# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | −君の温もり− | 柊 | 346 |
2 | 恋ノ味 | 月見里 姫槊 | 841 |
3 | それでも私はやってない! | 池田 瑛 | 1000 |
4 | 俺の前に舞い降りた天使 | るい | 999 |
5 | 不運 | 桜 眞也 | 678 |
6 | 寿命 | あお | 559 |
7 | 戦争 | 作者 | 397 |
8 | パチパチ探偵よしお | まめひも | 999 |
9 | 春霞 | 星砂スバル | 990 |
10 | 真由美、逝きなさい | Gene Yosh (吉田 仁) | 1000 |
11 | 昆布締め | わがまま娘 | 927 |
12 | かなしいひよこ | けんぬ | 461 |
13 | ドローイング | 岩西 健治 | 968 |
14 | 遺すもの | kyoko | 936 |
15 | 雨空にお願い | 文崎 美生 | 960 |
16 | 悩める殺し屋 | 米野 傘下 | 656 |
17 | 無題 | かずや | 631 |
18 | 安全ではないが、もういい | qbc | 1000 |
19 | ワーカーホリック | 五十音 順 | 803 |
20 | 桜の季節 | 春川寧子 | 540 |
21 | シャツの魚 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
22 | 生物 | euReka | 1000 |
僕は君の手のあたたかさと温もりが大好きだった。
高校生になって僕には彼女ができた背が僕よりも小さくて守ってあげたくなる存在だった。毎日帰りは手を繋いで帰った。君の手は…寒くなった冬の季節でも暖かかってんだっけ……でも、今年の春君は事故で死んだ。
「どうしてっ…もっと僕がしっかりしていれば…っ」
声にならない声で動かなくなった君の手を握りしめて泣きじゃくった。もう、あの手のあたたかさと温もりはない…
ふと、君の笑顔を思い出した
『私が死んでも天国からしっかり見てるからね?』
明るいかおでそう言った彼女の顔を。
「見てるんだよな…泣いてたらダメだよな…」
僕は涙をぬぐい冷たくなった彼女にいった
「ありがとな……お前を世界で一番愛してる」
−彼女の顔が微笑んだように見えたのはきっと、気のせいではないだろう−
私は恋を知らない。
いや、知ろうとしていないだけ・・・。
そんな私は恋に恋していた時期もあった。
そんな恋も終わってしまったけれど、今までとは違う自分がそこにはいた。
恋ができない私に1冊の本が目に入った。
それは、俗世間に言う【恋愛小説】だった。
その本は友達がいらないと私にくれたものだった。
私はどうせ何も変わらないただの小説だろう、そう思い読み始めた。
でもその想いとは裏腹に私はどんどん話の内容へとのめり込まれていた。
そして作者のあとがきに溜め込んでいた涙が一気に込み上げ、外へと流れ落ちて行った。
作者の伝えたい思い、恋という感情、人の存在その全てを180度回転して見えた話だった。
私の思っていた・・・いや、考えていた恋とは違った。
この物語は主人公が死にバッドエンドかと思いきや残された人々が前を向き進めたといういい意味で騙されたハッピーエンドだった。
こういう恋愛のあり方があったのかと私は改めて考え込んでしまった。
私もこういう恋がしたい。そう思う時もあったがそれは結局夢のまま現実にはあり得ないと決め込んでいたが現実でもあり得る恋物語もあったのだと初めての感情に少しの間浸っていた。
私は普段泣かないと思っていたのはどうやら間違えていたようだ。
泣かないのではない、泣けなかったのだ。
この本のように人の心を動かせる話を読んでこなかった訳でもない、ただ感情移入していなかったのだ。
身近にはありえない話ばかりだったからだろう。
恋だけでなく人間そのものの感情を理解できなくなっていたのだ。
私は、読み終わった本を置きその場を離れた。
きっとこれからは世界の価値観が変わるだろう。
明日にはどんな人と出会いどんな人と別れるか・・・。
世界はこんなにも残酷で悲しく時に楽しい。
それは恋も同じだったようだ。
楽しいだけでなく時に残酷で胸が痛くなる。
“嫉妬”という恋愛特有の感情でその人の想いは大きく変わる。
だから、恋愛は面白く残酷なんだ。
私は窓から顔を出して言った。
「ありがとう。」
恋は甘く苦い味の木の実でした。
薄暗く鉄格子に金網が張ってある部屋。鈴木はパイプ椅子に座らされていた。机の上にはスタンドライトが1つ。このライトにはLEDが使われていない。たしか、白熱電球という名称であっただろうか。未だにこんなメーカーが既に生産停止しているような光源を使っているような団体が他にあるだろうか。電球は旧態依然を照らしていた。
「何度も言っているだろう。私は運転席で寝ていたんだ! 運転なんかしていない」
鈴木は両手で薄汚い机を両手で叩いた。
「鈴木さん、そろそろ本当のことを言ってくださいよ。あなたが運転していたんでしょ?」と、鋭い目付きの警察が言った。
取り調べ担当のこの男が、アロハシャツでもを着て、繁華街を歩こうものなら、通行人はこの男をヤクザだと思い、道を空けるだろう。声も粘着的で、彼の声を聞いた後は、耳の中に水が入っていくような、そんな気持ち悪さが残る。
「だから、もう何度も言っただろう! 私は運転をしていなかったんだよ!」
