# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 亡骸 | なべやきうどんと薬味 | 922 |
2 | このまま進むと…… | 池田 瑛 | 999 |
3 | 風は誘い、闇は囁く | 星砂スバル | 794 |
4 | 貪欲 | 春桜 萩 | 318 |
5 | 食べられた男 | 岩西 健治 | 936 |
6 | 夏= | 桜 眞也 | 683 |
7 | 実現 | 宇治件愛 | 587 |
8 | かの声 | 三浦 | 1000 |
9 | 記載の通り | わがまま娘 | 994 |
10 | 銀座、仁坐、隼坐 | Gene Yosh (吉田 仁) | 1000 |
11 | ハウ・トウー・ボーーン | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
12 | トンネル | kyoko | 998 |
13 | 目撃者 | たなかなつみ | 615 |
14 | カフカフ | euReka | 1000 |
15 | この言葉はあなたに読めますか? | qbc | 1000 |
16 | リヴァーオブサンド | キリハラ | 999 |
17 | 祓魔師 | かんざしトイレ | 1000 |
18 | 戸山キャンパスの下には | 五十音 順 | 1000 |
意気消沈し何かの拍子に自殺しようとした。未遂に終わってしまい父に自殺がバレた。父は、間抜けな顔をしていた。
ベルトをカーテンの棒に括りつけて死ねる気でいたが人間の体重を支えきれる程、丈夫じゃなかった。留め具が外れてしまった。
死のうとした理由はわたしがこの世の中にいる事で迷惑をかけてしまうしどう足掻いたとしても散々な結果だからだ。
諦めんなよ! と言ってくれる人がいるかもしれない。だが二次元のようなファンタジーならまだ希望はあるけれど三次元という現実は甘くない。
確実に人生を詰んでいるわたしにどう足掻けば望みがあるのかご教授願いたい。
頑張れ、負けるな、生きろでは何をどう頑張ればいいのか分からないのだ。
自分で考えろ! と言われるかもしれないけど死ぬまでに至り、わたしなりに深く考えてきたつもりだ。
自信が粉砕され大人の醜さに嫌気がさしてなぜこんな事になってしまったのかと遠い目で過去を見つめてきた。
あの頃に戻りたいかと問われても絶対に戻ってもいいことがないから戻りたくはないけど未来に向かって生きる気力も湧かない。
怒られるのはもう嫌だし愚痴や 悪口や暴言も聞きたくない。
一人になりたい。
人と関わりたくない。
人を傷つけたくない。
逃げてしまおう。
わたしは母の人形じゃない。
本当のわたしを受け入れてほしかった。
わたしはわたしを受け入れられない。
それでも生きなくてはならないのか。
小さい頃にわたしはアパートで暮らしていた。蝉が桜の木にはりついている。わたしは蝉の亡骸を拾い山にすると靴で踏み潰した。バラバラに砕ける蝉は一つになったみたいだ。
わたしはこの遊びが大好きだった。
バッタを掴んで足を一本ずつブスリと引き抜くと変な体液がでた。ビクビクと痙攣する触角も引き抜いてしまうと放り投げる。
今度はミミズを捕まえて切断すると這いずり回る体は次第に動かなくなる。
首を縄に引っ掛けて少しずつ締まっていくのを感じた。まだ呼吸をしている。
全身の血液が脳へ集中し膨張していくのが分かる。苦しくはなかった。
瞼はすぐに降りて安堵と否定が交じり震えがわたしを襲う。
あの時に引き抜いた虫達のようにわたしは残骸の一つとなっていく。
「昨日、私の所に届いちゃった」
「え? まじで。いつ行くの?」
「明後日。だから、午後の講義は出ないつもり。休学の届け出したら、市役所とかに行かなきゃならないし」
「付き合うよ」
「ありがとう。そうだ、私の冷蔵庫に残ってる野菜とか、あと米とか持って行ってよ。捨てちゃうの勿体ないし」
「遠慮無く貰います」
「うん」
「なぁ、馬鹿な質問しちゃうけどさ、やっぱり赤い紙だった?」
「まさか。単なる茶色い封筒に入った白い紙だったわよ。書留だったけど」
「そっか。そうだよな。どれくらいの期間、行くの?」
「訓練半年、現地一年って書いてあった。期間延長有りらしいけど」
「じゃあ、最低でも二留しちゃうってことか」
「健二と一緒に卒業したかったな」
「う〜ん。でも、俺にもそのうち届くと思うよ。お互い無事に戻ってきて、一緒に卒業しようぜ」
「なんか楽天的ね。でも健二らしいかも。私達、遠距離恋愛になるんだよね?」
「そうなるな」
「浮気しないでよ」
「するか」
「本当に?」
「くどい」
