第156期 #15
「爺さん、素麺を茹でました」
或る夏の夕方のことである。すっかり腰が曲がって小さくなった婆さんは、割烹着を身に着けて私を居間まで呼びに来る。
「そうか」
そう言って重い腰を上げる。いつから私たちは互いのことを爺さん婆さんと呼び合うようになったのだろう。若いうちは自分たちが年老いていくことなんて想像もつかなかったのに、今では腰が伸びきっている自分たちの姿のほうが想像つかなくなった。
「わさびと、葱はあるかな」
「どちらも御座いますよ」
「そうか」
生きるということにたいしてどんどん執着心は薄れていく。そうだ、それはまるで素麺をすするようだ、そっけなく味気のない素麺を、惰性でするすると口のなかに流し込むようだ。それは決して苦痛などではない。ただいつからかそれが私の生き方になった。
わさびが鼻の奥でつんと香る。向かいの席で婆さんも静かに素麺をすすっている。
「……ああ、蜩が鳴いていますね」
儚くも美しい蜩の鳴き声だ。それに混じって縁側にかけてある風鈴の音もする。ざるの中の素麺はもう少なくなっている。
「婆さん、まだ素麺はあるか」
「茹でればありますよ」
「頼む」
不思議なことだ。味気ないと思っていた素麺も、私はまだ美味しいと感じることができる。とても穏やかな時間だった。暑さも忘れる、或る夏の夕方のことであった。