第156期 #18

男は時計になる

 或るとき牛丼屋で彼は考えた。今日から俺は時計になるんだ。彼はそう思った。時計がチクタク動いているのが、とても偉くおもえたのである。時計はがんばっている、時計ってがんばっているなあ。

 彼は無性に時計に感動したのであった。

 彼はロマンチストなのだろうか?

 いや、彼はロマンという言葉すらこの十年のあいだ、一度も心に思い浮かべたことはない。現代アートなる単語については目にしたこともなかった。彼はよくいえば真面目に、悪くいえば無教養に生きてきた。大事業を達成したわけでもなく、幸福な家庭を築いたわけでもない。教養を身につけようともとくに考えてこなかった。そもそも彼は毎日忙しかったのだ。自分のやるべき仕事があって、ひとまず夢中でそれをやっていると、一日はアッという間に終わった。一日は一週間となり、一週間は一年、やがて十年がすぎていて、彼は三十もすぎていたのだった。

「時計になるにはどうしたらいいんだろう」

 彼はビールをゴクゴクのんだ。普段、チビチビとしか飲まなかった彼は、自分が時計として生きることを考えると、気が大きくなってゴクゴクのむのだった。

「時計ってやつは、チクタクがんばっている。えらいやつだ。実に、えらいやつだ。俺は時計が好きだよ。止まらないのだもの。それでいて、やってることは単純なんだもん」

 彼は仕事が終るまでは人間でいよう、仕事がおわれば時計になろう、と決意した。そして牛丼屋をでるころ、彼はさっそく時計になっていたのだった。

 ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。

 彼は何も考えない。時計は余計なことをしゃべらないのだ。同じ間を刻んでいくのみである。

 ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。

 仕事と時計に生きる彼は、自分が幸せであるとか不幸であるとか、自分とは何者かや在るべき人生とは、といった問いとは無縁になった。それまでだって趣味があったわけではなかったが、あるとき彼はヨガと出会うことになった。

 ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。

 時計でありつつヨギーであることは矛盾しない。彼は身体を規則正しく呼吸させて動かすことで、より本物の時計にちかづけたような気がして、ヨガにはまっていった。

 そのうち、モテる人生とは無縁の彼のまわりにいつのまにか美女たちが集まるようになった。

「彼ってクールよね。他のオトコとはまったくちがう」

 スタイルのいいヨギーニたちは彼によく相談するようになった。

 ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。

 彼は時計になって聞く。



Copyright © 2015 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編