# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | かくれんぼ | 池田 瑛 | 993 |
2 | 僕は疲れていた | りゅうのすけ | 777 |
3 | 赤い靴 | 井澄星菜 | 875 |
4 | アジアカップ | かんざしトイレ | 1000 |
5 | 世界が終わる時 | 希人 | 988 |
6 | 辞書を編む | たなかなつみ | 537 |
7 | 音楽 | なゆら | 770 |
8 | アカシック・レコードをめぐる物語 離島編 | 白熊 | 1000 |
9 | ミスター・天狗レディブル | 五十音 順 | 735 |
10 | 白粉 | 岩西 健治 | 967 |
11 | 死んだ人と出会った話 | 片岡 麻美子 | 718 |
12 | ひとりの景色 | 戸板 | 643 |
13 | 鼠(革命にまつわる諸風景について) | こるく | 1000 |
14 | 蝉 | 春川寧子 | 1000 |
15 | ずっと呼びかけられている | 霧野楢人 | 1000 |
16 | 愛か、それとも、 | わがまま娘 | 797 |
17 | 銀座、仁坐、放坐 | Gene Yosh (吉田 仁) | 999 |
18 | 妻を飼う | まめひも | 818 |
19 | 辿り着けない金星 | 皆本 | 900 |
20 | 月を青く塗る | 吉川楡井 | 1000 |
21 | エア | euReka | 1000 |
「このランタナって、世界の侵略的外来種ワースト100に指定されている植物なのよ。おじいちゃん、なんだかんだ言ってまだ元気なのだから運動だと思って庭の雑草くらい抜いたら」と孫が庭の手入れをしながら声を上げた。
曾孫2人は、家の中でかくれんぼをしているらしい。直ぐに見つかるだろうと思うのに、胡座を書いていた私と、両手で広げていた新聞の間に、割り込んできた。
「おや、ここに隠れるのかい?」
「たんめーもする?」と聞かれた。
「もうかくれんぼはこりごりだよ。ほれ、おとなしく隠れなさいな」と私は言った。
・
深い闇の先に光芒が生まれるのをが見えた。
「あの光に刺されたら、次の瞬間、体に穴が空くよ」と節子は静かな声で云った。節子の体は、剣山のように尖った草むらの中に沈んでいく。僕も同じように体を沈めた。運が悪いことに、ランタナの茎が頬を擦ったようで、棘の痛みを感じた。
「よし、行ったよ」と節子はむくりと起き上がる。そして、金網を握りしめた。
「ここに抜け道がある。帰る時は元通りにして、見つからないようにするのを忘れちゃいけないよ」
僕は黙って頷いた。
節子は静かに金網を少しだけひっぱり、中に体をねじ込ませていった。そして商品が一杯に詰まった風呂敷も中に引っ張り込む。
「早く入りな。早く来ないとまた巡回が来るよ」と節子は言う。僕も体を起こし、隙間に体をねじ込ませる。
節子は両手で風呂敷の結び目を抱えながら、宿舎に向かう。カーテンが開かれている窓が見えた。節子のお得意様がいるらしい。節子は遠巻きに部屋を眺め、そして近づき、ガラスを軽くノックする。
節子は、泡盛が入っていると思われる壺を片手に、「つーだらー、つーだらー」と呪文のような言葉を発する。どうやら客は、野菜はいらないようだった。
ちょっとしたやり取りの末、皺くちゃの紙と壺を交換した。