「ごめん……」
「親には言った?」
「うん。さっき電話した」
「会いには行かなくていいの?」
「明日、お母さんがこっちが見送りに来てくれるって。お母さん、泣いてた……」
「それは、そうだよな……」
「私、髪、ショートにするね。美容室も付き合ってくれる?」
「髪、伸ばしてたんじゃないの? そんな規定があるとか?」
「いや、ないと思うけど。卒業式に袴着るために伸ばしてただけだしね」
「せっかく伸ばしたのに勿体ない」
「切った髪、健二にもあげようか?」
「そういうの、縁起悪い感じがするんだけど」
「そうだけど……。ごめん」
「ノート、取れる内は、ちゃんと取って置くからな」
「本当に? うれしい。だけど、健二がノートを取ってるところ、見たこと無いけど?」
「大丈夫だ。任せろ」
「黒板をスマホで撮影しただけとか、そんなのは嫌だよ? あと、読める字で書いてよね」
「う、まぁ、なんとかする」
「期待しておくね。健二、キスして?」
「うん」
「……」
「……」
「私、どうしても行かなきゃいけないのかな?」
「法律上は、としか俺は言えない」
「ねぇ、このまま2人で逃げちゃおっか?」
「まさかの愛の逃避行!」
「乗るなら最終の各駅停車ね。リニアだと風情がないわね。トラックの荷台に2人で隠れたり?」
「まぁ、直ぐ捕まるだろうけどな」
「夢がないわね。ちょっとは私の現実逃避に付き合ってくれてもいいじゃない」
「あ、ごめん」
黄昏時、一人で暮らしていたアパートの窓を開けたら、
ひんやりとした空気を伴って、街の風が流れ込んで来た。
ここ何年も、便利な都会での生活に慣れ切ってしまい、
仕事場とアパートの往復を繰り返しているような生活にどっぷりと浸かっていたもんだから、
アパートの窓を開けた事なんて無かった。
まさか、こんなに気持ちいい空気が流れ込んでくるなんて…
その空気に誘われるかのように、僕は外へ出かけた。
久しぶりに見る、澄み渡るような空。
段々と夕焼けに染まってゆく西の空を見て、ふと、自転車を漕ぎたくなった。
夢中で沈みかける太陽を追いかけて、
太陽が遠くの山間に落ちる瞬間を見ようと、
周囲には人気も何もない川の土手の傍らに、自転車をほっぽって、
土手の上へと急いで駆け上がった。
太陽が稜線へと差し掛かり、一瞬、電球のフィラメントが切れるような眩しい光を放つ。
そして、その姿が失われてから程なくして、辺りはスーッと闇に染まってゆく。
闇に抗うかのように浮かび始める、遥か遠くに見える街明かりと、
肌寒さを感じさせ始めた空気が僕を取り巻く。
先ほどまで聞こえていた虫の音や鳥の囀(さえず)りも
まるで闇に吸いこまれたかのように聞こえない。
僕と言う自我の意識が、溶けて消えて行くような感覚に陥り、
あと少しで、何もかもが無くなってしまうような、
そんな事をふと感じた時に、急に意識は現実に引き戻され、
そんな空気に居た堪(たま)れなくなって、僕はその場所を後にした。
彩り豊かな街での暮らし。
普段から聞いていた都会の喧騒。
それは人が存在している事の証明(あかし)。
無くなって気付く、周囲との関わり。
改めて思う、僕の小ささを。
彩りや音は僕に想像をかき立たせ、
生きる力を呼び起こしていたんだ。
夜の到来を告げる風が、僕を導くために、あえて闇を晒して見せてくれた。
僕のいる世界は、静寂と寂寥の世界で出来ているんだって事を。
「あんたなんて嫌い」
グサッ。
言葉は凶器となって、私の心臓に突き刺さった。ズキズキ。ドクドク。傷ついた心が血を流している。
「だいっきらいよ」
出血は致死量に達したのにも関わらず、私は生きてる。死ぬほどの傷みを受けて、まだ生きている。
あとどれだけ、生きればいいのだ。
また切り裂かれ、抉られ、潰されて、それでも死なず、生かされていくのだろう。
まぁ、生かすのも殺すのも自分次第だけれど。
「好きよ」
嗚呼、まだ生きていたい。死にたくはない。この幸福に埋もれていたい。
けれど幸せな内に消えたい。
あの痛みで死ぬくらいなら、この幸せに死にたいよ。だから殺してくれと云うのは卑怯だろうか。愚かだろうか。
けれど時間を止めてしまいたくて、私は目を閉じたのだろう。
立ちくらみのような感覚から覚めてようやく目を開けると、辺り一面は金色に輝いていた。何か金色のものが光っているというよりは、空気全体が金色に輝いていて、上を見上げれば龍の姿に似た雲がいく筋も流れている。遥か先には虹も見えた。が、これが誠におかしな虹で、ピンク色のアーチしか見えやしない。ピンク色の下はもう全てが白なのであった。
「そうだ、あいつは、あいつはどこいった?」