「いつまでそんなことを言い張るつもりですか? そろそろ、もう取り調べも5時間になります。私も、こう見えて忙しい身なんですよ。そうだ、鈴木さん、お腹が空いたでしょ? カツ丼でも注文しましょうか?」
取り調べの男は、右唇を吊り上げ、下品に笑った。
空腹の時は何を食べてもやはり旨い、と鈴木は思った。品の悪い男が私の顔を見ながらニヤニヤしているのが目障りであろうとも。
「ねえ、鈴木さんは、ロボット三原則というのを知っていますか? 『第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない』という、鉄の掟があるんですよ」
「それくらい私は知っている」と鈴木は答えた。そんなの常識だ。
「そうですか。いやね、私が言いたいのはね、車の自動操縦も、この原則に基づいて動いてるってことです。分かりますか? 鈴木さんが運転していないのだとすると、自動操縦の車が人を撥ねたということになるんです。そんなことがありえると思いますか?」
「それが起こったということなんだよ。本当にあの時寝ていた。衝撃を感じて飛び起きたんだ」
「誰がそんなことを信じますかね? ロボットは人に危害を加えられないし、車の自動操縦で人が撥ねられるなんて、ありえないんですよ。安全神話って、壊れることがないから神話なんですよ。そろそろ正直になりましょうよ。楽になりましょうよ」
俺は、夢を諦めようと思う。やっぱり、俺は才能がなかったんだ。
昨日の夜に、彼女から電話で「いい加減、現実を知ってよ。いつか売れる
とか言って自作のCDも全く売れないし。どうやってこれから生きていくのよ。もう湊人には付き合いきれない。別れて」と一方的に別れを切り出された。
俺は、丸一日考えて命の次に大事なギターを売ろうと決意した。
嗚呼、死んだおばあちゃんに買ってもらった大事なギターだけど、自分の手元にあったら、未練を捨てきれない。本当にごめん。俺は慣れ親しんだギターの弦を優しく撫でた。
翌日、自宅のある最寄り駅から六つ目のK駅に降りた。週に三日ほど、このK駅の一角で路上ライブをしている。その際、自分で作ったCDも販売しているのだが、売れたためしがない。いや、正確に言えばたった一枚、売れたことがある。小学校六年生くらいの少女が買ってくれた。その少女は、毎回俺のライブを聴きに来てくれる唯一の観客だった。最近、見かけないがどうしたのだろう。俺は、ふっとため息をついた。
「今日は、ギターを弾かないの?」
振り向くと、あの少女が立っていた。少女の着ている赤いワンピースは擦り切れ、靴もひどく汚れていた。
「うん、今日はね。このギターとお別れするためにここに来たんだ」
「ギター、どうするの?」
「今から、売りに行くんだよ。これでは、食べていけないからね」
そうだとも。俺は夢から逃げるのではない。生きるために、仕方が無いことなのだ。俺は繰り返し、自分に言い聞かせた。少女は、じっと俺を見つめていた。
「あたしのおばあちゃんが最近具合が悪くて、でもお兄ちゃんの歌が入っ
ったCDを流したら、すごく優しい笑顔を見せてくれたんだよ。だから、お兄ちゃんが奏でるギターと歌声は、人の心を元気にする力があると思うの。あたし、お兄ちゃんのライブを聴いていつも勇気と希望をもらっていたんだ。」
少女は、俺の手のひらに何かを握らせた。
「これ、おばあちゃんにあげるために今までずっと必死で探したものだけど、お兄ちゃんにあげる。あたしは諦めないで探し続けたから見つかったんだよ」
少女は、そう言って去って行った。
俺は、手のひらをゆっくり開いた。そこには立派な四つ葉のクローバーがあった。見つけるのに苦労したものをこんな俺のために。
俺は、やっぱり夢を捨てられない。
今、夢を現実に変える力をもらったから。
俺はギターを抱きかかえ、K駅を後にした。
俺は不運だ。
彼女には振られ、面接に落ち、友達も出来ず・・・
そして一週間前、バイトをクビになった。
「お前なんかに払う給料は無い!」だとよ。
おかげで一週間前から何も食ってない。あのクソハゲめ。
とにかく、これじゃ餓死しちまう。デパートで試食でも食うか・・・
最寄のデパートにやってきた。なんだかやたらと人が多い。
なぜか俺の周りには人間は寄らず、スムーズに扉の前まで来た。
ウイーンと自動扉が開く。
一歩進んだ。なかの人間達が俺を見てぎょっとする。
「おめでとうございまーす!当店1万人目のお客様でーす!」
クラッカーの音とともに拍手が鳴り響く。鼓膜が張り裂けそうだ。
「お客様には10万円分の商品券と記念品をプレゼントいたします!」
!?今、10万円と!?
「おめでとうございまーす!」
や・・・やった・・・こんな俺の人生にも・・・こんな幸運が・・・
「いやーありがとうございます!」
後ろにいる女がなぜか喜んでいる。
何でだ。俺が1万人目の客じゃあ・・・
「ささ!そこの女の方!写真を撮りますのでこちらへ!」
ハゲた従業員のおっさんが女を連れて行く。クソ、ぬか喜びだ。
俺はつかつかと歩き出した。そして、
自爆した。
そう、俺は、人造人間「√」だった。
思いかえすと、俺の見た目が悪かったのかな・・・
右目には、無数のコードがチラついている。
両手がプラスチックで、中に銅線が走っている。
・・・なンだよ博士
もっとニン間らシクしれくれたラ良カッタのに・・・
そシタら・・・モッと・・・
激しい光の中で、俺はニタと笑った。
よっしゃ!人造人間が出来た!
あ、幸運のパーツつけるの忘れた!
ま、いっか!行け!ルート!