「今日はこれで退散するよ」と言って、金網の方へと節子は腰を曲げ、頭を低くしながらネズミのように走る。僕もそれを追いかける。
金網の外に出たところで、節子は「こんな感じさ」と言って笑った。僕も緊張の中、口を震えさせながらはにかんで見せた。
節子の笑顔を見たのはこの時が最後だった。
・
「みーつけた」という声がきこえた。見つけた曾孫も、見つかった曾孫も、笑顔だった。
「今度は私が隠れる」と言って、縁側を走っていく。
空には白い絹のような飛行機雲が三筋見えた。
僕は疲れていた
「確かに謝るよ きょうのデートは失敗だった」
僕は言った。多分僕の方が悪かったんだろう 2人して休日にあんな糞映画を見にくべきじゃなかったんだ。いい席に座れなかったのに大して面白くなかった。
「だからといってひっぱたくことないじゃないか」
僕は君に言った
「その上 あのフランス料理店では水をかけてきた」
あのフランス料理店は予約したのに偉く待たされた
どうも予約の仕方がまずかったみたいだ
おまけに料理もおいしくなかったのだ ネットの口コミは当てにならない
「そんなんだからいつまでもうだつが上がらないのよ」
彼女は言う
「あなたは大学の非常勤講師のままよ」
僕は大学の非常勤講師をしている 40近くなっても一向に
いい職業にありつけそうにない 先に良い展望などない
「それでもいいじゃないか これからも 今まで二人ですごして来た時間
それを大切に」
「何言ってるのあなた 私だってもうすぐ30よ 結婚して
子供だって生みたいわ」
彼女は金切り声をあげた
彼女もいい年なのだ だから最近イライラしている
僕だって結婚して家庭を持ちたい でも今の収入では
「子供なんて要らない 結婚なんて形だけのもんだ 役所に行って
書類を出せばいい」
結婚なんて紙切れだ 所詮ただの約束 別に子供なんて持たなくても良い
最近はそれだって普通だ
でも 彼女は言う
「そんなんだからモラトリアム人間なのよ」
彼女の怒りの数値はマックスに上がった
「やれやれ」
ここで僕はゲームを中断した
スマホのアプリのゲームをやっているがどうもうまくいかない
自分の設定を入れたアバターはいつも彼女にしかられてしまう
まあ彼女なんてこの数年いないわけだが
今日も選択したデートコースは失敗だった
つぎはどうしようか
「次は代々木 代々木」
満員電車の中 家に帰れば一人だ 冴えない大学非常勤講師
今日も明日も 先は見えない
僕は疲れてきた
昔、赤い靴の童話を読んだ私は恐いのに、妙に心惹かれた。何故だろう?
赤い靴には、いつも哀しみがつきまとう。
赤い靴の童話は、主人公のセーレンが、結局、本当に大切なモノはお金で買えないことを自らの足を犠牲に悟るもの。
赤はどうして、そんなに哀しみに暮れるモノばかりなのだろう。いつしか、血を見ると無性に恐くなるようになった。赤はあまり、すきじゃない。それは、血の色だから?
夕焼けの中、私はこの童謡を口にする。
赤い靴【童謡】
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんのお国に いるんだろ
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに逢うたび 考える
この唄を知った私は無性に興味をそそられる。
メロディーはあのモーツァルトの《きらきら星変奏曲にそっくりなことで有名だ。
でも、きらきら星とは違う哀しい歌詞。
いつも、私はどうして、茜という名前なのか?
