない。不思議な現象とは無縁の工場に勤める普通の男だ。今日も仕事帰りにビールでも買って、家で飲もうと帰っていただけなのに、こんな目に合うとは……。
「どうなさいました?」
「い、いや……」
 おかしな猫だ。俺の幻覚か、または妖怪か、そんな類のものに違いないのに、丁寧に対応されているから、思わず返事をしてしまう。それどころか、多少いい奴なんじゃあ、という気さえするから怖い。
 猫はこちらが戸惑っていることを察したのか、軽く微笑む。
「お疲れなのでしょう。休まれますか?」
 そうか、俺は疲れているのか。そうに違いない。寝て起きれば、しゃんとするだろう。
「そうだな、少し休みたい……」
「わかりました。では、こちらに」
 差し出されてたのは、本だ。真っ白なページを開いて、渡される。思わず手に取ると、表紙に手が触れた。少し凹凸のある布の感触がする。織り込まれた繊維がよく手に馴染んだ。この匂い、紙の質、何故か良く知っている気がする。
 唐突に気付いた。
「……ああ、そうか」
 俺はこの本の主人公だ。
 パタンと音を立てて、本が番台の上に落ちる。何処からか、吹く風に本がパラパラと捲られた。ページには、先ほどまで見当たらなかった文字が見える。
 猫はそれを拾い上げると、本棚に仕舞う。これで、一冊分空いていた隙間がきっちり埋まった。


#3

程好く甘くて酸っぱくて苦くて辛くてしょっぱくて

青春とはこういうことである。
甘みがあり過ぎても良い方向にいくとは限らない。人間は甘すぎると腐ってしまう。
酸っぱ過ぎても駄目だ。刺激を求めても、最初は楽しいかも知れないが、魅力に慣れるとそれで終いだ。
苦過ぎても良いなんてことは無い。苦痛は伴いすぎると精神が崩壊する。苦みしか知らない青春なんか、つまらない。
辛過ぎても悪い。毎日韓国のラーメンなんか食うな。
しょっぱ過ぎるのも良くない。魅力的で、ついはまってしまうが、繰り返しの毎日を過ごすのも味気ない。
しかし逆も言える。
甘みは必要だ。甘えることを知らない人間は、人への接し方が固い。うまく人を接することができない。
酸いさも必要だ。刺激の無い生活は、生産性の無いものになってしまう恐れがある。刺激は良い着火剤だ。
苦みもそれなりに必要。苦みが分かる人間でないと、他人と対等に付き合えない。
辛さも・・・まあ必要だ。たまに食べたくなる。
しょっぱさも必要だ。同性との付き合いには安定感がある。しょっぱい付き合いなんて言葉もある。
学生時代なんて人生に一度しか無い。だから、
程好く誰かに甘えて
程好く刺激を感じ
程好く苦みを知って
程好く辛ラーメン食べて
程好く友と過ごそう。


#4

犬、猿、キジ

 乱れた世を正すため、立ち上がったのは犬、猿、キジの三銃士。残虐非道の鬼を退治に道なき道をかき分けて、駈けまわること幾千里。蓄えもなく支援もなく、空腹をおぼえたのは五日前だが、今ではそれすら気づかぬほどに、疲れ果て弱り果てていたところ、大きな桃が突如目の前に現れた。喜び勇んで飛びつかんばかりの野良三匹。ただしそれは絵に描いた餅、ならぬ、のぼりに描いた桃にすぎず、何の役にも立ちはしない。実にうまそうに描いてあるだけ罪深い。のぼりを手にしたぼんくらは桃太郎という名前らしい。仕方がないから無邪気なふりして何とか食べ物をひっぱり出さねば。犬が男に話しかけようとすると、猿がそでを引いて耳打ちする。兄貴、兄貴、こんな奴に遠慮はいらない。食べ物を奪い取ってしまおう。正義のためだ、問題はない。キジも強くうなずいたかと思えば、どこにそんな体力が残っていたのか、空高く舞い上がって臨戦態勢をとる。犬はいさめて言うには、民衆の支持を失ってはついに成功することはないだろうと、さめざめと涙を流す。ああ、何ということだろう。犬畜生にも血筋の誇りがあり、屈辱を受け入れるには身の切られる思いがするのだ。あまりにも高貴な犬のその涙が、猿とキジの意気を削いだ。もはや犬に任すよりない。そう思ってためいきをつき、草場のかげに隠れて息を殺して様子をうかがう。犬なのに猫なで声とはこれ如何に。乞食も同然に食べ物をねだる犬畜生。桃太郎と名乗る男は土を丸めたようなあまりにも粗末なだんごをこちらへ寄越した。猿もキジも犬の兄貴の顔色がさっと一瞬変わるのをしっかりと両の眼で見た。しかし何事もなきがごとくに礼を述べ、いっしょに歩き出した犬と男。顔を見合わす猿とキジ。今度は猿が男のもとへ、さっきのだんごを俺にもくれと、恥を忍んで素知らぬ顔で。桃太郎という男、おそらく阿呆に違いない。口元のしまらないぼんやり顔でにこにこと笑い、クソをまるめたみたいなだんごを差し出す。腹が減ってはいくさは出来ぬ。両手で受け取りクソをむさぼる猿一匹。犬もうなずいてはいるものの、何を考えているのか分からない。残されたキジ、誇り高きその心。乞食のような真似をなぜできようか。兄貴たちの醜態にも我慢がならぬ。犬、猿、桃太郎の頭のはるか上、ぎっとにらみつけながら、何度も何度も旋回するが、空腹には耐えられぬ。やがて精も根もつき果てて、一行の目前にどたりと落下す。