野菜の寿命は二、三日。
野菜を扱うのは大変だ。
早すぎても、遅すぎてもだめ。
人間みたいな生物はそこを見誤って野菜を簡単に殺す。野菜殺しは何の罪にもならないから。ちなみに人間以外の動物だと器物損壊罪。所詮、利益不利益賠償金。笑っちゃう人間様ルール。
雪に埋もれるとかそういうストレスに耐え抜いて、農家のおじさんのチェックをクリアして漸く出荷されたエリートの彼らは、間抜けな人間にもうだめね、と生ごみとして捨てられる。その無念は悔しさ怒りはどれほどのものだろう。
人間も一緒、様々な関門を突破してももうだめね、と思われたらあっという間に捨て置かれる。
嗚咽は喉につっかかって下ってこない。
私は一種類ずつ野菜を刻む。
疲れきって帰省して、陰鬱な顔で部屋に閉じこもる娘の昼食をつくるために。さくさくとんとん、まとめて器にいれて次の野菜に手を伸ばす。またさくさくとんとん。
彼女が何をしたというのだろう。逆に何を成したわけでもないからだろうか。
ある野菜は茹で、ある野菜は肉と共に煮込み、私たちは生きる糧をつくる。そうしなければ死が待つのみだから。
私は娘に掛ける言葉を持たない。でも私は彼女に生きて欲しいから。終わりなんてあと六十年は来ないわよ、そういう気持ちを込めて。
私は出来上がった料理をお皿に盛り付け、それをお盆にのせて娘の部屋へと運ぶ。
A君が公園の砂場に創った大きなお城のある街。
ガキ大将のB君が悪戯に足で街の外れの山と川を蹴散らす。
「折角綺麗に出来たのに」とA君はワンワン泣く。
A君のお兄ちゃんが後ろからB君にドロップキック。
「うわ」っと悲鳴をあげて砂場に倒れるB君。
それを見たB君の母親が、A君のお兄ちゃんに注意をしにズカズカと砂場を渡る。
街並みを踏んだまま、甲高い声でA君のお兄ちゃんを叱るB君の母親。
そこへA君の母親が「いや悪いのはそちらのお子さんじゃないですか」と母親仲間と一緒に現れる。
B君は立ち上がって、A君のお兄ちゃんに向かっていく。
母親同士が罵り合う横で、取っ組み合いの喧嘩をするB君とA君のお兄ちゃん。
A君は泣いている。
「うるせぇぞお前ぇら」と、酔っ払いが砂場に乱入し、傘で母親二人を叩く。
悲鳴と、怒声と、泣き声が交じる。
城は、崩れた。
それを公園の隅のベンチでただずっと見ていた、僕。
さて、悪いのは、だーれだ。
「よしおさん、ご無沙汰です」
「何さ」
「この間の密室殺人ですけどね」
「容疑者がたくさんいるやつ?」
「そうそう。犯人まだ分からなくて困っちゃって。ダイイングメッセージは見つかったんですけど」
「そんなのあったっけ」
「被害者の右手の辺りに、血の乾き具合が違う血だまりがあって、鑑識にかけたら血だまりの下に血文字が」
「血ッ血うるさいね。なんて書いてあったの?」
「字はぐちゃっとしてますけど、『ιXN』ですかね。これ現場の写真です」
「なんて読むの?」
「いやそれが解ってたらここ来ませんよ」
「そりゃそうね。えーと、容疑者の有力なのの名前を教えて」
「被害者の弟の文夫、養子の久実、妻の糸代あたりっすね」
「あ、その人」
「はい?」
「糸代さんが犯人じゃないの」
「なんでまた」
「この『ιXN』って、多分アラビア数字のつもりだったんでしょ。だから『?T?]?W』で『い(一)と(十)よ(四)』の語呂合わせなんじゃないの。他にイトシとかヒトシとかいればそっちかもしれないけど」
「なるほど。でもなんでアラビア数字?」
「知らんよ。でも最初は普通に「いとよ」って書こうとしたんじゃないの。この『ι』とか『い』の書き出しって感じ。でも犯人が入ってきたら消されるかもって思って、途中で暗号にしたとか」
「被害者が逃げ込んだ部屋は中から閉鎖できる場所だったんで、犯人も入ってはこれなかったですけどね」
「結果論でしょ」
「ふむ―。ん? でも被害者は結局その暗号消したんですよ」
「犯人の隠蔽工作とかじゃないの?」
「いや、被害者が生きてる間に自分で消したのは間違いないですよ」
「どんな怪我してたんだっけ」
「助かることはないけど、死ぬまでにちょっと時間のかかる怪我ですね」
「犯人の名前を残そうとして、そのあと気が変わって、名前を暗号にして、また気が変わって暗号ごと消した。で、彼は死んだ」
「なんでそんなことしたんでしょう」
「犯人を教えたくなくなったんじゃないの」
「気が変わって? そんなことあります?」
「君が答えを知らないものを、僕が知ってどうするのさ」
「ああ、そうですね。後はこちらで調べておきます。じゃあ、どうも。また」
「次は手土産くらい持ってくるんだよ。捜査情報を迂闊に漏らしてさぁ」
「次は花でも差し入れますよ。ま、よしおさんと瞬きだけでここまで意思疏通ができるのは僕だけですから」
そして刑事は病室を去り、あとにはミイラのような病人が残った。
学校の帰り道。
当番だった掃除が長引いた僕は、
停留所でバスの到着を待っていた。
穏やかで心地よい、自然豊かなこの場所からは、
残雪が淡い輝きを放っている八ヶ岳の姿も見える。
しばし、その光景に見とれていると、仄かに爽やかな香りが漂ってきた。
「あの…隣、座っても良いですか?」