辺りを見渡したが、ここには男ひとりしかいなかった。先程まで目の前にいた連れの女はおろか、店員や他の客の姿もない。
(俺はどうしたんだ? 何で急に……。確かうどん屋にいたはずだったのに。昼飯、部下の山岡と一緒だったはず。まさか事故に遭ったとか。トラックか何かが店に突っ込んできた……。走馬灯なんて……見なかったが。死後の世界は居心地のいい場所だってのは、はなしには聞いたことあるが。ここは……なのか? 三途の川は果たして渡ったのか? それにしても……匂いだ……)
男以外誰ひとりいなかったが男は恐怖を感じなかった。むしろ、何だか温かくていい心持ちなのである。おまけに旨みのつまった匂いが男の鼻腔を心地よく刺激してくる。
「うまそうな匂いだなぁ」
男が匂いににんまりしていると突然地面が揺れて、辺りが空気ごと左右に揺さぶられた。揺さぶられたかと思うと急に風が吹いてきて(それは、風というよりも竜巻といった方が正解なのかもしれないが)男はあっという間にその風に吸い上げられてしまった。男の体はいとも容易く持ち上がった。
(あぁ、この嫌な感じ……、風が腹にあたるこの感じ……、小さいころ……、腹にあたる空気の圧力が怖くてブランコには乗れなかったなぁ……)
男は両手で腹を押さえ、そんなことを思いながら吸い上げられていく。男の体は既に龍のような雲にまで到達していた。男が目の前の雲に触ってみると雲には以外と弾力があって固くしっかりとしている。男はその雲と一緒に遥か上空に見える暗い穴の中に吸い込まれていくようだ。穴の周りには石英らしき白い岩石が規則正しく連なっているのが見える。
「俺はどうなってしまうんだぁぁぁぁぁ……」
男の意識は朦朧とする。意識のなくなる瞬間、男は悟った。
(あぁ、俺はうどんの中に落ちたんだな……)
太陽が照る8月中旬。彼は一生懸命に自転車のペダルを漕ぎながら国道沿いを突き抜けていた。彼の汗がポタポタとアスファルトに落ちる。吹き抜ける風がそぎ落としていっているのだ。しかし、彼は途中で鼻の辺りにも湿り気を感じる様になった。汗ではない妙な感覚が全身に走る。彼は右手でぐいっとそれを拭った。見ると、赤く鉄臭い液体がへばり付いている。鼻血だ。今すぐにでもちり紙でも鼻に詰めたいが、そんなことをしている暇さえも彼にはなかった。かまわずペダルを漕ぎ続ける。鼻血が風圧に負け地に叩きつけられている。彼が進んだ位置には血の道しるべが出来ていた。
先程、先生から電話が掛かってきた。「早く来なさい」と落ち着かない様子で言葉を発していた。
顔が塩水でぐしょぐしょになってきた。今になって後悔する。あの時もっとしていれば。こんな気持ちにさせられることもなかっただろうに。彼はペダルを思い切り踏みつけ走る。もう後悔しても遅い。時間は待ってくれないのだ。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょおおお・・・・。叫びたい衝動に彼は駆られ、全力で叫んだ。隣で歩いていた老夫婦が驚いてこちらを見つめてくる。そんな視線もお構いなしに彼は角を曲がった。目的の場所へ着く。もう皆来てるだろうなあなんてのんきなことを考えている場合ではない。自転車を駐輪所へ参謀に投げ込むと、全速力で入り口に向かった。中は静かだ。当たり前のことなのだが、彼に思考する力は残っていなかった。4階の部屋の前に着く。ガララッと扉を開けると、皆静かにしていた。先生が、こう告げる。
「午後14時46分、ご臨終です。」
・・母さん・・・・・・・・
昔、中国の或る都市に一人の少女が居た。少女は死刑囚でだった。もともと彼女は売られた女であり、売春婦になるはずだったが、宿の主人が少女に客をとらせるため、手ほどきをしようとしたら、反抗され、性器を噛まれさえした。都市の有力者である彼は激昂し、彼女をいたぶった後、死刑にするよう企てた。
少女は石畳に横になり、這う蟻を潰していた。牢は退屈であったが、恨みを育てるには格好の場所だった。彼女がいる牢は、死刑囚用の牢であり、少女とランプと死んだ虫の他には何もなかった。格子の前に宿の主人が現れた。彼は手に紙に包まれた何かを持っていた。横になっている少女にぶつけられたそれは、少女の母の腕でだった。しかし、少女は無反応であった。反応すると彼は喜ぶだろうと少女は思ったのである。しかし、彼は少女は発狂したのだ、と思い、笑った。暫く少女を観察した後、彼は去った。暫く死人の腕を見つめた後、彼女は眠った。
少女が目覚めたとき、既に異変は起きていた。都市の政務官の例の宿での会合に、農奴の軍勢が押し寄せ、その場に居たものを皆殺しにしたのである。少女の想像は現実のものとなった。宿主も惨殺されたのは言うまでもない。先導者は少女を救出した。というのも、彼は少女が牢に連行される様を目撃していたからである。少女はひどく衰弱していたが、回復した。