#5

裏切りボタン

ここは地獄、そこには三人の地獄の住人と一人の地獄の住人、そして地獄の支配者がいた

その一人の地獄の住人には二つの選択肢があった

友情を取るか...裏切りを取るか...

「さあ、選べ!赤のボタンを押せばお前だけは助けてやる

青のボタンを押せば四人ともこのまま地獄で暮す事になる。」

支配者が一人の地獄の住人に問う

一人の地獄の住人はボタンの前に、三人の住人はその姿を見ていた。



「大丈夫だよな?」
「お…おい」
「早く青のボタンを……な?」

三人の声が耳に届く。

「三人とも、落ち着いて!僕が君たちを裏切ると思うのかい?」

三人に向けて満面の笑みで言う

「だ…だよな、俺達の友情がそんなボタン一つで崩れる訳ないよな…」

不穏な空気が漂う中、地獄の支配者が問う

「5秒で決めろ」

ポチッ

その言葉が飛んだ途端ボタンが押された

「お…おい…嘘…だろ」

押されたボタンは赤だった…三人の住人は呆然と立っている

「俺達の友情は…俺達の友情を壊してまでお前は助かりたかったのかよ!」

「何が友情だ、いいかい?君達は地獄の住人…今までさんざん酷い事をやってきた

くせによく言うよ、支配者さんさっさとこいつらを消しちゃってよ」

その言葉と同時に三人の住人は地獄から姿を消した

「さてさて、あの三人はどこに行ったんだい?」

「ああ、あの三人は天国に行ったぞ」

「!?…どういう事だい?あの三人は…」

「どういう事?天国に行くのは嫌だろ?」


#6

マンハッタン

 劇団四季の公演の日付を間違えた。来週の土曜日と今週の土曜日、つまり今日と勘違いをしていた。来週の土曜日は私の誕生日だ。チケットを2枚も持っているくせに、日付を勘違いして劇場まで来てしまうあたり、やはり、私は鈍い女なのだろう。劇場から浜松町駅まで戻った。東京タワーが綺麗だった。高い所から眺めたいとスマホで探したら、駅のすぐ近くの世界貿易センタービルに展望台があった。だが、私が展望台に上がったら、飛行機が突っ込んでくるかも知れないと思った。先日、見知らぬ女が私達の間に突然割入って来て、私を追い出したように。
 それにしてもこの辺りには、ブロードウェイのように劇場もあり、ワールドトレードセンターもある。まるでマンハッタンのよう。それなら、スタテンアイランド・フェリーもあるのかしら。航行中に自由の女神が見れるフェリー。
 そういえば、竹芝に港があった。ここはやはり、マンハッタンなのだ。私は港へと向かった。
 夜に出発する船があった。運賃表に一歳未満の乳児は無料と書かれていた。私は財布から乗船券を出し乗船した。船に乗れば、もしかして、スタテンアイランド・フェリーのように自由の女神が見れるかも知れないと思ったからだ。船の目的地は八丈島だ。リバティ島は小さい。八丈島は名前からして小さそうだし、うってつけだと思ったからだ。デッキに出て、真っ黒な海を眺めていたら、いつの間にかレインボーブリッジを越えていた。女神は顕現しなかったのか、私がそれらしき物を見逃したのかは分からなかった。また海を眺めて居たら、いつのまにか日本列島からの明かりが見えなくなっていた。体もすっかり波風で冷え切っていた。失敗しちゃったと思った。私は客室に戻り横になったら、吐き気が私を襲った。いつものとは違う。これが船酔いの吐き気なのかと思った。考えてみたら、船に乗ったのは初めてだった。
 八丈島に到着したのは日曜日の9時前だった。船から降りてみると、海と空が水平線で結ばれていた。海と空は一つとなっていた。海に、私の入り込む余地など無かったのだと思い知らされた。
 そして、私は地平線の先に自由の女神を見た。私の記憶では、右手には自由の松明を、そして左手には銘板を抱えているはずであった。しかし、私の見た女神は、両手で大事そうに幼子を抱きかかえていた。彼女の顔は、慈愛に満ちていた。
 私は決めた。生きよう。産もう、と。 


