第150期 #12
乾いた振動を繰り返すアブラゼミ。冬の蝉はきっと。冷たい空気は振動の伝達を遮る気がする。だから蝉は夏に生きているのだろうか。そして、もやもやはずっと続いたまま。生きているのか、死んでいるのかさえ分からなくなってしまった。そんな日々をずっと過ごした。自分のためにも他人のためにもならない生殺しのような目をした私。心の中の空洞。どうしようもない私。それ以外の時間はただ、言われた仕事だけを無難にこなして。アブラゼミに心を浸食され続けて。理由は一身上の都合になるのだから。
口に出してはいけない言葉。少しの自覚は残したままに。それでも言葉として小さく放出してみたくなった。
「もう、どうだっていい」
その言葉は破壊的な力を持って私に迫ってくる。社内規約に沿った方法で辞めることは悪ではない。私は私に言い聞かせて。それでも。本当は怖いと思っている。それは既に殺りくであるから。恐怖を払うため、私は心の中で蝉を飼う。枕に押し付けた顔。退職願を出そうと決めた日の夜中。どうしようもなく叫んだ闇の中で。枕に消える熱い息と声の残骸。朝になれば消えると信じていた底知れぬ恐怖はとうとう消えなかった。きっと、鬱ではないと信じていたかった。出社。昼食の味も分からぬままに、時間だけはとっくに過ぎていった。動悸を抑えるための深呼吸をひたすら繰り返した。午後の仕事に追いたてられたことを口実にした。うやむやなままの時間は戻ってはこない。いつのまにか、日々はなくなっていく。決して時間が戻ることはない。あの夜の恐怖は結局いつ終わりを迎えるのだろうか。
随分前に書いた退職願。消えた日々をいくら数えても、二度と戻ってはこない。そんなことは分かっているはずであった。熱い息と声の残骸に取り残された私。鞄の中でしわがよったままの退職願のように。心に巣くう冬の蝉を消すように。ボストンバックに荷物を詰め込んで、高速バスで一泊の東京。傷心を癒すためではないと私は私に言い聞かせて。新宿に到着する少し前、屈強な高い建物が現れる。タブレットで調べてそれが、ドコモタワーであることが分かった。途端に美しく。まばゆく美しく。蝉が生きていたことさえも忘れてしまった私。心の空洞に振動を伝えるアブラゼミ。やっと分かった。そのために蝉は生きていたのか。時刻は十三時過ぎ。