第156期 #10

急ぐ理由

 暮れなずむ夕陽を背に、ひとりの女性が街を流れていました。
 三十代の半ば頃でしょうか。肌は白く美しいといえましたが、とりたてて美人というほどでもありません。身を装う衣服もありふれたもの。繁華街を進むその彼女の姿は、どなたが見ても一介の主婦といったところです。彼女はある一点のことに突き動かされて、心を急がせていました。 初めて接する景色には目もくれず、たおやかな風のように身体を進ませる彼女。記憶の隅に残っている住所を頼りに、でも迷うようなそぶりは見せずに、一心に急いでいます。離れて暮らす夫のところへと。

 彼女は気がかりを抱えていました。
 仕事で単身移り住むことになった夫がいるのです。結婚して共に生活を過ごしたのは数年でしたが、少々頼りなく、ついていないといけないという気持ちにさせられる夫が。
 朝はきちんと食事を摂っているだろうか。洗濯物のたたみ方を知っていただろうか。寂しがり屋のところがあったけれど、元気でいるだろうか。もしも夫が彼女の心中を読み取れたなら、「おいおい、俺は子供かよ」と呆れたことでしょう。

 夫の借りるアパートに到着し、彼女はまず台所に向かいました。1Kということもあり随分と手狭です。連絡もせず訪れた彼女に対し、夫は驚きつつも首をかしげていました。
 そんな夫に構わず、彼女は使用感のある水回りを眺めて終えてから、小さな冷蔵庫を開けます。中に入っていたのはレトルト食品が主ではありましたが、しっかり野菜も数種類入っていることを確認します。次いで彼女が向かったのは二層洗濯機が設置してあるベランダ。汚れ物は溜まっておらず、物干し竿や手すりにも埃は堆積していませんでした。
 ユニットバス、衣装ケース、寝具。そのどれも彼女が共に暮らしていた時のように清潔に保たれ、整理して収められています。彼女の表情は、どこか憑きものが取れたように穏やかになっていきました。

「おい、一体どうした?」
 彼女は夫の声に少しだけ、ほんの少しだけ残念な表情を灯します。でもすぐ柔らかな笑顔を浮かべ、玄関へと向かいました。
「待てよ、もう帰るのか。一晩ぐらい泊まって――」
 投げた夫の言葉。彼女の背中をすり抜けて、消えていきます、彼女と共に……
 呆然とたたずむ夫。妻が事故に遭い、今しがた亡くなったという訃報が夫に届いたのは数分後でした。
 
 彼女には急ぐ理由があったのです。どうしても、どうしても。



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