#7

包み

 俺は、自分の住むアパートからなるべく遠い、それも、今までに行ったこともないコンビニを探していた。理想を言えば市外が良かったんだが、そういった目的が逆に場所を特定する要素にもなると思ったのでそれはやめ、目的を持たないためにも、ラジオから流れてくる普段聞かない情報番組が終わるまでひたすら走り続けた先にあるコンビニに捨てることにした。
 たどり着いた先にあったコンビニに捨てた俺は、ナビの道案内に頼り帰ることにした。ナビに頼らないことももちろん考えたさ。ただ、ナビに頼らず、俺自身が道を探しながら帰ってしまうと、道標などの記憶が何かの拍子に思い出される場合も考えられる。そうなるとまずい。だから、機械的にナビに任せて俺はただその指示に従い、最後はルートを消去することにしたんだ。これで、捨てたコンビニを特定することは難しくなる。ナビの指示に従い、俺はそれ以上何も考えない。不必要に景色などを見て、場所を判断することもできるだけ避ける。帰りのルートは複数に分割する。ルート毎の目的地は大手四社のコンビニとし、それらをランダムに選択することも忘れないでおこう。その際、最短コースだけではなく、遠回りのコースもルートに含めよう。コンビニからコンビニへとルートを設定して、その都度、使用したルートは消去しながら帰る。そういった回りくどい方法を使い、三時間かけた俺は最後のコンビニで缶ビールを買った。
 しかし、一体、どうなってるんだ。あまりの動揺に俺は、あたふたしながら車のドアを閉めた。会社を出てから既に六時間は経過している。ということは、俺が包みを捨てたことは時間的に考えても間違いはない。辺りはすっかり暗くなっていたが、全ては順調のように思われた。これでやっかいなものは消え去った。何事もなかったんだ。捨てたという記憶さえ忘れてしまえば。そして、日々を平穏に過ごそう。そう思った矢先だった。
 包みは確実に捨てたはずである。今のはきっと見間違いに決まっている。ここにあの包みがあるはずないではないか。馬鹿げてるよ。そう、長旅の疲れのせいだよ。時間をかけて深呼吸を繰り返し、気を取り直した俺はもう一度車のドアを開けた。でも、そこにはやはり包みがあった。包みは捨てたはずである。けれども、包みはそこにあり、しかも、指が一本入るくらいの大きさで端がやぶれているではないか。これはまずいと思い、俺は再びドアを閉めた。


#8

牢の幻燈

 刑務所に入る夢をみた。正確には、最寄りにある警察が抱える留置所に入る夢である。夕方だった。俺は、神山さんの家の廊下をパタパタ早足になって半ば走り、刑務所へ行く用意を着々と進めていた。なにか、神山氏の家の廊下を通らねば外へは行けないような雰囲気があり、当然のように俺は走り通っていた。俺は行く前に(神山氏の家の廊下を通る以前に)、母親から、行き用の小遣いを少々貰っといた。
 俺は警察へ行く罪状がわからないが、相応に軽いという事は知っていた。又俺は、一度、その留置所へは以前に一度行った気がした。同じく罪状は偶然覚えてないが、軽いものだったように思える。父親が、神山氏の家を通って家を出る直前の俺に声をかけた。自分も途中まで見送る為にか、行きたいと言う風だったが、刑務所(留置所)とわかると、例え留まるのが一日だとしても顔色変えて「自分も行く」という案は引っ込めた。ただやはり、いつものように俺を心配してくれている様だった。俺はその際でも父親に、「金は、母親が落とした幾らかをただ拾っただけで、それを知った母親が自分に改めて何千円か持たせてくれただけやで」等と、嘘をついていた。又俺は、手にした金を数えながらその自分の手に、オレンジ色した超合金の様な関節まできちんと守り得る小手の様なものしていた。
 又、話は跳ぶが、嘘をつくつながりで、俺は大がに居り、西田房子がとりあえず束ねる(発表)会のようなものに参加していた。その会でも、「佐尾くんは元慶應の出身?」との敢えて疑問にしなかった西田への応えとして俺は「周りの目」を気にしてしまい、「いえ、僕は早稲田ですけど」などと澄まし顔で学歴詐称をしていた。