声のする方を見ると、僕と同じ学校の制服を来た女子が立っていた。
「ああ…どうぞ。」
手を差し出すと、彼女は僕を見て軽く頷いた。
両手に荷物を持ち、ゆっくりと近づいてきた彼女は、
僕の隣の場所までくると、その場でターンをして、ふわりと席に座る。
遅れて宙を舞う彼女のスカートが、先ほど感じた爽やかな香りを連れてくる。
彼女は荷物を脇に置き、「ふう…」と一つ、ため息をついた。
彼女の仕草を見届けた僕は、視線を外の景色の方へと戻した。
陽光に照らされた自然の中を、二羽のツバメが大きく宙を舞っている。
「あの…これ、食べます?」
彼女がおもむろに差し出したものは、大振りの夏蜜柑。
「お婆ちゃんのお見舞いに来て、帰り間際に持って行きなさいって言われて。」
「こんなに量は要らないのにって言ったんですけど。」
まだ何の返事もしていないのだけれど、手慣れた手つきで夏蜜柑を剥いてゆく。
停留所の中は爽やかな香りで直ぐに満たされた。
「はい…あ、喋っていたら、つい剥いてしまって。もしかして、お嫌いでした?」
「いや、そんな事はないよ。いただきます。」
渡された夏蜜柑はずっしりと重く、
一つ一つの房がはちきれそうで、瑞々しくキラキラと輝いていた。
一房を手に取り、口に頬張る。
爽やかな味わいの中に、やや苦みを残した果汁が口いっぱいに広がる。
「宜しければ、幾つかどうですか?」
「私も運ぶのチョットだけ助かりますし。」
「正直だね。」
僕がそう答えた時、
彼女が見せたクスッとした笑顔が初々しい。
遠くからエンジンの唸る音が聞こえる。
停留所の手前の坂を登っているんだろう。
あそこの坂はキツいから。
「あ、バスが来たみたい。」
彼女は、口元の前で両手を併せて言った。
「君は何処まで?」
僕から声をかけた始めての言葉。
「私は…」
到着したバスが彼女の言葉をかき消した。
聞き直そうと僕は身を乗り出し、
耳に手を当て、彼女に横顔を差し向ける。
すると、彼女は僕のシャツの袖を引っ張り、
「続きは後で。」
と耳元で囁いた…
僕たちを乗せたバスが停留所を離れていく。
爽やかな香りと味わいの記憶を残して。
吉田が営業に日々通う製造メーカーの専門商社「Q8」は総合大学の近くの高層ビルにあった。吉田の事務所から徒歩25分、晴れの日は自転車で通う。その当時は地下鉄もなく、都バスも路線がなく、JRで隣の駅でありながら、電車を乗り継ぎでは30分以上かかる位置で、ほとんど毎日貿易書類を引取りに出向くのである。主たる輸出先は中南米へ機械を輸出している。中南米向けは船が月に2回が横浜から出港する、生産スケジュールでは月末に合わせて製造が決められているため、中旬から下旬にかけて貨物が出来上がり月末の船にめがけて、出荷をするのである。
その船積み担当者が窓口で吉田は顔を出すのであるが、真由美は社内の海外営業部門に属していた。年に何回か飲み会を催すと担当外の若手が飛び入り参加をするのが、常連の真由美であった。時には彼らの社内の同僚が結婚すると、2次会に吉田が誘われることもあった。
とある、金曜日、JR駅近辺で飲み会を始めたが盛り上がり、誰かが新宿二丁目へ行こうと、流れたことがあった。まだその当時1990年代バブル期は派手な店はなく、小さなスナック系の店が多く、知らない人間はどこに入ったらいいか全くわからない。特に女子はなかなか入りずらい趣の店ばかりであった。しかし、一歩入ればそこは、男どもが通う、渋谷や六本木のクラブと同様に女子でも癒される、楽しい飲みの席が完成されていた。
真由美は男好きのする顔だち、大きな瞳にアイドル系のやせ形に甘いねこなで声にどんな男も虜にする天性の魅力を備えていた、女子より男に持てるタイプで、そのうちにおやじ系のギャルと一緒に二丁目の世界に女子のみで踏み入れていたようである。
二丁目初体験の夜、吉田は朝まで歌舞伎町で、飲み明かしなぜか新宿駅までおんぶして送り、家の方向が違うため、別れたが、一緒にいた同方向の同僚の真田は持ち帰り土曜日は夕刻まで一緒だったらしい。
真田と同期の柴山は吉田と同じ街に住んでいたため、土曜の午後など二丁目に同行したことがあったが、開店前から押し掛けたり、楽しい当時のオネエとの接点があった。
柴山は「真田、結婚するらしいぞ」と。相手は真由美でないとの事。しかし、真由美はその後1年して別な同僚と結婚し、海外駐在員の妻となった。
今思えば、当時は景気が良かった。バブルは終わってバブル時代だったと理解できた不思議な時期。20年後の時代は、今を何と言われるのだろう。
何でも昆布に挟みたがるのは、ただそういう食文化があるだけで、特別おかしなことではない。
正月用の一品として、煤竹やワラビなどの山菜の昆布締めを作った。
昆布締め用の昆布が残ったので、冷蔵庫にあったサーモンの刺身も挟んでみた。昆布味のサーモン、おいしそうではないか。
昆布に挟んで冷蔵庫に入れ、待つこと3日。サーモンを挟んだ昆布を冷蔵庫から取り出す。口の中で勝手に味を想像する。絶対においしいはず。昆布からサーモンを取り出し、小皿に入れる。昆布の粘りも出ていて、これは期待が膨らむ。
ちょっと醤油を垂らして、いざ食さん!!
