第155期 #6

くらがり

 夕方、大手町で乗車したベビーカーには赤ん坊がいなかった。座席は帰途につく燃えがらの人々でいっぱいで、だれもその親子に気がつかないようだった。からの乳母車をおした母親のあとに、赤ん坊を抱きかかえる父親が見えて、ぼくはすぐに席を立ったけれど、ぼくのことは見えていないようで、二人は電車が動き始めても立ったままだった。
 夫婦は一言も発しなかった。父親は地下鉄の黒い窓を見ていた……彼自身と子供の丸い尻と奥さんの横顔が映っているだけの鏡のようなもの、絶え間なくトンネル内の蛍光灯が筋を作る。母親は、父親の肩にふくふくとした柔らかそうな頬をのせて眠る、子供の顔を見ていた。それは儀式なようなものだから、二人はなにかを見ているようでなにも見ていなかった。儀式のようなもの。夫婦は喪服だった。
 母親が、ぼくが立って空いた席に気づいて、まるで最初からだれもいなかったようなかんじで、「座んなさいよ」と夫に言った。「座りなよ」と夫が言った。それ限りで、二人とも座らなかった。
 突然、子供が目を覚まして、泣きはじめると、車内の停滞した空気がすぐに不穏なかんじで充満した。すべての人が親子をにらんでいた。ぼくは面接担当の目を思い出した。
 子供を抱きあげて、母親がなんとかあやそうとするが泣き止まないのを、夫はじっと見つめていた。揺れる電車。なぜ泣いているのかは、実は親にもよくわからないのだった。ぼくが降りる駅に着いたときにも、子供がぴたりと泣き止むことはなかった。
 エスカレーターでぼくのすぐまえに、小学三年生くらいの男子三人がいた。
「お前、子供がどうやってできるか知らないの?」やせた背の高いやつがいった。
「知らないよ、そんなこと」太った背の低い男の子が、恥ずかしそうに言った。
「しかたないな、教えてやるよ。まず、男性器を……」

 その日の夜中、うなされて目を覚ました。吐き気をもよおして、便所に歩いていくと、アパートの床、天井、壁、ぼくの手や体のなかに、平然と鎮座して、古い思い出のふりをしている悪夢が、たったさっき見ていたはずの悪夢が、にじみだすように思い出された。
 電気を消した部屋のベッドのうえで、喪服のままで抱き合う夫婦の愛情を、くらがりのなかから、そっと、静かにたたずんで、見ているぼく、そんな夢。 



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