 この夢をみたあと、俺はトイレへ行くのに階下へ下りた。階下へ下り切った時、母親が俺を呼ぶ叫びが聞こえた様な気がした。俺は、父親の身に何かあったのか、とかなり不安になったものであった。


#9

ハロウィンナイト

「いっちゃんてさ、マメだよね」
昨日の夜作ったらしいジャック・オー・ランタンをポンポンと叩いて、キッチンにいるいっちゃんに言った。今はいっちゃんがハロウィンナイトの準備をしているところだ。
いつもなら、アップルサイダーしか作らないんだけど、今日は土曜日だからっていっちゃんがパンプキンシチューも作ってくれるんだって。
電子レンジにラップで包んだ栗カボチャを入れて温めている。その間になんだか香辛料の匂いがして、そうかと思ったら、次はリンゴの甘酸っぱい香りがしてきた。
チンッという音がして、いっちゃんはタオルでくるんでカボチャを取り出す。ヘタのほうを切り取って、いっちゃんはカボチャをくり貫き始めた。
「それ、やろうか?」と声をかけたら、いっちゃんが驚いたような顔をしてオレを見た。「それ2個やるんでしょ?」って言って立ち上がり、キッチンまで移動する。
「じゃ、お願いします」と、いっちゃんからスプーンとカボチャを差し出された。「善処いたします」と言ったオレに、いっちゃんは苦笑いで返した。
再び電子レンジに栗カボチャを入れて温め始めたいっちゃんは、ザクザクとシチューの具材を切る。切った具材をフライパンに入れて炒めている。
いっちゃんとこうやってキッチンで並んでいると、新婚さんみたいじゃない?

「零くん、ほじり過ぎ……」
いっちゃんの呆れた声が聞こえて、オレはハッと我に返る。
「もう、それ今日器にしようねって言ったでしょ?」といっちゃんが予定よりも容量が大きくなったカボチャをオレから取り上げる。
「そんなにほじりたいなら、もう一個あるから」と言って、いっちゃんは新しいカボチャをオレに寄越した。

「いただきます」
ふたりで手を合わせる。
食卓に並ぶパンプキンシチュー。自分でくり貫いたんだと思ったら、いつもより美味しい気がする。器になっているカボチャも結局2つとも中身を出し過ぎたんだけど、それはそれで愛おしい。
買ってきたバームブラックをつまみながら、暖かいアップルサイダーを飲む。
ふと、テーブルの上のジャックが目に入って、いっちゃんに聞いてみた。
「ジャックの中身って、今日のシチューになってんの?」
「ジャックは魔除けです。そもそも彼は食用品種ではありません」
淡々と説明するいっちゃんに、過去に仕事がうまくいかずジャックにあたって茹でてしまったことを思い出した。
チラッとジャックを見たら、嘲笑われたような気がした。


