第15期 #30

古いアパート

 なんとはなしに振り返ってみると古いアパートに燈る明りは点けっぱなしにしてきた僕の部屋のものだけで、あとはまるで真っ暗だった。ひどく古く安普請なアパートだったのだけど空き室は一つもない筈で、それにそう遅い時間でもなかったし、幾分おかしなことのように思え、ちょいと首をかしげてしまったのも無理はない。他の住人たちは皆寝てしまったのか出掛けてしまったのか、まあ何にせよ特別な理由など何も思い浮かびはしないし、奇妙に思えたところで恐らくそれはごく有り触れた偶然に過ぎないのだろう。

 薄暗い路地を抜けて広い十字路に出ると、横断歩道の向こう側で、明りが煌々と燈され緑色をした小さなパワーシャベルが道路を掘り返していた。赤と白のコーンに囲まれ大勢の作業服姿の男たちに見守られながら稼動する小さなパワーシャベルは、大地に穴を穿つという男性的行為を行なうにはいかにも幼児的で、どこか痛々しく卑猥にさえ思え、ばんやりと信号を待ちながらそんな発想をする自分に思わず苦笑する。
「ようようこれで棲家がなくなってもうた」
 背後に気配などなかったはずなのだけど、そんな声が聞こえ振り返ってみるとしわくちゃの小柄な老婆とおそらくはまだ学齢まえの小さな女の子が二人まるで唐突に立っていて思わずギョッとする。おかしなのは先程の聞いた声が一体どちらが発した声なのかまるで判別がつかなかったことで、思わずジッと見詰めてしまうと、その視線に気付いたのか、女の子の方が老婆の手を握りしめながら僕を見上げ、こう言った。
「三日したら雨が降り止まなくなるよって」
 その声は先程の声と同じ声に違いなかったのだけど、こうやって面と向かって聞くとそれは子供の声にしか聞こえず、先程老婆の声か子供の声か判別がつかなかったのが不思議なくらいで何やら薄ら寒い。
何も言い返す言葉が思いつかなかった僕は曖昧な笑みを浮べ、パワーシャベルの駆動音を聞きながら薄暗い路地に引っ込むと帰路についた。途中振り返ってみたのだけど二人の姿はもう見えず、何故だかホッとする。

 明りのまるで途絶えた古いアパートの錆びついた階段をカンカンと登って暗い部屋に辿り着き明りを燈した瞬間、背中をゾッとした寒気が走って、部屋をよくよく見渡してみるのだけど、変わったところは無慈悲にも何処にもない。
 気がついてみれば古いアパートのただ一つ明りの燈ったこの部屋で僕は一人取り残されてしまっていた。



Copyright © 2003 曠野反次郎 / 編集: 短編