第156期 #17

羽化

 君はまだ覚えているだろうか。背表紙にそっとひっかけた脱け殻のことを。

 薄暗い書斎の床に寝転がって、君は漫画を読んでいた。私は君に背を向けたまま、二段組の小さな文字を目で追っていた。君は時折私に視線を投げたり、日に焼けた肩の、めくれた皮膚を触ったりしていた。そうやって、自らの背で縮こまっている、緑がかった白い羽が伸びるのを待っていた。私が途方もなく長い物語の千分の一を捲る。君がスリル溢れるアクションシーンのひとコマを捲る。私たちはお互い、好き勝手にページを捲ってばかりいた。
 日が落ちた部屋で、伸びきった半透明の羽を少し震わせて、君は欠伸をした。読み終わった漫画は床に放りっぱなしだった。まだ夕焼け色の残る空を、窓の向こうに眺める。羽は次第に乾いて茶色みを帯びていく。すっかり日が暮れてしまうと、私は物語が終盤に差し掛かったことを知った。
 暗がりで立ち上がった君は、私よりも背が高くなっていた。
「僕たちはページを捲る度に置き去りにされていく」
 君がつぶやき、私は静かに目蓋をおろす。

 窓から吹きこんだ風が、机の上に開かれたままの本を、ぱたぱたと忙しなく読み進めていった。羽の模様は葉脈へ、葉脈は一本の木へ姿を変える。指先に言葉を繁らせ、古くなればいったん落として新芽を待つ、その繰り返しで大きくなっていく。茹だるような青の季節に、自分の幹にとまった小さな命が、七日間という一瞬でぱちぱちと爆ぜ、散っていくのを見る。それは本棚ばかりの暗い部屋のなかで、色とりどりの星のように光っている。

 慣れない黒いスーツとネクタイに窮屈さを感じながら、十年ぶりにその部屋に入った。エアコンもついていないのにひんやりと涼しい。古くなった紙の匂いがする。机の上にぶ厚い本を見つけた。祖父がずっと読んでいたものだ。僕は、使う人のいなくなった椅子に座って、本の表紙をめくった。
 おばあちゃんにもらったサイダーを持って、おじいちゃんのところへ行った。おじいちゃんは毎日暗い部屋で本を読んでいる。おじいちゃんの部屋でサイダーをのむ。甘くて冷たくてぱちぱちはじけておいしい。さっきまでうるさかったセミの鳴き声が、やけに遠くのほうから聞こえる。
 ぼくは庭で見つけたぬけがらを、おじいちゃんにあげることにした。いつも読んでいるぶあつい本にくっつけて、あげる、と言ったら、おじいちゃんはせなかをむけたまま、少しわらったみたいだった。



Copyright © 2015 Y.田中 崖 / 編集: 短編