第156期 #9
昨夜、どうでもいいことで喧嘩をした。オレが全部悪いんだということはわかっている。
もう3週間近くもいっちゃんとヤッてないって事実に気が付いたら、急にいっちゃんが欲しくなったんだ。仕方ないじゃん、男だし。思わず押し倒したオレに、いっちゃんはオレの腹部を膝で蹴り上げ、立ち上がった。いっちゃんは大きなため息と白い目でオレを見下ろしていた。股間を蹴り上げられなかったのはいっちゃんの配慮だろう。
朝起きたら、いつもと同じコーヒーの香りがした。時間的にいっちゃんは出勤しているはずだ。
ダイニングテーブルの上にはサンドイッチとマグカップが置いてある。マグカップの下にはメモが置いてあった。昨日はごめんね。明後日は早く帰ってくるから、って書いてある。
喧嘩した翌日はいつもそう。オレが悪いのに、いっちゃんのほうが先に「ごめんね」って謝ってくる。
椅子に座って、マグカップを持ち上げる。コーヒーは当然のことだけど冷めてしまっている。冷めてしまったコーヒーは、インスタントではなくてペーパードリップで淹れてくれている。冷めてもおいしいようにと、いっちゃんの心遣いだ。それを知ったのは、一緒に暮らし始めて初めて喧嘩した翌日の朝だ。
多分さんざん迷った挙句準備して出勤してくれたんだろう。片づけまで間に合わなかったみたいで、ドリッパーとかいろいろ出しっぱなしになっていたんだ。
その時は、凄く嬉しかった。朝食を食べながら泣いちゃったもんね。今日もありがとうって思っているけど、あの時の気持ちとは比べ物にならないくらい軽い感謝だ。
いっちゃんはなんで喧嘩した翌日にも変わらずオレのために朝食を作っていくんだろう、とふと思う。そんなこと、考えたことなかった。
でも、朝起きて朝食がなかったら、きっとオレは喧嘩したのを引きずったまま、いっちゃんが帰ってきてもきっと変わらない。同じ家でも1日数時間しか会えないのに、そんな状態だったらきっと謝るタイミングがわかんなくて謝らないだろう。そして、そのまま何日も口もきかないで、顔も見ないで過ぎて行ったら……。そう思ったら、ゾッとした。
初めて喧嘩したあの日も、今までも、多分今日も、いっちゃんはそんなことを思ったのかもしれない。そして、オレと一緒にいることを選んでくれていたんだ。
何もなかったみたいに用意してある朝食は、きっといっちゃんの愛なんだ、って思ったら涙が零れた。