先導者は、帰る家のない少女を養子に、立派に育てた。
私が手を挙げると隣の男も真っ直ぐ手を挙げた。監督官が男を指し、室内からまた一人いなくなった。八人。監督官は椅子にかける一人一人の前に立つと、今度も家族に関する記憶を語るように短く促した。皆が淀み淀みようやく絞り出すように語ると監督官は握り締めた拳を振るった。歯を遠慮がちに床に落とす音が順々に起こり、監督官は私の前に立った。私は娘が赤い爪切りを抱いて寝たがったことをはじめて思い出したが、すぐに空想との区別がつかなくなった。私は殴られた。監督官は待っていたが、今回は私の歯が堪えた。新たに八つの記憶が追加されると監督官は所定の位置について死にたいものは挙手するようにといった。今度は私だけだった。室外には監督官と同じ制服をつけた男が退屈そうに待ち構えていた。男は一言も発さぬまま光の差さない室内に私を押し込んだ。床の意識が保てなくなるまで動かなかったが暗闇は一定だった。壁伝いに進むとすぐに何かにふれた。耳を澄ますとかすかに声が聞き取れた。泣いているようだった。すると衣擦れに似た同じ音がいたるところでこだましているのに気づいた。ここから出たくはないかと耳元で低い声がした。私はここに五年いる。そんなわけはなかったが私の腕をつかむ手を引き剥がしはしなかった。床が土に岩に、見えているような足取りについて歩くと金属の凶暴な音と共に光が戻った。しかし光は弛まなかった。白い中で低い声がいった。この馬に乗れ。腕が私を押し上げて馬らしい上に跨がるとまもなく上に下に動きだした。馬に従えといった声が遠ざかる。おまえはいかないのか。私はここに五年いると低い声が大声でいった。揺れの中で痛みだけが感じられた。起伏と石を踏む音に移って百が百度現れるころ馬だと思っていたものが力尽きた。私を下に敷いたそれはきれいな発音ですまないといった。低い声だった。私の脚が軋み石が鳴った。白い中で長い時を過ごした。おまえはここで死ぬのかと私の上で声がした。聞き覚えのある声だった。私は記憶の部屋を訪れ、声の主をさぐった。父母でも妻でも子供たちでもなかった。部屋のどこかで聞き覚えのある声がする。すまないが私はおまえを助けることができない。私は石を踏む音が遠ざかっていくのを聞いた。おまえはどこへいくのだ。わからない。だが、おまえのかわりにいこう。部屋のどこかで声がした。聞き覚えのある声だ。私は目をひらいた。そこに声の主はいた。
「お義母さんが零くんのお茶の淹れ方を教えてもらって来いって言うのよ」ごめんなさいね、とおばあさんが苦笑いを浮かべてオレを見た。
「特別なことなんてないので、教えるもなにもないですが」オレもおばさんに苦笑いで返す。
オレがお茶を淹れるようになったのは、仕事で煮詰まって八方塞がりになっていた時だったと思う。なぜか食器棚に急須が置いてあって、淹れてみようと思った。お茶の淹れ方は、小学校の時にならった記憶はあるけれど、実際はよくわからなくて、パッケージの裏に書いてある淹れ方を見ながら淹れた。コーヒーとは違う苦みと煎茶の渋みがその時のオレに閃きをくれた。
それから、なんとなく休憩はお茶、と思いお茶を淹れて飲むようになった。とはいえ、別にお茶に凝っていることかではない。
高級茶葉でいつものようにお茶を淹れたことがあるが、その茶葉には茶葉の淹れ方があるようで、全然美味しくなかった。オレにはスーパーに売っている茶葉が丁度いいのだ。
「一応パッケージに書いてある通りなんですけど……」と言いながら、オレは茶葉を2杯、急須に入れた。その茶葉の量を見て、「茶葉って、そんなに入れるのね」とおばさんが言う。
「パッケージに記載の量だとこのくらいになるんですよ」と苦笑いのオレ。
「沸かしたてのお湯は熱いので、このまま淹れてしまうと苦いんですね。だから、一旦湯呑みにお湯を注ぎます」
オレはそう言って、湯呑み2つにポットからお湯を注いだ。「で、オレが思うにお婆ちゃんは、ぬるいのが好きなんですよ」と添えて、オレは別の湯飲み2つに湯呑みのお湯を移し替えた。
「で、冷めたお湯を急須に入れて、1分程待ちます」この間に、湯呑みの湯を布巾でふき取る。
「急須の空気孔は注ぎ口と同じ位置になるように蓋を回して、注ぎます」と言って、オレは2つの湯飲みに均等にお茶を注いだ。最後の一滴まで絞り出す。
「こんな感じですけど、どうですか?」とおばさんに湯呑みを渡す。それを一口飲んで、おばさんは「やっぱり基本は大事ね」と言った。
