第155期 #7

いくところ

 死神はおもむろに手帳を開き、私の名前を書き記した。何かやり残したことはあるかと問われ、私もおもむろに自身の手帳を開いた。やるべきことは手帳の中に数多く記されていた。片づけるべき仕事。読むべき本。行くべき講演会。飲むべき薬。通帳記入。家賃の振り込み。洗濯。掃除。
 死神は私の手帳を覗き込み、鼻白んだ顔をした。情けない奴だな。今生の別れだというのに、会うべき人のひとりもいないのか。
 いない、と私は答えた。いや、ひとりいる。ここに記されていない人。私の住所録に記されていない人。その顔も名前も私の知らない人。
 私が心から愛することができたかどうかすらわからなかったニンゲン。
 向こうへ行けば会えるのでしょうか。そう問うと、死神は、さあな、と答えた。あちらは広いからな。こことは比べものにならないぐらい広い。何層にも見えないままに重なって、そして、流れている。形なく。
 そうであるならば、と私は思った。私のやり残したことは、ただのひとつでありましょう。
 会社に電話をさせてください、と私は言った。ひと言もなく消えるのは気が引けるので。
 好きにするがいいさ、と死神は言った。私は電話をかけた。電話はつながらなかった。つながるはずがなかった。気づくと私は茫洋とした世界に形なくひとりたたずんでいた。向こうのほうに霞のような淀みが見えた。
 そうであるならば、と私は思った。私のやるべきことは、ただのひとつでありましょう。
 私は流れ始めた。霞は薄光のなか瞬いていた。



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