第151期 #14

遺すもの

今日も、無事に終わった。
携帯の通知なしの待ち受け画面を見て、ほっと息をつく。
お風呂から出て最初に触るのはタオルの横に置いた携帯電話。
メールも来ていないし、電話もかかってきていない。
それを確認してからようやく髪を拭いた。

父の危篤の連絡が来たのは半年前。少し前の年末にもあった。2回の危篤を乗り越えた父は今は安定している。
だけど、毎週のように往復3時間かけて病院へ通う。
何かに追われるようにして。

鼻から伸びる酸素のチューブ。のどに開いた痰吸引の穴。肩に点滴の管。
還暦を目前に病はやってきて、たったの数年でもう話すことも目を開けることもできない。
でも耳は聞こえていると信じて話しかける。
お父さん、私だよ、わかる? 今日は良い天気だよ。

いつかくるその時を息を潜めて待つ。
誰にでも必ずやってくる瞬間だ。この私にも。
その瞬間が訪れたとき、どうなるんだろう。
世界はどう変わるのだろう。

髪を梳いて髭をそり、かさついたほほにクリームを塗る。
手のひらを握り、マッサージをした。
大きな手で握ってくれるおにぎりが好きだった。
父の作るおにぎりは母の作る尖った三角のそれとは違って丸くて大きくて、塩がほどよく効いていた。
小学生の頃はそれ一つ食べるだけでおなかがいっぱいになった。
すっかり痩せた足ももみほぐす。
登山が趣味だったたくましい脚はもう、見る影もない。
定年まであと本当に少しだった。そうしたら思う存分山に登るのだろうと思っていた。
ややむくんで固まった足の指をほぐしてやると、少しだけ動いた。
身の回りの世話を終えると、好きだった三国志の小説を開いて朗読する。
耳は、まだ聞こえている。

床ずれ防止に少し傾けた顔。見ると、目と鼻の間のくぼみに涙が溜まっていた。
少しの間それを見つめると、ハンカチでそっと拭き取った。
すっかり痩せて白くなった顔を見ながら、何度か言葉を飲み込む。
耳は、きっとまだ聞こえている。

しんとした病室。機械の脈拍を告げる音だけが響く。
しばらくして、ようやっと小さく声をかけた。
またくるね、お父さん。

息を潜めて待つ。
いつか必ずくるその瞬間を。
私はどうなるだろう。
きっと何も変わらない。
世界は何も変わらない。

病室を出るときにまた手を握った。
大きな肉厚の手のひら。
爪の形は私とよく似ている。



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