第151期 #21

シャツの魚

春だから魚の長袖Tシャツを着よう。せっかく春なんだから、俺は工場とは縁のないところへ歩いていこう。そう思った。ひさしぶりの休日で、おまけに春なんだから。こんな日は美人と手をつなぎながらデートしたい。けれども月曜の午前中にデートしてくれるアクセサリーみたいな美人は残念ながら俺の知り合いにいない。

このTシャツを着るためには、バスケットのリングにむかってジャンプタッチをするときのような思いきりを必要とする。俺は子供のころから魚が嫌いなんだ。その目がこわいんだ。

魚のTシャツを俺が着るとき、その精密にデッサンされた魚の視線に脅かされるとき、俺はやっぱり二十歳の俺にもどっている。

頭のどこかにあるスイッチを押せば、軽くさわりさえすれば、俺だって変われるんじゃないか。でもそのスイッチがみつからないんだ。いつか必ずみつかる。みつかったら、俺は変わるんだ。

いつもそんな言い訳をして歩いている俺の視界に、いかにも不良な三人と一人の女がとびこんできた。海のある町の、人通りが少ない歩道。生あたたかい風がふいていたことを妙に覚えている。俺は晴れた春の日だというのに、雨傘を持っていて、それは俺が歩いていると晴れていても雨になることが多いからだった。

状況も確認せず、雨傘を剣道の竹刀に見立てて飛び込んで行った俺は強かった。相手が電話で警察をよべば逮捕されていたのは俺だろう。さえない人生だが別に力まで弱いわけではなかった。剣道部で市大会の決勝までいったこともあったんだ。

魚のTシャツを着た俺は、外へ出る。春の風がすきだ。あっというまに散ってしまう桜も桜ふぶきもすきだ。

本当に映画のように傘で不良をめったうちに突いたあと、俺は女の手をひっぱって走った。駅で別れるまえに美人は俺にシャツをくれた。魚が苦手なんていえなかった。美女がデッサンした魚なのだから。来月も海辺のフリーマーケットでシャツを売っていると彼女は言った。

その海辺のフリーマーケットには行きそびれたままで、今は大きな商業施設になっている。俺は結局彼女の名前さえ聞きだせなかった。

毎年、桜の時期になるときまってくり返す後悔なのであるが、十年たった今ではその後悔する時間もなかなかわるくないのだ。魚の視線はずっとこわいままなのに。

俺の春の休日はこうしていつも通りにすぎていく。俺とちがってシャツの魚はピンピンしている。年に一度しか着ないからそれも当然なんだろう。



Copyright © 2015 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編