#10

銀座、仁坐、蹴坐

秋の深まりと共に今年も残り3か月、スポーツの秋、プロスポーツの優勝シーズンに、各大学のリーグ戦も中盤を迎え、優勝の歓喜にファンや同級生の優勝祈願、残念会の飲み会がここ銀座でもちらほら、大声を出して応援、歓喜の時を一緒に過ごす、これがスポーツ観戦の醍醐味である。この時期、巷の関心はラグビーの世界選手権、次回の開催国である日本も、東京五輪の競技場の問題や、ロゴの問題など、スポーツとはかけ離れた、経済効果を表面に出す、組織委員会など、とてもスポーツ精神を台無しにする暴挙をこの1年繰り広げてきたことが露呈して、何を一体やっているんだ。遠く離れた英国の地でラ式蹴球の日本チームの快挙を誇りに思う。吉田はアメリカンラグビーと呼ばれ、プロテクターをつけるので鎧球とも戦時中は表現された、アメリカンフットボールを大学時代やっていた。隣がラグビーのグランドで、週末、お互いの試合を観戦することがあった。ラガーに聞けば我が鎧球は防具がガチガチ当たる音を脅威に感じると、我々にしてみれば、体を守る防具なのに、ヘルメットにしても衝撃を吸収して音を出している。体と体が鈍い音でぶつかるラグビーはこちらは怖くてできないぞ。テレビでは伝わらない、タックルの鈍い音、スクラムの声とともに漏れる地響きのような重厚な音、肉と肉、骨へと骨のぶつかる音、だから危険なタックル、ハイパントの事故など、危険行為のルールを厳しくしているのだろう。しかし、審判は一方的に反則を取るのではなく、細かな説明をして納得させる、英語力がないと理解できないかもなあとテレビの中継見て思った。
吉田はロンドン生活を思い出した、ヒースロー近くのテイッケナムはラグビーの聖地で日本でいうと秩父宮ラグビー場、ロンドン最初のホテルがヒースロー空港の近くだったため、電車で通りかかった試合終了後の観客も男どもが応援歌を駅のホームで何百人が大合唱していた。
行きつけの日本の居酒屋は大将が日本の大学でラグビー部出身、ラグビー経験者の憩いの場で、毎晩満席で飲むは飲むは儲かってしょうがなかったのではと思うほど。
銀座の娘たちも屈強な男の飲み会に周りの男と比較すると、飲食店の男子は体力がないものが多いので、度胸の据わった娘にとっては物足りない。ないものを持った体力に圧倒されることも多いようである。これから季節が進むと人恋しい時期になる。そして恋の物語も始まるのである。


#11

名波浩の視点

浩は胸の小さな女性を愛している。だから私はぴったりだと思う。また浩の今日の運勢はかなり良いといわれている。だから今日に出会う女性は運命の人であると判断する可能性は高い。つまり浩は敏感になっている。出会う女性に対してかなり敏感になるはずだ。なぜなら浩は占いを信じている。なによりも占いを優先し、その通りに行動するようにしているからだ。私は浩に対してアドバンテージを握っている状態。どうやって浩と出会おうか考えている。もう夕方になってしまった。浩は忙しい。なかなか出会えるような隙はない。けれどなんとか自分を浩の中にねじ込ませないといけない。今日を逃してしまえば、もう私の出る幕はなくなる。浩には婚約者がいる。婚約者との仲は良いため、間もなく結婚し、温かい家庭を築くだろう。私は祝福すべきなのだろうか。いや、私の気持ちは落ち着かない。私は浩と結婚したいのだ。他の誰でもない、浩としたいのだ。そのためには今日が最終チャンスだ。もう夜になってしまった。浩はまだ仕事をしている。浩の仕事はパチンコだ。浩はパチンコを打って、金を稼いでいる。隣に座ればいい。隣に座って何気なく話しかければいい。なんなら玉をやろうじゃないか。優しく出て食事に誘えばいい。浩は乗ってくるに違いない。なにせ運勢がよいと言われている。玉をくれた。いい人に決まっているじゃないか。ついでに食事までご馳走になれるなんて、まったくついてるぜ、と思うだろう。今日は胸を強調する服を着てきた。浩は小さい胸を愛しているが、同時に露出のある服を着た女性を愛している。私の事前調査は完璧なのだ。

隣に座った女が話しかけてきた。俺はそいつの玉をもらった。赤い口紅がやや不気味だ。食事に行こうという。かなり危険だと感じた。けれどついていってしまうのが俺だ。俺はそんな俺の弱さを愛している。食事に行くと女は焼売を頼んだ。俺は焼売が嫌いだ。「そうよ、わたしは、処女なのよ」女が急に言い出した。聞いていない。「おねがいうばって」「いやだね」と俺は焼売の上に乗っているグリーンピースをつまんで、床に捨てる。


#12

導く者

俺は失敗が嫌いだ。

何故なら、奴らはずっと追いかけてくるからだ。どんなに小さな失敗も、どんなに昔の失敗もずっと俺を追いかける。
奴らは俺を捕まえて嘲笑いながら言う。
「お前は今まで何もしていない。お前はこれからも何もできない。」
俺はその言葉が嫌いで、その言葉を聞きたくなくて奴らから逃げ続ける。逃げても逃げても逃げきれない。
奴らは休むことなく追い続ける。だから、俺も休まず逃げ続ける。

ある日、怒りを抑えきれなくなって奴らに向かって問いかけた。
「何故俺を追いかける。どうして俺を苦しめる。」
奴らは立ち止まりこう言った。
「私たちはお前を追いかけてなどいない。私たちはお前を苦しめない。」
俺には奴らの言ってることがわからない。現に奴らは俺を追いかけているし、苦しめている。やはり奴らは、俺を馬鹿にしている。
和解するなど有り得ない。それからも俺は逃げ続けた。

