第157期 #2
チリーン。
鈴が鳴る。気づけば、白い空間にいた。目を凝らしても、もやで奥は見えないが、隣には何故か本屋がある。木の板に、大きく墨で“奇文堂”と書いた看板を下げた平屋だ。カラスの張られた引き戸から本棚と番台が見えた。誰かいるらしい。半纏とベレー帽を被った後姿が見える。
突然現れた本屋に驚きを隠せないが、周りにあるのはこの本屋だけだ。気は進まないが、引き戸を開けることにする。
すると、ベレー帽が振り向いた。猫だ。
「おや、おかえりなさい」
古そうな老眼鏡を掛けた三毛猫が、俺に向かって笑いかけた。
「随分長くお楽しみでしたね」
俺は何のことか、分からず固まる。猫がしゃべることにも驚いたが、この猫が俺のことを知っているらしいことに戸惑ったのだ。
俺はこの店に一度も足を運んだことはないし、こんな猫にあったことはない。不思議な現象とは無縁の工場に勤める普通の男だ。今日も仕事帰りにビールでも買って、家で飲もうと帰っていただけなのに、こんな目に合うとは……。
「どうなさいました?」
「い、いや……」
おかしな猫だ。俺の幻覚か、または妖怪か、そんな類のものに違いないのに、丁寧に対応されているから、思わず返事をしてしまう。それどころか、多少いい奴なんじゃあ、という気さえするから怖い。
猫はこちらが戸惑っていることを察したのか、軽く微笑む。
「お疲れなのでしょう。休まれますか?」
そうか、俺は疲れているのか。そうに違いない。寝て起きれば、しゃんとするだろう。
「そうだな、少し休みたい……」
「わかりました。では、こちらに」
差し出されてたのは、本だ。真っ白なページを開いて、渡される。思わず手に取ると、表紙に手が触れた。少し凹凸のある布の感触がする。織り込まれた繊維がよく手に馴染んだ。この匂い、紙の質、何故か良く知っている気がする。
唐突に気付いた。
「……ああ、そうか」
俺はこの本の主人公だ。
パタンと音を立てて、本が番台の上に落ちる。何処からか、吹く風に本がパラパラと捲られた。ページには、先ほどまで見当たらなかった文字が見える。
猫はそれを拾い上げると、本棚に仕舞う。これで、一冊分空いていた隙間がきっちり埋まった。