いつも、この名前を呼ばれると切ない気持ちになる。
そして、彼氏に初めて、買って貰ったあの《赤い靴》を履きながら、思うのだ。
次産まれてくる子は、《紅》か、《緋》にしようと。そして、こんな哀しみの唄なんて、変えてしまえばいい。
悲しいような切ないような……それでも、明るい思いやりのある、女の子になるように。
あの《きらきら星変奏曲》のような輝きを放つ女の子になるように。
私は夕焼けの中、ひとり、口ずさむ。
赤い靴 はいてた 女の子〜♪
異人さんに つれられて 行っちゃった〜♪
横浜の 埠頭から 船に乗って〜♪
異人さんに つれられて 行っちゃった〜♪
今では 青い目に なっちゃって〜♪
異人さんのお国に いるんだろ〜♪
赤い靴 見るたび 考える〜♪
異人さんに逢うたび 考える〜♪
まるで、唄の魔法にかかったように、
やけに今日は、茜色のソラが太陽を照らしている。まるで、お腹の中の双子に語りかけているみたい。
赤い靴を履きながら、彼氏ーーいや、旦那の待つ静岡の町へ、横浜という異人の街から、帰っていく。まるで、唄の世界にいるみたいだ。
アジアカップは液晶テレビで見た。年が明ける前からインターネット上の比較サイトをチェックしたり、家電量販店のテレビコーナーで実物を下見したり、優柔不断を楽しんでいた。それまで使っていたのが21型のブラウン管で、ワンルームの一人暮らしではそのくらいで十分と思っていたのだが、購入者の感想によるとなるべく大きなものを買った方が満足度が高いらしかった。ある程度大きめのサイズにしてもすぐに慣れてしまい、もっと大きいのを買えば良かったと後悔するのだという。それにしても32型というのはかなり大きいのではないだろうか。それでも誰かさんに従って40型以上にした方がいいのか。
その頃はまだ、液晶テレビは動きに弱いと言われていた。それを補う特殊機能を各社がアピールしていた。解像度もそれぞれの商品で違いがあり、やはり大きいほど高性能なのだが、そうすると値段も上がる。大きなテレビというのは贅沢品なのではないか、という気持ちは以前からあった。自分のような分際でそのような贅沢をすればバチが当たるのではないかと根拠もなく怯えていた。それでもそろそろ買い替えないといけないと思ったのは、地デジ移行という世間の大きな波にさらされていたからだった。
本当はその頃、生活を一新したいと思っていた。それは漠然としていたが断固とした思いであって、引っ越しの時に荷物になる大型テレビを買わないということを決意の表れとみなしているところがあった。ある種の願掛けでもあった。ところが漠然とした思いには現実を変える力はなく、「テレビが変わる、地デジに変わる」のCMに促されるように7月までの現状維持を観念して、結局、インターネットの通販サイトで注文した。ネットと店舗では値段に大きな差があったからである。
届いたのは1月半ばだったと思う。細長い大きな長方形の箱が届いた。重たいブラウン管の代わりに大きさの割に軽い薄型テレビが台に載った。最初はその圧倒的な存在感に違和感を持ったが、同時に気持ちが高ぶった。32型でもそれまでに比べればはるかに大きく感じた。地デジの横長の画面はサッカーを見るのに適していた。クリアな画面に迫力ある映像でアジアカップの観戦を楽しんだ。試合内容は覚えていないが、素晴らしい臨場感で優勝の瞬間に立ちあえて、テレビを買い替えて本当に良かったと思ったものだった。津波の映像も女子ワールドカップ優勝も、そのテレビで見た。
広大で荒れ果てた砂漠を歩く、二人の男女がいた。
男はぼろ衣、そして腰には剣を携え、女は巫女装束を身に纏っている。というのも、彼女は世界に愛を捧げる巫女の一人であり、今もその役目を担っているため、そのような格好をしている。
世界に愛を捧げる方法は巫女によって様々だが、彼女の場合は毎晩、大空を仰ぎ歌を唄うことであった。一つ一つ、丁寧に口から紡がれる言葉は、男には理解出来ない異国の言語であった。それでも、言葉の壁を超え、彼女の内面を映し出す神秘的な音色を奏でていた。
聞く者を元気付ける声。それを持つ彼女に、男は次第に惹かれていった。彼女が巫女だと知った時から、それはいけないことだと分かっていたが。
