第157期 #1
告別式は三日後だった。うるさい音を立てながら、僕は通学路に自転車を走らせる。赤フレームが隣に走らない、静かな朝だった。
『交通事故』
小学校のころ、体育館で警察のひとが口にしていただけの単語だった。町外れの交番の、色あせた掲示板の文字に過ぎなかった。
僕と彼女は、木曜日だけ朝練がかぶった。ユカはいつも、この海岸線で遠回りして、学校に通っていた。僕も木曜日だけ、この海岸線を通って走った。水平線をバックに映える彼女のシルエットを見つめる僕を、ユカはいつも笑った。「どしたの。事故るよ」が、「なに、恥ずかしいよ」、「バカ」に変わっていくのが面白かった。
……先に事故ったのは、彼女の方だった。
「朝凪っていうんだよ」
「え」
事故当日の朝、彼女は教えてくれた。朝、海岸線で風が止む現象だという。
「きれいな言葉だよね」
「うん」
打ち寄せる波と自転車の音以外、なにも聞こえない朝だった。女の子の弱さを白いブラウス越しに捉えながら、夏の坂道を走った。手を繋いでここを歩く日を夢想したりした。
その日の夕方、ユカは命を落とした。飲酒運転のトラック一台が、その後1年8ヶ月、通学路の景色を変えてしまった。
市場が賑わっているのを通り過ぎた。荷物を載せたトラックが、今日はまっすぐに走っていく。遠くの商店街からはJ-POPが漏れ聞こえてくる。
「あっ」
事故現場を通り過ぎた。花束が頼りなく、路側帯に置かれていた。ぽつんと。自動車が通り過ぎるだけで、飛ばされてしまいそうで。そのとき初めて、僕は泣きたくなった。賑やかな町の声が、近くのはずなのに遠く聞こえた。
「よぅ」
「え」
父さんの声。振り向くと、さび付いた自転車と染みだらけのネクタイがこちらに近づいていた。
「車じゃないの」
「今日は、自転車で走ってみたい気分なんだ」
遅刻ギリギリの出勤なんて、今まで一度もしなかった父さんだ。心配そうにこちらを見る瞳に、僕はそれ以上の追究はしなかった。
「静かだな。風もないし」
「朝凪っていうんだ」
「そうなのか。知らなかった」
父さんは興味深げに海の方に目をやっていた。
朝凪というのだ。
僕は知っている。
こうして風のない朝、僕はいつもその言葉を思うだろう。
あの花束がなくなっても、木曜日、僕はここを走る。そのたびに蘇るだろう。赤いフレーム、シルエット、照れ笑い……
大丈夫だ。
自転車で疾走しながら、なぜか、僕の心は凪いでいた。