おばさんが帰って行ったあと、オレは「やっぱり基本は大事ね」と言ったおばさんの顔を思い出した。
オレにお茶の淹れ方なんて聞かなくてもちゃんと知っていたはずなのだ。ただ、何かにかまけて疎かにしていた、ということなのだろうか。
あの日、煮詰まったオレを助けてくれたお茶も、オレに基本を思い出せと言ってくれただけかもしれない。
梅雨入り間近の銀座は着物も衣替えの季節。3年前、ロンドンでオリンピックが行われた時期、この6月は日本からメデイアの顧客が大挙、ロンドン競技場の放送、メデイアセンターへの機材輸送でごった返していた。通常、放送センターは国際展示場、ビックサイトのような会場にそれぞれエリアが割り振られ、その場所場所にスタジオやオフィスを作製し、終了すればすべて壊す方法を取るのであるが、ロンドン五輪の場合、施設そのものを簡単に作り上げ、終了後すべて解体するため、大きなは搬入口やエレベーターなど特別仕様の設備は全くなく、そのため、搬入、搬出は混雑を極め、すべての輸送業者は段取りをいかにスムースに行うか、管理監督が求められていた。7月中旬から開催であるが1か月前から乗り込む顧客のため、当社も現地入りし、充分な打ち合わせをしたのだが、それはそれ、欧州の気質というか、なかなかうまくいかず、警備も厳しいことも相まって、混乱を極めたのである。
吉田は顧客と銀座の娘たちとママを引き連れ、鉄板焼肉のレストランで、初夏の彩りを深めた、花々を鏤めた熱い俎板にシェフを取り囲んだのであった。と突然、車エビの油のかたまりが一人の女子の着物に向かってパーンと激しい音とともにはじけた。着物は無事だったが、前掛けの胸元に油が広がった。「申し訳ございません」シェフが謝ると「大丈夫です」と女子の大きな声、と突然、吉田の携帯が鳴り、事務所からロンドンの搬入がうまくいかず、本日の現地午前の打ち合わせで困っているいるとの事。直接、現地顧客から吉田に電話が入るとのこと。
「申し訳ございません、現在、大変混雑しておりまして、時間が掛かっております、もうしばらくご辛抱願います」しかし顧客からは大丈夫ですとは返ってこなかった。しかし、ちょうど、一緒に食事をしていたのがこの顧客の技術系のトップの方、吉田が食事中に困惑しているのを見て、あとで懲らしめておいたとの事。本人が大丈夫ですといったかどうかは知らないが、その夜はいろいろな意味で盛り上がった。夏の五輪とワールドカップサッカーは2年ごとに開催するが、今年は女子のワールドカップが前回優勝を受け、期待されカナダで開催となる。7月中旬には連続優勝を掛け、なでしこが歓喜に踊るチャンピオンのセレモニーがまた、見られるか。銀座のなでしこもさらに彩りを増し、浴衣、夏のコスプレのシーズンで盛り上がるのである。
本が売れない時代である。小説を読む人口もかなり減っているそうだ。リアリティのない作り話である「物語」も、セキララな自分語りの「私小説」も、今ではインターネッツの普及によって潰されたといったら言いすぎだろうか。みんなが自分の恋愛問題や、性欲、借金などのゴシップをときには映像つき文章で無料公開している。今でも小説に力はあるのだろうか。
「1週間で1流になる」
小説が売れない一方で、「どうすれば金持ちになれるか」といった類の本は比較的人気があるらしい。代介が買った本もそうだった。その本の題名は「ゴミ人間から脱出する」。代介は28歳。独身で、最近職場で契約の仕事をうちきられたばかりだ。都会の人混みのなかにいると「人ゴミ」という語感がぐわんぐわん、鳴り響くのだった。ゴミとは俺のことだ、と思ったのである。
実際に代介の部屋は汚かった。帰ってもしかたがないが、街にも居場所がない。水の流れに従うように本屋に吸込まれた代介は、最初「1週間で1流になる」という本を手に取ろうとした。けれど、つかのま自分の靴をながめてみてひっこめた。「ゴミ人間から脱出する」が自分にはちょうどよく思えたのである。
本は0章と書かれたところ以外は各章ごとに袋とじ形式になっている。
「一冊の本と出会うにも無限にちかい偶然の連鎖を必要とします。あなたは残念ながらゴミ人間なのです。なぜならあなたの潜在意識がその事実を認めてこの本を手に取ったのだから。話は簡単です。ゴミは捨てましょう。まずはしがらみを捨ててください。今すぐ全財産をかきあつめて、この本と夏目漱石の『こころ』、ミネラルウォーターを6リットル買ってから清潔なビジネスホテルのシングルルームを3泊予約してください。それでは次章でお会いしましょう」