毎日毎日逃げているからか、次第に奴らに捕まらなくなった。奴らが近づく気配を察知して、巧みに奴らを躱していった。
とうとう俺は奴らから逃げ切り、栄光を掴むことができた。
今までの怒りを、苦しみをぶつけてやろうと、振り返り奴らにこう言った。
「今の俺を見ろ。もう何もできないとは言わせない・ぞ・・」

彼らは俺に微笑みかけていた。


#13

中学生男子匿名

沁みるような濃いオレンジが空を塗る頃、僕は教室の自分の席に一人、腰を掛けていた。既に深い陰を落としている教室の角から、昼間には感じる事の無い、何処か禍々しい雰囲気があるようにも感じられるのは気のせいだろうか。勿論、蛍光灯をつければそれで良いだけの話なのだが、生憎今の僕はそういう気分では無かった。だからといってどういう気分なんだと言われればただの感傷なのだろうが、感傷とは得てして、外側から測るにはいささか無理があるのでは無いかと、また感傷
めいた言い訳がもっともらしく心内に連なる。
僕は通学鞄から一冊のノートを取り出すと、溜め息とシャープペンシルを数度ノックした。



...僕達はいつも、その脆くしぶとい肉体の中に空虚さを内容している。それは人ならば無くす事の出来ないそら寒い感覚。昔の日本人が言った無情もおそらくはこの類いなのだろう。いつだってその場所は渇れていて、埋めるものを求めてやまない。もっとも、普段は大抵気付かないし、気付いたとしてもすぐにまた忘れるのだが。
けれども時々、その感情が自分の大部分を占めてしまう時がある。タイミングは人それぞれなのだろうが、僕の場合は疲れている時だ。
そうすると哀しみがとまらない。
おいしいものを食べても誰かに抱き締めてもらっても、その瞬間しか満たされないのだ。今まで幸せだったその行為に喜べない。その気持ちを測るのに、多くの言葉は必要としないだろう......



僕はそこまで書いてから、そのページに大きくバツ印を書いた。力任せに書いたせいで、紙の一部には切り傷のような穴が開く。自分で書いておいてなんなのだが、利己的なその文面が、僕自身を嘲笑っているようにしか見えなくなってきたのだ。もう少し具体的に言えば、それは僕の考えがちっとも至らない事を、物的証拠としてノートに自ら残してしまったようにしか思えなくなったのだ。始めは自分の感情を整理するだけに書き始めた筈なのに、僕は僕にも見栄を張りたいのか。
何にせよ、どれだけ考えを巡らせても僕の考えには必ず穴が見つかり、詰めが甘く、何処かが欠けている。足りない...そう、足りない何かがある。早急にそう結論づけた僕は、ノートのズタズタのページをちぎると、新しいページにこう記した。


足りないものを見つけたような錯覚を起こす事が天寿なのなら、それは滑稽だな。


色を失いつつある淡い空で、烏は群がって笑った。


#14

夜の杯に想う

 例え暗闇でも君を捜し出せる。その手は永遠に離さない、と私は言った。それを聞いて彼女は涙を流した。
 こんなに愛されたことない、と彼女は言った。それを聞いた私は永遠の愛を手に入れたように感じた。安心しきっていたのだ。安らぐ気持ちは恋したときのそれと同じく盲目なのだ。彼女は愛されたことはないと言ったが、こんなに愛したことはないとは言わなかった。私は彼女の永遠になれなかったのだ。
 
 夜に酒を浴びるように飲む堕落した人間がひとり。過去に埋没するだろう私の恋心に祝杯をする。いや、献杯とでも言うべきだろうか。ここで如何にして酒に溺れられるか、朦朧とした記憶の中で如何にして彼女を眼前に描けるか自分自身を試してみる。
 「これで終わりにしたい」とつぶやき目を閉じる。
 2人にとって最後の日の情景が浮かび、無形の憎しみすら再現性高く蘇る。嫌いになりたい、そう強く願い杯の日本酒を飲み干す。すると、大脳辺縁系に記憶されているシャネルの香水の匂いが蘇った。あれだけの憎しみを抱えているのにまだ、その残り香をまとい続けたいもう1人の自分がいた。愛しいと想うその心も荒ぶる感情も全て彼女へのせめてもの足掻きだった。

