第152期 #5
この人はかっこいいと思っているのだろうか、と伊集院さんの小指を立てたリボンビールを飲む仕草を見て私は思った。伊集院さんと待ち合わせをしたホテル最上階のバーは、伊集院さんのご指定であった。この店が初めてだった私は、ここの名物はリボンビールだと、伊集院さんの語ったうんちくで知った。どんな製法ですか、と私が聞くと、伊集院さんはまた一口、リボンビールを飲んだ。教えてはくれなかったんですけどね、ベリー系の果物を使っているらしい、ほら、だから、ピンクがかっているでしょう、と答える。だからリボンですか、と私が聞いて、そうだと思う、バーオリジナルなんです、と伊集院さんはうれしそうに答える。
伊集院という有名人を私は二人しか知らなかった。ひとりは作家で、ひとりはタレントである。私の前に座っている、リボンビールを飲んでいるこの伊集院さんは取引先の伊集院さんで、だから、有名人ではなかった。ペンネームや芸名ではない、本名の伊集院さんは私の知る限りこの人だけだ、と思っていたところに私のリボンビールも運ばれてきた。伊集院さんに目配せして、一口飲むと、微かだがベリーらしき香りがする。ただ、私には甘過ぎる気がした。それでも、独特の風味がいいですね、と当たり障りのない賛辞を伊集院さんのために贈った。
伊集院さんとしばらく雑談を楽しんだ私はトイレに立った。小便器の上の壁におでこをなすり付け目をつぶると、何も見えていないのに頭がぐるぐると回った。昨日行ったビルの、エレベーターのドア脇に乾涸びたネズミの死骸があって、それが今でも後頭部に張り付いている感触。放尿姿勢のまま手首だけを回転させて腕時計を見るが、目がかすんで時間が確認できない。チャックをあげ、右手の指先を申し訳程度に湿らせ、濡れた指先を頭髪の流れに沿って這わす。乾涸びたネズミの体毛のような頭髪は、それでも律儀に姿勢を整えようとするが、それ以上、自分の頭髪でさえ触る気にはなれなかった。私は目やにを取ってから、できるだけ清々しい振る舞いを装ってトイレを出た。
「お強いですね伊集院さんは」
私はもはや気力だけの言葉を振り絞った。少し休みますか、と伊集院さんに言われた私は、はじめ断っていたのだが、どうも、足も立たないし、ろれつも回っていないようである。だから、半ば強引に、階下の伊集院さんの宿泊している部屋へと連れて行かれた。