第15期 #8

小麦粉

今日、口元を切った。鉄臭い味が口内に広がる。
傷を舐めていたら唇が濡れてしまった。喉は乾いていた。

土手からむき出しになっている土は乾きすっかり白くなっている。眺めていると小麦粉を連想されてならなかった。座ると冷たい感触がする草の上で足を広げ、選手たちを眺めていると後輩が後ろから声をかけてきた。
「メグミ先輩。頑張ってくださいね。」
私は立ち上がると後輩をトイレに誘った。学校の陣地からちょっと離れた丘の上にトイレがあり、木と石で作られたそこからは、いつも雨の匂いが漂っている。いつの頃からこのような関係になったのか定かではないけれども、それでも後輩の顔に触れてみる。きめ細かい感触が指先から伝わってくる。彼女の胸の付け根にキスをすると汗の味がする。桃のデオドラントと汗の匂いが混ざり、その匂いが鼻をついた。
困った顔をしている後輩に笑顔を返し、キスをした。
乾いていたせいか唇同士は張り付き、ゆっくりと剥がれていった。彼女の皮膚が唇に張り付いているのではないかと少し気になった。

自分の出番になると立ち上がりゴールの向こうにある真っ白い小麦粉のような土手を見定めスタート位置につく。選手たちが綺麗な放物線を描く。静かに気合を入れスタートの合図を待つ。
1.5秒後のピストル。
利き脚で強くブロックを蹴り、手首が目の高さまでに達するほど腕をふりあげる。緊張のせいか思うように足が動かない。100mを走りぬいたところから身体に急激な疲労がつきぬけ力が入らず思考も鈍ってくると自分はどこを走り何を目指しているのかもわからなくなってくる。息遣いはリズムを失い、腕も上がらない。そんな極限の状況の中で快感を覚えつつ、だんだんと赤と白になりゆく感覚のまま世界が崩れ顔面に激痛が走る。
私はゴール手前で転んでしまった。

私は何も考えていなかった。ただ真っ白な砂を見つめていた。

今日、口元を切った。鉄臭い味が口内に広がる。
傷を舐めていたら唇が濡れてしまった。喉は乾いていた。

「メグミ先輩、お疲れ様でした。」
彼女はゆっくりと近づきほっぺたにキスをしてくる。
デオドラントの桃の香りが鼻につくと、ちょっと救われたような気がした。



Copyright © 2003 荒井マチ / 編集: 短編