 永遠のはずであった心の支柱を無くした私が崩壊するのを君はありありと見せつけられるだろう。それを見て何を思うだろうか。恐らくその寸劇を微笑み傍観するだろう。君が微笑み生み出す最たるサディズムが私のマゾヒズムを擽るのだ。その快感が忘れられず、蟻地獄の如く這い上がれなくなる。君の魔力に陶酔していくことで、また憎いはずの君を愛してしまうのだ。そして気づくのだ。どうやらその連鎖にはまる己が愛しいのかもしれない、と。


#15

出産後五十倍に伸びる

(この作品は削除されました)


#16

存在

 青い猫は存在します。そのことはチョルノーブィリの人なら誰でも知っています。しかしあなたには、まるでおとぎ話のようにしか思えないかもしれません。青い猫というのは、ちょっとした塀の上や、空き地に放置された車のボンネットなどにいるのですが、とつぜん風が吹いた瞬間に、ああ青い猫がいたんだねと誰かがやっと気づくような存在なのです。あるいは青い猫を一度も見たことがなくても、チョルノーブィリでは昔からその噂を繰り返し耳にしているせいで、いつかどこかで見たような気になっている人もいるのです。たとえば子どもの頃の古い記憶は、その事実を確認できないかぎり遠い夢のようなものでしかありません。それに、夢を現実のものと勘違いすることだってあるでしょう。
 しかし「青い土曜日事件」は歴史的事実として存在しますし、あなたも名前ぐらいは聞いたことがあるはずです。

 それは1986年のある土曜日に起こった事件であり、簡単にいうとチョルノーブィリからすべての青い色が失われてしまった出来事のことです。青いドアや青いテーブルクロスを見てもまったく青く見えないという人もいましたし、晴れた空を見ても、なぜか青く見えないことに酷くいらだっている人もいました。始めは理由もわからず、ただ子どものように怯えるしかありませんでしたが、みんなで気持ちを打ち明けるうちに、空が青くなければならない理由など初めからなかったのだと考えるようになりました。リンゴであれ、バナナであれ、色がある必要はありません。ただ、そこに色がなければ、何か足りない気がするというだけの話なのです。
 あれから何十年もすぎた今でも、チョルノーブィリの人々は青い色を見ることができません。たまに外部の人から、青に見えないのなら何色に見えるのですかと質問されるのですが、そこには色が存在しないのです。しかしある人は、存在とは、帰ってこない鳥をずっと待っている鳥籠のようなものだと説明します。鳥籠は鳥を失うことで、やっと自分が鳥籠であることに気づくのだと。

 青い猫は、事件が起こるずっと前から存在していましたし、今でもチョルノーブィリのどこかで、誰かとふいに出会うことがあります。そしてなぜかチョルノーブィリの人にも、青い猫だけは晴れた空のように青く見えるようなのです。しかしそのことを不思議がる人は誰もいません。ただ、とてもなつかしくて後ろを振り向いてしまうだけなのです。


#17

となりに座った人

あたらしい自分になりたいとおもったことがある。あたらしくなるんだから、オレはそれは朝であるべきだと思った。10分早く起きてみようと決めたんだ。だってさ、急に1時間とか無理だろ? 変わろうとおもって変われなかったら傷つくじゃない。だから10分だけ。それだけ早く起きようと決めたんだよね。

朝の10分ってさ、やってみなよ。けっこう苦しいだな、これが。最初の一週間は起きるだけだった。そう、10分前に起きたぞ! ってただそれだけ。でも手帳にね、まるをつけるわけ。これがうれしくてね。うん。なにがうれしいんだろうね。うれしいんだよ、まるがつくと。まるつけてるのオレ自身なんだけど。ラジオ体操を思い出すんだなあ。

ラジオ体操、いまでもあるのかな? ほら、夏休みにあったでしょう? 近所の公園にみんな集まって朝から体操するんだよ。このまえ平成うまれの子に聞いたらそんなの知らないって言われたよ。今は、やっていないのかもなあ。夏の暑い朝、朝からぞろぞろみんな集まってくんの。夏休みで、学校が休みだからうれしいはずなんだけどさ、どこかで淋しいんだね、子供は。それが朝からみんなと会えるわけだから起きるんだよ。それでハンコを押してもらえるんだね、ちゃんと来た子には。これがうれしいんだよ。

それであたらしい自分になれたか? たった10分の早起きでなにかがかわったか? うーん。どうだろうねえ。そのうち、起きて手帳にまるつけるだけじゃなくて、どうせなら知らない音楽を1曲聴いてみようかなって思いはじめてさ。ほら、今はYouTubeとかあるじゃない。無限に音楽が聴けるのに、案外みんな聴いてないよね?