口の中に入れて、一口噛んだ瞬間だった。は? 全然違う味ですけど……? ってか、むしろこれは鱒寿司の鱒ですか……? あれ? サーモンだと思ったけど、実は鱒を昆布に挟んだ?
いやいや、いくら鱒寿司が有名だからといっても、スーパーで未だかつて鱒の刺身は見たことがない。間違って鱒を挟んだなんてことはありえない。
それからは、サーモンの昆布締め作りに奮闘だった。
とりあえず、食文化的に同じことをしている人がいるのではないかと思って、知り合いにも聞いてみた。とはいえ、そもそもサーモンの昆布締めなんて聞かないので、知り合いに聞いても「そうなの?」っていう回答しか出てこなかった。
仕方ないので、そんな食文化なんてそうそう持ち合わせないであろう人達が集うネットで調べた。意外とやっている人がいることに驚いた。昆布締めを初めて食べた外の若者が「これ、腐ってる〜ぅ」というのしか、見たことがないので当然の反応だろう。
使う昆布に酒を塗らない方がいいのではないか、とか、サーモンを一度酢で拭いたらいい、とか、締める時間が長すぎるのではないか、とか片端から試した。
しかし、どれを試しても鱒寿司の鱒にしかならない。
ある日、「やっぱり、鱒にしかならん」と、釣り好きのオッサンの前で話すと、オッサン曰く、「締めたらそら鱒寿司の鱒になるわ」と言って笑った。理由も教えてくれた。
鮭と鱒は同じものなのだそうだ。鮭も鱒も同じ「サケ目サケ科」。更にネットで調べたら、その境界は曖昧であるということまで書いてある始末。
かくして、年をまたいで奮闘した私のサーモンの昆布締め作りは幕を閉じた。
そのひよこはひよひよと鳴いていた。周りに親鳥らしき者はいない。その鳴き声はそんな状況を哀しんでいるような、弱々しさを感じる。
ひよこは鳴き続ける。ひよひよと──。どこだい? ぼくのおかあさんはどこにいったんだい?
ひよこは鳴き続ける。ひよひよと──。どこだい? ぼくのおとうさんはどこにいったんだい?
ひよこは鳴き続ける。ひよひよと──。どこだい? ぼくのおねえちゃんは、おとうとは、いもうとは……どこにいったんだい?
近くの電柱にとまっているカラスはうるさいよ、と言った。そして、この辺には君と私以外誰もいないよ、とも。
それを聞いてひよこは、ひよひよひよひよと泣いた。
憐れに思ったカラスは自分の家に連れていくことにした。が、カラスの家は高い木にありひよこには上れなかった。ひよこは泣いた。
カラスは地面に家を作り、しばらくひよこと一緒に暮らしていた。ひよこが泣くことは少なくなった。
しかし、カラスはまもなく死んだ。夜、寝ているうちに野良猫に襲われたのだった。
ひよこは泣いた。ひよひよ、ひよひよ……コケコッコー。
こんな日に自転車を使ったりして、私、なんて馬鹿なんでしょうか。自転車はただの重い塊でしかありません。それで、通りかかったバスに乗せてもらうことにしたんです。バスはバス停でもないのにちゃんと停まります。自転車を持ち込んでも大丈夫です。ただ、そのバスは路線バスではないようです。その証拠にダウン症の子ばかりが乗っていますから。
(あぁ、これは学園のバスですね、アリガトウゴザイマス)
「バスは家の前です。ここで停めて下さい」
「勝手に乗り込んで」
「停めてくれなどとわがまま言いよって」
「代金はいただきますよ」
「計算するから」
運転手と引率者が交互に私に迫ります。両方とも私より歳上の大人です。私は一万円持っています。なんだかんだ言われても一万円あれば足りるだろうと私は考えています。
「これは夢なのですか?」
私は聞きました。すると女の引率者が、夢ではないと言います。
(とういうことは、夢なのかしら)
(夢ではないということは、夢なのよ)
ダウン症の誰かが私を見ています。ほっぺたはマシマロのようです。
(あの子、おっぱい、柔らかいのかしら。マシマロと同じかしら)
八十万円ですと、引率者は私に領収証を見せます。私にはとても払えません。私はお金がないから警察に突き出してほしいと願い出ようと考えます。それよりも自分で警察に電話した方がいいのかしら。けれど、どう説明すればいいのかしら。バスの運転手がぼったくりだから助けてほしいとでも言えばいいのかしら。払うのはせいぜいガソリン代に少し足した額でしょうし。正当性を主張できる自身はあります。だって、手をあげて停まったのはバスの方です。私が乗ったことに異論を唱えなかったのはバスの方です。
後席でダウン症の誰かが笑っています。マシマロほっぺさんとは違うようです。つられて私も笑って、それでも少し、銀行に預金はあるから、まずはそれで払って警察か弁護士に相談して、あとからお金を取り戻そうかとも考えます。取りあえずその場から逃れるためによくやるパターンですよね。痴漢はしていないから話せば分かると信じて事務所に連れて行かれる心情に共通するものです。でも私、本当は弁護士を知りません。
たくし上げて、マシマロほっぺさんを鷲掴みしたら、マシマロほっぺさんは笑っています。これで、私、警察に電話しなくても済みます。
今日も、無事に終わった。
携帯の通知なしの待ち受け画面を見て、ほっと息をつく。
お風呂から出て最初に触るのはタオルの横に置いた携帯電話。
メールも来ていないし、電話もかかってきていない。
それを確認してからようやく髪を拭いた。
父の危篤の連絡が来たのは半年前。少し前の年末にもあった。2回の危篤を乗り越えた父は今は安定している。
だけど、毎週のように往復3時間かけて病院へ通う。
何かに追われるようにして。
鼻から伸びる酸素のチューブ。のどに開いた痰吸引の穴。肩に点滴の管。
還暦を目前に病はやってきて、たったの数年でもう話すことも目を開けることもできない。
でも耳は聞こえていると信じて話しかける。
お父さん、私だよ、わかる? 今日は良い天気だよ。