代介は言われるとおりにした。指令があるということが嬉しかったのである。一泊2500円の格安ホテルを3泊分、水と本を買っても1万円でおさまった。早速ホテルの部屋で、フロントからかりたハサミをつかって1章を開いてみると、これから3日間、水だけですごし、意識があるかぎり漱石の『こころ』を音読しなさい、テレビも電話も触ってはいけませんと書いてある。部屋から出てもいけない。
代介は「やってみるか俺はゴミなんだから」と呟いた。理由も考えず、無心で漱石を朗読していると喉がかわいた。水を飲んだ。ひたすら音読していくなんて28年間ではじめてだった。
搭乗手続き終了間近を知らせるアナウンスが流れる。
もう、行かなければ。
私の隣にいる彼はさっきから何も喋らない。
もう永遠に会わないかもしれないのに。
最後に何か言うことはないのだろうか。
ほら、もう後10分だ。
大学で君に出会った。
何度か会ううちに付き合い始め、私達はとてもうまくいっていた。
そして2年生になった頃、私はかねてからの希望だった留学を決めた。
出国の日を伝えると、じゃあ空港まで送るよと車に私の荷物を積んでここまできた。
いつもと同じ笑顔。同じ会話。
今日はいい天気だね。そういえば昨日妹がこんな事言ってたよ。今日はこの後バイトなんだよね。
私達が話をするのはいつも「今」の話。
まるで明日も今日と同じ日が繰り返されるかのような錯覚に陥る。
向こうに着いたら連絡するね。一時帰国が決まったら電話するね。
いつ、日本に帰ってくるの。
そんな「未来」の話は一度も出てこない。
明日からは別々なのだ。
何となく始まった私達だから、何となく終わるのだろう。
立ち上がってスーツケースに手をかけた。
「じゃあ」
視線が彼の胸あたりを泳ぐ。
さよなら。
「君は」
独り言のような声がして。
「それで、平気なの」
私の肩に彼の腕が伸びてくる。
息をのみ、逃げるようにしてゲートへ向かった。
「さよなら」
振り返らなかった。
周りの音が遠い。
飛行機の飛ぶ音もアナウンスの声も水の中で聞いている音のように篭もっていて。
彼の言葉が耳の奥で何度も繰り返される。
ふいにその力強い腕を思い出した。
目尻にしわを刻んだ優しい笑顔、触れる指、固い手のひら。
広く暖かな胸、髪の香り、少し冷たい唇。
私の名を呼ぶ、声。
うつむくとぽたぽたと涙が落ちた。
彼が触れようとした肩を抱きしめると、びりびりと痺れた。
これで彼も決意するだろうか。私とは別のあの国への留学を。
もうすぐだったはずだ、最終の締め切りは。
私と離れたくないから留学を迷っていると。
友達との話を立ち聞きしてしまった時、繋ぐ手に未来を見つけることができなくなった。
地面が遠くなっていく。
暗い夜の空を飛ぶ。
飛行機の細長い天井を見上げる。トンネルのようだと思った。
過去と未来を繋ぐトンネル。
ここを抜けたら。
私は新しい光の中に立つ。
窓を覗き込むと、太陽の名残がうっすらと地平線を浮き上がらせていた。
日本のある方向だ。
たまらずに指を伸ばすが、冷たい窓ガラスに弾かれた。
震える呼気が窓を曇らせる。
私は長い間そのまま動けなかった。
声を出せと言われる。言葉を発しろと言われる。そうしないとおまえはここで終わりだと言われる。
何が終わりなのかについては、教えてはもらえない。その時が来れば、引き立てられ、押しやられ、連れて行かれるのだ。
どこに連れて行かれるのかについて、知ることはできない。
声はとうの昔になくした。言葉は身体中を渦巻いているが、自身を表現する道具として使いこなす能力はとうの昔に失った。
ただ、うなだれる。
打たれる。殴られる。蹴り倒される。
おまえは知っているはずだと言われる。見ていたはずだと言われる。それをそのまま口にすればいいと言われる。何も難しいことはないと言われる。
それが困難でないと言えるのは、言葉を操る訓練を受けているからだ。喉が声を発するように。顔の筋肉が言葉を発するのに適した動きをするように。自分のなかで散逸してあふれかえっている言葉が、理をもった一連の意味をもった流れとして発声できるように。
わたしは身体のなかで同じ言葉を繰り返す。何度も繰り返す。何度も何度も繰り返す。何度も何度も何度も繰り返す。
わたしには何ひとつ理解できたものはなかった。
それを伝える術は、わたしにはない。わたしはただうなだれ、打たれ、殴られ、蹴り倒される。
いつになったら終わりがやってくるのかは、まだ知らされていない。いつ知らされるのかも、当然のごとく、知らされない。
わたしには、いつも、いつでも、知らされない。ただ、流れていくだけ。
羊のように毛がおおっていて頭がついている動物である。走り回ったり吠えたりすることもないので実に退屈な動物だが、エサはあまり食べないし、従順で、子どもにも飼うことができる。そして時折、肺に穴が開いたような声でカフカフと私へ訴えてくることがあったので、私はよくそいつの頭をなでてやったものだ。
