第15期 #28

 嘗て無いほどの雨が降っていた。
 路地に降り注いだ雨は濁流となり、そこに放置されていたものたちを呑み込み、持ち去った。
 男の飼っていた猫もいなくなっていた。
 町には警報が鳴り響き、避難を呼びかけていたが、男は避難場所を知らなかった。
 男は食卓の椅子に腰掛け、煙草を一本取り出して火をつけた。
 このまま流されてしまうというのも悪くない。
 男はそんなことを思った。
 食卓に、猫の餌を盛ってやる銀の皿を見つけて、もはやこの皿を使うこともなくなってしまったと思い、男は煙草の灰をそこに落とした。皿には幾分かの水分が残っていたようで、灰が落ちるとジュと引っ掻くような音を立てた。
 このまま流されるならば、その前にやっておくべきことがあるだろうか。
 男は考えてみたが、何一つ思いつかなかった。
 だが、暫くすると無性に誰かと話をしたくなった。男は立ち上がり、電話の受話器を取った。受話器からは何の音もしなかった。ダイヤルを回しても、全く反応はなかった。
 断線か。
 男がそう思って受話器を置いた瞬間、電灯が消えた。夕刻ではあったが、低く垂れ込めた黒々とした雨雲のおかげで、外は夜のようであった。その夜が男の家の中にも入ってきた。
 低い、何処からか巨大な動物の唸り声に似た振動が響いてきた。それは苦悩する叫びのようにも、絶望に捕らえられて逃れられずに泣いているようにも思える、酷く悲しげな響きだった。そして、その響きは凄まじい速さでこちらに向かってきていた。
 響きはあっという間に轟音へと変化した。バリバリと堅い棒状のものが無理矢理へし折られるような音。男は窓へ駆け寄った。
 今まさに隣家が流されようとしていた。粘りと重量のある大量の泥水が隣家を狙い打ちするかのように取り囲み、押し流していた。
 流されようとしている隣家を見ている男のちょうど目の前に窓があり、そこに一人の女が立っていた。
 女は男を見ていた。
 身動きすることもなく、表情もなく、女は男を見ていた。
 流されていく動きに合わせて、女は男の方へ顔を向けた。見えなくなってしまうまで、女は男を見ていた。

 嵐の去った翌朝、男は外に出た。
 外は見事な快晴だった。
 見ると、泥だらけの道なき道を一匹の猫がこちらにやってくる。
 猫は、男の足下にやって来ると、くわえていた女の左手を置き、にゃーおと鳴いた。
 薬指にはめられた指輪が太陽の光を反射したので、男は目を細めた。



Copyright © 2003 逢澤透明 / 編集: 短編