こうしてオレたち出会っているじゃないか。ほら、お互い初対面だし、こうして話しかけているのもたまたまで、もしかしたらもう二度とあわないかもしれない。あうかもしれないけど、そんな出会いのときにね、一曲教えてもらおうっておもったんだよ。うん。何か思い入れのある曲を、いま教えてくれない? ほら、このリストみて。毎日ここから一曲選んできくんだ。

不思議なものでねえ、ただのナンパなら忘れてしまう一夜の出会いも、教えてもらった曲とともに残っていくんだよねえ。それはあたらしい自分なんじゃないかな?じゃあ君にとっての1曲をオレに教えてくれないか。その曲と君の思い出に、それからオレのあしたの10分間に、乾杯してもらおうじゃないか。


#18

一握の砂もどき

『働けど働けど なお わが暮らし楽にならざり ぢっと手を見る』
 石川啄木 歌集 『一握の砂』より

 夕闇と雨と空の下、男が走る
 生気を失った顔で、走っている

 世の不況、好転したというが
 未だリストラの波は絶えず

 その身に降りかかった男は
 なすすべもなく、溺れた

 男は愚かだった
 首切られ、蓄えもなく

 家で待つ女も愚者だった
 夫をあざけり、罵った

 やがて男は走るの止める
 夜に咲く花のような笑みを浮かべ

 やがて男は帰るだろう
 妻のいる家へと

 やがて男は帰るだろう
 首にあざの残る、小便にまみれた女の元へ

 夕闇の雨と空の下
 男は笑顔で、ぢっと手を見ていた……


#19

逆流

 帰宅。靴を脱ぎ捨て鞄を放る。そういえば午後は忙しくて一度も行ってなかった。建てつけの悪いドアを開けて滑りこむ。力任せにノブを引っぱったら、ぎゃっと叫び声をあげて閉まった。
 ふたを上げてジーパンを下ろし、柔らかいカバーで覆われたU字にお尻をのせる。深いため息。水音とともに下半身にじんわり広がる安堵と虚脱。瞼の裏に波が描かれる。生理現象に快感が伴うというのは何で読んだんだっけ。波打ち際でぼんやり考えていると、見えない手に下腹を握り潰された。どっと汗がふき出る。寒気。なぜこの生理現象には快感が伴わないのか。
 ぐったりしながらレバーをひねる。水が流れない。ぎょっとする。やめてくれ、この状態で修理とか頼まれた方も引くだろう。もう一度ひねる、出ない、もう一度。
 ようやくごぼごぼと水が出た。ほっとしたのも束の間、今度は水が溜まったまま流れていかない。何か取ってこようとノブに手をかける。ドアが開かない。体重をかけてもびくともしない。あれか、と思い当たって私がぎゃっと叫びたかった。けれど実際は上昇していく水位を見つめながら、ああ、うう、と馬鹿みたいな呻き声を漏らすことしかできない。八割、ひたひた、もうだめだ。
 慌てふためく私をよそに水は淡々と溢れだし、スリッパを薄赤く染めた。そのまま床に溜まり、さらにかさが増していく。一向に外に出ていく気配がない。便座のふたを閉めてその上に立ち、それでもだめでタンクの上に立つ。蛇口からはとどまることなく水が出続けている。万が一閉じこめられても安心、窓つきトイレ物件を選ばなかったことが悔やまれる。なぜ今まで気づかなかったのかと携帯を取り出すも圏外。壁を叩く。大声で助けを呼ぶ。何度も何度も。私の部屋は砂漠の真ん中にあるんだろうか?
 水面がタンクの上の足を濡らしたあたりで、沈んでいる便器のふたがごとごと震えだした。下から現れたのは真っ赤な小さい手。ゆっくりふたが上がる。中には赤い胎児たちがみっしり詰まっていて、次から次へと逆流してくる。
 生温かい水が腰まで到達し、無数の胎児が私の脚にすがりつく。振り払うこともできず、重くなっていく体が沈まないようじっと耐える。
 ふいに、握りしめていた携帯が震えた。あいつだ。
 もしもし、週末って会える?
 その能天気な声に苛立つ。胸まで浸かりながら私は言う。
 ねえ、殺していい?
 は?
 今すぐあんたを殺して、食べたいんだけど。


編集: 短編