しかし近所の人はその動物のことをあまり快く思っておらず、そいつを庭で飼い始めてからしばらくすると、挨拶をしても苦笑いしか返ってこなくなった。その理由は、初め羊ぐらいの大きさしかなかったそいつが、半年後には象ぐらいの大きさになってしまったことにある。このままでは庭に収まりきらないばかりか、いずれ近所にも迷惑がかかるだろうと推測できた。
私が引っ越しを考えたのは、そいつが鯨ぐらいの大きさになった頃である。そいつが申し訳なさそうにカフカフと訴えてきたので、私はそいつの頭をなでてやったあと荷造りを始めた。そしていざ出発という日になると、突然近所のお婆さんが声をかけてきて「なんだか追い出すようなことになってごめんね」と言いながら私に餞別をくれた。
それから何日もかけて引っ越し先の草原へ辿り着くと、私は棒のように倒れてしまった。その動物の体はさらに野球場ぐらいの大きさになっていたが、この広い草原なら誰にも迷惑はかからないし、そいつがいくら大きくなっても構わないと思った。
私は小川の近くに小屋を建てて暮らしたが、そいつも勝手に生きているようだった。あまりにも大きくなりすぎてしまったために以前のように世話ができなくなったし、頭は膨張した毛の中に埋もれてしまった。そいつが千メートル級の山ぐらいの大きさになった頃には、すでにそいつの体には草や木が生え、川も流れていた。私の小屋は山の一部に取り込まれ、かつての草原もその姿を失っていた。いったいどこまで大きくなるつもりだろうと私は不安になっていたが、あるとき大きな地震が起きたあと山は少しづつ高さを失い、今度は水平方向にどこまでも広がっていった。
やがて平地になった場所に人々が移住してきて、農耕をはじめたり村や国を作りはじめた。
私は森の中で暮らしていたのだが、あるとき国の役人が訪ねてきて国民になれと言ってきた。しかし私が拒否すると数日後に軍隊が森を取り囲んだ。
私は軍隊に向かって両手を挙げながら空を仰いでいた。
あいつはきっと殺して欲しかったのだろうと。
海振の季節が到来した。街の目抜き通りは買い物客でごった返していたが、烏達は旅の準備を始めた。
漁帰りの船から生臭い香りが、季節風に乗って通りを上る。加えて誰彼構わず往来にゴミを捨てる土地である。腐りかけた残飯と混ざり合い、広場の空気は眼窩にしみ、それでいて腹の底をうずかせる。
住人は薄汚れた服を干すのと同じ窓から生ゴミを放る。中身は魚や肉、近隣の森に生える香草、排泄物も混じる。人々は通りの端を歩く時、それらを被らぬよう注意せねばならない。
海は、冬が近付くと干満差を広げる。月との距離、水温の変化、巨大魚の活動と多くの原因が唱えられたが、定説はまだない。
水位は気付かぬ内に上がり、水揚げ場から市場、街中を浸して行く。
残飯を当てに飛び回る烏も、海振の季節は奥地へと去る。そこは豊潤で果実に恵まれた土地と言われている。
海水は満ち潮に至って道という道を埋め尽くし、地上階から生活臭が消える。但し、どこも海振を想定した造りなため生活に支障はない。
潮の満ち引きもさることながら波の間隔が極端に狭まり、押し波と引き波の区別が殆どつかないのも冬の特徴である。水流が四方八方に乱れ、ぶつかり合い、大鎌のごとく飛沫を振るう。
その光景の峻烈さから、冬の高潮を海振と呼ぶ。
海振は汗と汚物に塗れた街路を隙間なく洗う。人々から生まれ落ちた泥濘はデッキブラシでも削ぎ落とせないが、潤沢な塩水は時間を掛けて丹念に分解し、引き潮と共に元あった場所へ運んで行く。時折、腐食し切った家の柱がへし折れる以外、音のない季節である。人々は海を恐れるように窓を閉ざし、小潮の一時だけ通りに忍び出て、囁きを交わす。
烏達は冬の終わりと共に町へ戻る。
毒ともしれぬゴミを漁るより、木の実に満ちていよう奥地で暮らした方が楽だろう。
否、魚の匂いを嗅ぎ付けて渡り来るのだ。
住人は冬の間、議論に花を咲かす。
水が引くに連れ飛来する烏を、町の人々は繁栄の象徴と讃えてきた。動けない者がいれば誰とはなしに世話を焼き、通りに死体があれば丁重に火葬して、羽の一本を形見にと持ち帰る。
海は町を侵し、通りからは人影が減り、烏も一羽また一羽と旅立つ。鳴き声や羽音が遠のき、住人の表情には加護を失った不安が満ちて行く。
今年も間もなく潮は広場に達する。最後まで残った老烏は、心配げな少女の頬に一度だけ翼をすり寄せ、間もなく森の向こうへ飛び去った。
寝間の襖が音もなく開いた。
座禅を組んで瞑想中の主は、ゆっくりと目を開けて咎めるように言った。
「何じゃ、おぬし」
