第152期 #13

宵闇

「世界が終わるときに僕は何を見るのだろうか」
 背の高いシルエットがマッチをするような仕草をしながら言った。炎が彼の手元でゆらめいた。
「君が見ているものはすべて幻だろう。君にはあるのかい、その、いわゆるクオリアというものが」
「あるさ」
「本当だろうか。昔はあったような気がしているだけなのではないかな。君は本当に何かを見ているのか。見ようとすればするほどそれは実感とは遠ざかり、その見ているものがなんであったのかさえ分からなくなってくる。奇妙な違和感に襲われて目眩がしてくるばかりだ。だが一瞥しただけで分かった気になっているのではやがて新鮮味がなくなり、現実味がなくなり、自分がどこに立っているのかさえ確信が持てなくなってくる。そういう事象には名前まで与えられているくらいだ」
「高尚な物理学の話をしているのか」
「ちがう」
「下世話な心理学の話をしているのか」
「ちがう」
「生きている実感というものは、それも一つの感覚の種類だよ。目や耳、味覚や触覚のようにある種の感覚器官がその役割を担う。だがそれも時が経つにつれて鈍くなる。もっと強い感覚刺激がなければ脳味噌の奥まで信号が届かなくなる」
 背の高いシルエットは煙草に火をつけて口にもっていった。吸い込まれそうな闇の中にぽつんと光が浮かんだ。
「君はその、生きている実感を感じる器官を持っているのだろうか。それは万人の持つ、いや動物や他の大抵の生物の持っているごく普通の知覚の集合にすぎないのではないか。君に生きている実感が薄れてきているのだとしたら、それは耳が衰え、目の水晶体が曇り、地肌が寒風にさらされ続けて麻痺してしまったせいだろう」
「目がなくても見えるものがある。耳がなくても聞こえるものがある」
「君には目も耳もあるじゃないか。君は君の持っている五感の世界で生きているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。ないものはないし、なくてもいいんだ」
 背の高いシルエットがゆっくりと、まるで顕微鏡のピントを合わせるみたいに腰をかがめ、ついにはしゃがみこんでしまった。
「世界が終わるときに僕は何を見るのだろうか」
 弱々しい声が救いを求めるように言った。
「世界が終わっても、きっと世界は続いていく。時間が行き止まりにぶち当ったら上下左右どこへでも、もしかしたら別の次元に、方向を変えて進んでいくように」
「世界が終わるときに僕は見たいものを見よう。僕の大切なものを」



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