いつかくるその時を息を潜めて待つ。
誰にでも必ずやってくる瞬間だ。この私にも。
その瞬間が訪れたとき、どうなるんだろう。
世界はどう変わるのだろう。
髪を梳いて髭をそり、かさついたほほにクリームを塗る。
手のひらを握り、マッサージをした。
大きな手で握ってくれるおにぎりが好きだった。
父の作るおにぎりは母の作る尖った三角のそれとは違って丸くて大きくて、塩がほどよく効いていた。
小学生の頃はそれ一つ食べるだけでおなかがいっぱいになった。
すっかり痩せた足ももみほぐす。
登山が趣味だったたくましい脚はもう、見る影もない。
定年まであと本当に少しだった。そうしたら思う存分山に登るのだろうと思っていた。
ややむくんで固まった足の指をほぐしてやると、少しだけ動いた。
身の回りの世話を終えると、好きだった三国志の小説を開いて朗読する。
耳は、まだ聞こえている。
床ずれ防止に少し傾けた顔。見ると、目と鼻の間のくぼみに涙が溜まっていた。
少しの間それを見つめると、ハンカチでそっと拭き取った。
すっかり痩せて白くなった顔を見ながら、何度か言葉を飲み込む。
耳は、きっとまだ聞こえている。
しんとした病室。機械の脈拍を告げる音だけが響く。
しばらくして、ようやっと小さく声をかけた。
またくるね、お父さん。
息を潜めて待つ。
いつか必ずくるその瞬間を。
私はどうなるだろう。
きっと何も変わらない。
世界は何も変わらない。
病室を出るときにまた手を握った。
大きな肉厚の手のひら。
爪の形は私とよく似ている。
例えば、雨が降ったら必ず次には晴れて虹が出て、そして綺麗な青空を見せてくれる。
そんなものを望んでいたんだと思う。
自然の摂理で必ずこうなる、みたいなもの。
でも、私の今現在目の前にある壁はそんな自然の摂理でなんて壊れてくれないし、何もしなくても何とかなる物じゃないんだ。
灰色の雨を降らす空を見上げて、傘のない状況をどうするべきかと考えてみる。
止むのを待つか、走って帰るか、という選択肢しか出て来ないが。
止まなさそうだぞ。
「あー、やっぱり傘忘れたんだな」
上履きから外靴に履き替えるため、玄関へやってきた彼が私に声をかける。
彼の視線は雨空に向けられていた。
返事をしない私に対して彼は「天気予報は見とけって言ってるだろ」と、まるで母親のようなことを言い出す。
何故帰宅の時間を遅らせたのにも関わらず、彼と会ってしまうんだろうか。
何故彼はこんな時にいるのか。
「……ほら、帰るぞ」
くん、と腕を引かれる。
掴まれた腕が熱くて、そこから中心に体中に熱を巡らせていくような感覚。
片手で器用に傘を閉じていたボタンを外して、ボンッ、と間抜けな音と一緒に傘を開く。
ザァザァと耳障りな雨音が沈黙の中割り込んでくる。
雨音はあるけれど、私達二人の間に会話なんてなくて耳の痛い静けさがあった。
私の腕を掴んでいた手はいつの間にか、私の手の平をすっぽりと収めて強く握っている。
彼は太陽や月のような存在だろう。
どんなに空が曇っていても、雨だとしても、その後ろに待機してちゃんと見ていてくれる。
水溜まりに雨以外の雫が落ちても、誰にもわからない。
でも、彼だけはちゃんと知っている。
私のことを見ていてくれるのだ。
「明日は確か晴れだったわ」
私の手を引きながら彼はそんなことを言う。
ジワジワとした熱が手から胸の辺りに上がっていくのが分かる。
でも、私は何の言葉も返せない。
「俺は今日中に虹が見れたら良かったんだけどな」
返事をしなくても言葉をくれる。
少しだけ、彼の手を握り返せば更に力を込められた。
「……んね。……ありがと」
雨音にかき消される謝罪と届く感謝。
何て都合のいい雨なんだろうと思うが、彼が笑うような気配がして、固まっていたような心の中が更に溶けだした。
雨と一緒に流れる雫は、私の頬を伝って水溜まりと同化していく。
明日は晴れますように、って彼の手を握ってお願いしてみた。
俺は殺し屋。もういくつもの命をこの手で葬ってきた。どれだけ殺したかと聞かれたときに
「お前は今までで食べたパンの数を数えているのか?」
なんて答えられたなら殺し屋としてはかっこいいのかもしれない。
だが俺は今まで殺してきた数を明確に覚えている。当然だ。なぜなら今まで俺が殺してきたのは家族や恋人、親友と俺に深い関わりがあったものばかりなのだ。殺される直前のあの表情を忘れるはずがない。
そんなに嫌ならばやめればいい?簡単に言ってくれるな。それが出来たならとっくにしている。俺はいち従業員の操り人形。従業員の命令にすら逆らうことも出来やしない下っ端の下っ端なのさ。
「ゆうーー!おやつの前にお片づけしちゃいなさーい!!」
そうこうしてるうちにまたオーナーから依頼を押し付けられる。お片づけそれは殺しの合図。ゆうと言う名の従業員はそんな残酷な命令をも遊び感覚で楽しもうと大型機の俺を引っ張り出す。
俺は黄色い身体を揺らしながら言われるがまま縦横無尽に首を動かし、仲間たちを口の中へ入れゴミ箱と呼ばれるイカれた名前の箱まで運び込む。
「使わないものはゴミ箱へ」
それが組織の方針なのだ。
ひと通り終えるとその従業員は報酬のおやつとやらを貰いに走って行く。まあ奴があれだけ必死になるんだ。おそらくヤバい薬かなんかだろう。
そして俺はこの空間の隅でまた考え込むのだった。いつになったら死ねるのか、あとどれだけの仲間を殺さなければならないのかと。決まって答えは出ない。
だから最後に俺は神に祈るのだ。あの従業員が早く俺に飽きるように。
深夜のこと。おごってやってるのに礼を言わない女がいた。
1000円を2枚店員に差し出し、ごちそうさまでしたといって店を出るときも
後ろからその言葉を聞く事はなくそいつは無言で店を出た。
あいつは何も言わない。頭おかしくなったんじゃないか?
