第151期 #9

春霞

学校の帰り道。
当番だった掃除が長引いた僕は、
停留所でバスの到着を待っていた。

穏やかで心地よい、自然豊かなこの場所からは、
残雪が淡い輝きを放っている八ヶ岳の姿も見える。

しばし、その光景に見とれていると、仄かに爽やかな香りが漂ってきた。

「あの…隣、座っても良いですか?」

声のする方を見ると、僕と同じ学校の制服を来た女子が立っていた。

「ああ…どうぞ。」

手を差し出すと、彼女は僕を見て軽く頷いた。

両手に荷物を持ち、ゆっくりと近づいてきた彼女は、
僕の隣の場所までくると、その場でターンをして、ふわりと席に座る。
遅れて宙を舞う彼女のスカートが、先ほど感じた爽やかな香りを連れてくる。

彼女は荷物を脇に置き、「ふう…」と一つ、ため息をついた。

彼女の仕草を見届けた僕は、視線を外の景色の方へと戻した。
陽光に照らされた自然の中を、二羽のツバメが大きく宙を舞っている。

「あの…これ、食べます?」

彼女がおもむろに差し出したものは、大振りの夏蜜柑。

「お婆ちゃんのお見舞いに来て、帰り間際に持って行きなさいって言われて。」
「こんなに量は要らないのにって言ったんですけど。」

まだ何の返事もしていないのだけれど、手慣れた手つきで夏蜜柑を剥いてゆく。
停留所の中は爽やかな香りで直ぐに満たされた。

「はい…あ、喋っていたら、つい剥いてしまって。もしかして、お嫌いでした?」

「いや、そんな事はないよ。いただきます。」

渡された夏蜜柑はずっしりと重く、
一つ一つの房がはちきれそうで、瑞々しくキラキラと輝いていた。

一房を手に取り、口に頬張る。
爽やかな味わいの中に、やや苦みを残した果汁が口いっぱいに広がる。

「宜しければ、幾つかどうですか?」
「私も運ぶのチョットだけ助かりますし。」

「正直だね。」

僕がそう答えた時、
彼女が見せたクスッとした笑顔が初々しい。


遠くからエンジンの唸る音が聞こえる。
停留所の手前の坂を登っているんだろう。
あそこの坂はキツいから。

「あ、バスが来たみたい。」

彼女は、口元の前で両手を併せて言った。

「君は何処まで?」

僕から声をかけた始めての言葉。

「私は…」

到着したバスが彼女の言葉をかき消した。
聞き直そうと僕は身を乗り出し、
耳に手を当て、彼女に横顔を差し向ける。

すると、彼女は僕のシャツの袖を引っ張り、

「続きは後で。」

と耳元で囁いた…


僕たちを乗せたバスが停留所を離れていく。
爽やかな香りと味わいの記憶を残して。



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