姿を現したのは神職の装束に身を包んだ若い男だった。
「失礼。急ぎの御用があったものですから」
澱みない動作で戸を閉め、座っている部屋の主の側に立った。
「邦長の三蔵殿ですね」
「まじない師が何の用じゃ」
邦長がぎろりと上目でにらむ。
装束の男は油断なく柔らかい表情を保ちながら指を組んで話し始めた。
「少し長くなるかもしれませんがお聞きください」
邦長は表情を変えず黙っている。
「今では思い出すものもおらぬが、ひと昔前、この国は誇り高き将によって率いられていた。それが慎之介さまです。ところがあるとき帝の軍が押し寄せた。和睦の道を探るべしとする者も少なくなかったが、慎之介さまは徹底抗戦を唱え、反対するものを弾圧し、殿の意向をも自分に振り向けさせることに成功した。今となっては慎之介さまの真意は分かるはずもない。真に国を守る正しい行ないのつもりだったか、蛮勇を示しただけなのか、地位に固執するためだったのか。結果的にそれは無謀ないくさでした。各所各人の戦では勝ちもしたが、圧倒的な帝の軍勢にもみつぶされて、双方に甚大な被害を出していくさは終わった。この国は帝のものになったのです」
装束の男は指を組み換えた。邦長は黙っている。
「帝は善政を敷きました。それもあって民衆はすぐに新しい主の方についた。それどころか殿までが許された。帝に逆らったのは慎之介であるとして、責任を一身に背負い、慎之介さまとその一派だけが成敗されたのです。慎之介はさぞ無念であったでしょうな」
邦長はにやりと口を歪めた。
「わしの生まれを探ったか」
「三蔵殿は慎之介さまの血を引く唯一の生き残り。だがそれでどうということではない。わたしがまいったのは慎之介さまの怨念に取りつかれた三蔵殿を救うためだ」
装束の男は印を結んだ両手を邦長の頭頂に覆いかぶせた。
とその瞬間、装束の男の身体は宙を舞っていた。邦長が座禅の姿勢から片手で体を支えて足払いをかけたのだ。
装束の男はわき腹からどうと床に叩きつけられた。
「慎之介の悪霊よ。反乱の軍は何のためだ。お主が怨んでおるのは誰だ。帝か。それともお主を売った殿の末裔か。簡単になびいた民衆どもか。再び戦乱をまきおこして苦しめたい相手は。だがそこに大義はないぞ」
邦長は鼻で嗤って頭を踏みつけた。
「曲者じゃ。であえ」
早稲田大学戸山キャンパスには華がない。
早大と聞けばおそらく大抵の御仁が真っ先に、大隈重信像や演劇博物館、大隈講堂のそびえ立つ、風格溢れる早稲田キャンパスを想像されることだろう。その広大で、伝統を感じさせつつも近代的にして絢爛な佇まいたるや、まさに夢のキャンパスライフの到来を予感させるに足る早稲田の象徴。心なしか学生たちの顔には笑みと自信が満ち、銀杏並木の一本一本にまで希望が宿っているようにさえ思われる。
ところがどうだろう。文学部と文化構想学部の学生が学ぶ通称文キャンたるこの戸山キャンパスは、まるで『活気』の二文字とは縁遠いのであった。
オフィスビルのごとき無味乾燥な校舎群がただただ乱雑に立ち並び、狭い敷地内に数多の学生たちが押し込められたその様相はまさにコンクリートジャングル。女学生の多さばかりがやけに目立ち、特に肩身の狭い我々男子たちは皆一様に疲れきった表情で息を潜めている。
期待に胸を膨らませていた入学式は悠久の彼方。まさに今この胸に残る感情は虚しさばかり。純朴ないち新入生たる私にとって、それは絶望以外の何物でもなかった。
かくして過酷な学生生活を強いられた私であったが、失望とともにある種の疑問を感じずにはいられなかった。梶井基次郎は桜の木の下には死体が埋まっている、それが桜の美しさの秘密だと述べたが、それならばこの味気なさ極まる戸山キャンパスの下には何が埋まっているのだろうか、と。
文キャンの隠れた名所、パンショップミルクホールから33号館前広場につながる階段、通称『シンデレラ階段』の前で私はスコップを片手に決意を固めていた。今日こそこのキャンパスの秘密を暴き、積年の恨みを晴らしてくれよう。
渾身の力を込めてスコップを振るう。思っていたよりも手応えは軽かった。土をすくう度、湿っぽい青臭さが鼻につんと徹えた。
しかし、掘れども掘れども、何が出てくるわけでもない。終いには手が鉛のようになってしまった。本当は、戸山キャンパスの下に秘密などないのではないか。そう考え始めた頃だった。スコップの先が、何かに当たった。
注意深く周りの土を取り去ってみると、何やら黒い毛玉のようなものが埋まっている。なるほど、確かにこれは不気味で、いかにもこの地味なキャンパスの元凶であるように思われた。
もっとよく見てみよう。手にとって裏返してみて、絶句した。
それは、私自身の首だった。