急に無言になって愛想をつかしたのが怖くなり、
俺はそれから全速力で走って逃げた。
あいつがついてくる気がした。こわいこわいこわい。何者?
俺は部屋に付き、あいつが帰ってきたら返り討ちにしてやろうと、
のこぎりと工具を全て出したかばんに包丁を入れた。
寒いからジャージを着ようとしたが、震えて中々着ることができない。
ようやく準備が整った。まだあいつはこない。
もしかして、もうすぐそこまできているのかもしれない。
しまったナイフを取り出して、扉を開けた!
人影が隣の住人の部屋の前に立っている。あいつか!?ぶちのめしてやる勢いで
首を横を振り下ろすように斬りつけた。
それは見知らぬ女子高生だった。
おれは慌てた。やっちまった。でも包丁がささった女子高生は大丈夫?なんて言ってくる。
全然力が入っていないのか。ただ、少し切れた首を傾げて、。。大丈夫?
おまえ包丁がささっているんだぞ?
おれは階段を駆け下りて逃げた。しかし、息があがってくる。回転寿司屋に入った。
あいつがいた。ああ、可愛い。若い。孫ほどの年齢か。歳が離れていることに気付き、ずいぶん可愛く見えた。制服を着たあいつはきれいだった。店の窓越しに通学するあいつを見つめて俺は、回っていない皿をとった。
「佐藤くんはさ」
「はい?」
「佐藤くんは、なんでこの仕事、始めようと思ったの?」
「んー、お金ですかね。やっぱ」
「ウソだね」
「嘘じゃないですよ。これ、儲かるし」
「ウソだよ。君みたいな若い子なら、もっと楽して稼げる仕事、いくらでもあるでしょ?」
「それは、」
「なんでこんな誰もやらないような仕事、やってるの?」
「……こいつらを」
「うん」
「死体を相手にしてると、生きてるって感じがするから……」
「ふーん。変わってるね。あ、そっちの足、持ってくれる?」
「……先輩は、なんで始めようと思ったんですか、この仕事」
「え、俺? 俺は、まぁ、刺激を求めて、かな」
「……なんか、先輩、よくわかんないです。掴み所がないって言うか」
「はは、カミさんにも言われるよ。『あなた、友達いないでしょ』って」
「え⁉︎ 先輩、奥さんいたんですか⁉︎」
「ん、なんだよその驚きよう。娘もいるぞ。十歳と八歳。写メ見る?」
「あ、いや……てか、こいつの頭そっち回しますね」
「はいよ、っと」
「でも、家庭持ちでこんな仕事、大変じゃないですか? 、色々……」
「んーまぁ、親戚連中から鼻つままれてんのは確かだけどさ。この仕事好きなんだよ、わりと。スーツ着なくていいし、気ぃ遣わなくていいし。なんせ相手が死んでるから」
「確かに」
「それに、みんな死んだらこんなもんかって思うと、さ。未だに俺とろくに口きいてくれないお義父さんとか、俺のこと密かに見下してるエリートな幼なじみとか、元カノとか、上司とか、家族とか俺自身とか、さ。諦めがつくじゃん」
「なるほど。僕とは逆ですね」
「そう? 同じじゃない?」
「逆ですよ」
「いや、似た者同士だよ、俺たち。それより、どう。今夜終わったら付き合ってよ、飲みに。奢るからさ」
「わ、ちょっと、くっつかないでくださいよ」
「ははは、そう言うなよ。まだ当分はこの仕事、続けるつもりなんだろ?」
僕はこの春、大学に合格した。第一志望の大学だった。
3月に合格発表があった。それはそれは喜んで、興奮状態になった。と思いきや、それはわりかしすぐ収まって、穏やかな時間を過ごした。読みたかった本を読んだ。東京で桜が開花したというニュースを見て、桜を探しに散歩にでかけたりもした。近所の公園で、一輪だけ咲いているのを見つけた。
3月後半になると、大学入学のための準備が始まった。手続きは複雑で、説明会の度に貰う資料は重かった。一緒に入学予定の高校の友人と一つ一つこなしながら、シラバスを見て話し合った。大変だったけれど、大学生活が楽しみで仕方なかった。オリエンテーション等のために何度も大学へ足を運び、気づけばキャンパスの桜は満開だった。
4月になってしばらくして、授業が始まった。何もかもが期待はずれだった。こんなに授業がつまらないなんて思わなかった。サークルも騒いでいるだけで、周りの同級生達も大したことなかった。なんなんだ、大したことないって。全部自分の人見知りのせいなのに。気付けば桜はひらひら地面に落ちていた。
僕の通う大学はちょっと変わっていて、授業が始まるのが入学式より先だ。大学のキャンパスのカフェの窓から、もう葉桜が見える。入学式にはすべて散っているだろうか。
春だから魚の長袖Tシャツを着よう。せっかく春なんだから、俺は工場とは縁のないところへ歩いていこう。そう思った。ひさしぶりの休日で、おまけに春なんだから。こんな日は美人と手をつなぎながらデートしたい。けれども月曜の午前中にデートしてくれるアクセサリーみたいな美人は残念ながら俺の知り合いにいない。
このTシャツを着るためには、バスケットのリングにむかってジャンプタッチをするときのような思いきりを必要とする。俺は子供のころから魚が嫌いなんだ。その目がこわいんだ。
魚のTシャツを俺が着るとき、その精密にデッサンされた魚の視線に脅かされるとき、俺はやっぱり二十歳の俺にもどっている。
頭のどこかにあるスイッチを押せば、軽くさわりさえすれば、俺だって変われるんじゃないか。でもそのスイッチがみつからないんだ。いつか必ずみつかる。みつかったら、俺は変わるんだ。
いつもそんな言い訳をして歩いている俺の視界に、いかにも不良な三人と一人の女がとびこんできた。海のある町の、人通りが少ない歩道。生あたたかい風がふいていたことを妙に覚えている。俺は晴れた春の日だというのに、雨傘を持っていて、それは俺が歩いていると晴れていても雨になることが多いからだった。
状況も確認せず、雨傘を剣道の竹刀に見立てて飛び込んで行った俺は強かった。相手が電話で警察をよべば逮捕されていたのは俺だろう。さえない人生だが別に力まで弱いわけではなかった。剣道部で市大会の決勝までいったこともあったんだ。
魚のTシャツを着た俺は、外へ出る。春の風がすきだ。あっというまに散ってしまう桜も桜ふぶきもすきだ。
本当に映画のように傘で不良をめったうちに突いたあと、俺は女の手をひっぱって走った。駅で別れるまえに美人は俺にシャツをくれた。魚が苦手なんていえなかった。美女がデッサンした魚なのだから。来月も海辺のフリーマーケットでシャツを売っていると彼女は言った。
その海辺のフリーマーケットには行きそびれたままで、今は大きな商業施設になっている。俺は結局彼女の名前さえ聞きだせなかった。
毎年、桜の時期になるときまってくり返す後悔なのであるが、十年たった今ではその後悔する時間もなかなかわるくないのだ。魚の視線はずっとこわいままなのに。
俺の春の休日はこうしていつも通りにすぎていく。俺とちがってシャツの魚はピンピンしている。年に一度しか着ないからそれも当然なんだろう。
「君は犬かい」とたずねると、そいつは水色の絵の具で塗られた春の空の絵を10秒も眺めたあと、重い目を閉じてああそうだよと言った。
「じつは虫かと思ったのだけれど、君がそう言うのだったらそうなのだろう」
僕は無防備なそいつを指でつまみ、匂いを嗅いだり、耳をあてて音を聴いたりした。なんだか変な匂いではあったけれど、悪い匂いではなかったし、音はとくに聴こえなかった。
「おい、これ幾らかね」と無表情の店主にたずねると、売り物じゃないが欲しいならやるよと店主が言うので、僕は礼を言った後そいつを上着のポケットに入れて店を出た。
妹が入院している白い病院は小高い丘にあるので、僕はいつも息を切らしながら登った。僕は病室の白いドアを開け、白いベッドに横たわっている妹にさっき貰ってきたそいつを見せてやった。
「お前、犬を欲しがっていただろ。ほら、こわくないから」と言って僕はそいつを妹の顔に近づけたが、妹はこんなの犬じゃない、虫でしょと言って顔をそむけた。
でもしばらくすると妹はこちらを向いて、ねえ、その虫なにをたべるのとたずねた。
「さあね。うっかりしてて聞くのを忘れてたよ」と僕は言ったあと、白い病室を出てさっきの店へ戻った。
「今日貰ったあれだが、いったい何を食べさせればいいのかね」と無表情の店主にたずねると、店主は無表情な眉毛を指でいじりながら、普段は何も食べないが、10年に一度くらいのペースで大型の動物を食べるよと言った。
「大型の動物? 前に食べたのはいつだ?」
たしか10年ほど前にセントバーナード犬を食べて以来、何も食べてないね。
「まさか人間も食べるのか?」
さあね。
僕は店を飛び出して丘を登り、白い病院の白い病室にある白いドアを開けた。
妹はベッドにいなかった。
そしてそいつは窓辺で日向ぼっこをしていた。
「おい! 君は妹を食べたのか」と怒鳴ると、そいつは、だったらどうなのさと返した。
僕はそいつを握り締めると、近くの川原まで行ってそいつを地面に投げつけた。
そいつはよろめきながら、おい誤解するなよと言った。あんたの妹は別の部屋で検査を受けてるだけだと。
「そうか。でも君を殺したい気分だ」と僕は言いながら、そいつを地面から拾い上げた。
するとそいつは妹のことが好きだと言った。俺に名前をつけてくれたからね。でもそれは秘密なのさ。だって秘密は秘密にしなきゃいけないって、あの子が言ってたからねと。