街を目指して彷徨う二人。だが、一向に目的のものは視界にすら映らず、気力は失われつつあった。水筒にはもう、水がない。
男は絶えず彼女に気を配った。はやく街に到着せねばと、焦りだけが募る。その様子を見て彼女はくすりと力なく笑った。
この男はいつもそうだと、彼女は内心思う。
二人して凶暴化した動物に襲われそうになった時も、不器用なくせに剣で追い払ってくれ、銀色に輝くそれがただの飾りではないのだと証明してくれた。そのような一生懸命ならところが好きだった。彼女は。心から。
しかし、それはいけないことだと重々承知で。……なぜなら、彼女は巫女だからだ。
知らない間に倒れていることに気付いた。風と砂が入り乱れ、巻き込まれてしまったのだろうか…、視界は真っ暗だった。お互いに握った手が、自分はここにいるのだと分からせてくれる。
男は口を開くが、掠れてもう言葉にすらならない。喘ぐ。喘ぐ。最後に残ったなけなしの水分が目から溢れていく。目は使えない、鼻も使えない、感触も、分からなくなった。人間の機能が段々と死んでいく。諦めかけたその時に聞こえてきたのは、唄。
毎晩、聞いていたあの唄だ。
そして、それが男に向けられているものだとすぐに分かった。
男は、一瞬泣きそうな顔になり、次にはとびきりの笑顔を見せ。その声に応えた。
この世界は巫女から捧げられる愛で、全てが動いている。
しかし、時が経つにつれ巫女達は世界を愛することを忘れ、代わりに人を愛し、動物を愛し、物を愛した。動力がなくなりつつある世界が辿る道は、ーー崩壊。
そして、今。最後の一人となる巫女が捧げるはずだった愛は、目の前の男に向けられ。
世界は、幕を閉じた。
辞書がある。一語につきひとつの語意が注意深く選ばれる。許される言葉の数は限られている。私たちは辞書にのっとって話さなければならない。誰も傷つけないように。誰も非難しないように。私たちは常に正しくあらねばならない。政治的に、正しく。
私たちは会話をする。言葉の端々まで意識的に、思考を重ねて発話する。辞書から外れることなく、辞書の定義に完璧にのっとって。
一方で、私たちは私たちの文法をつくりあげる。それは、ほんの少しの語尾の変化。ほんの少しのアクセントの変化。発話する言葉はそのままに、新しい文法をつくりあげる。辞書から外れることなく、辞書の定義に完璧にのっとって。誰にもそれと気づかれることなく。それは、私たち自身にすら。
私たちの文法は、辞書の言葉に私たちの意味を含意させる。私たちは非難する。私たちは嘲笑する。私たちは常に抵抗する。
私たちは私たちを解体する。私たちは私たちを無にする。私たちは常に私たちに抵抗する。
辞書がある。その辞書の編纂に関わるのは、すべての私たちであり、そして、その辞書を目にする人間は誰もいない。いつか編みあがったその辞書が人の目に触れることもあるかもしれないし、誰の目にも触れないまま朽ちていくかもしれない。けれども、それは今ではない。
「はじめにリズムがあったなんて誰が決めたの?」
と言ったのは春子さんで、しばらく反応できずにいたら、
「言葉があって初めてリズムが成り立つんでしょうよ」
「そうかもしれませんね」僕は言葉を選んで続ける。
「言葉があって、それを伝えるためのリズム、悪くない発想だ、しかし」
「しかし」
「やはりリズムが初めにあったような気がするんです」
どうして、と春子さんは薄いカルピスをひとくち。
「だって動物は音を鳴らすじゃないですか、それはリズムみたいなもの」
僕はカマンベールチーズをひとくち。
「わからないじゃない、わからないようにしゃべっているのかも」
「しゃべっているとしてもです、リズムは動物としての本能を揺さぶるんです、リズムがあればほら、とたんに体は動き出すでしょう。これは意思ではありません。ただの本能です。本能に突き動かされた阿呆です。人間所詮リズムの本能には止められないのです。間違っても我慢などしてはいけませんよ。ここで我慢するのはおそらくインテリ。大学でのボンボンか生娘が本の読み過ぎで頭は宇宙ぐらいに膨らんでおいて、度胸も技術もないくせに能書きだけはぺらぺらぺらぺらいくらでも溢れ出てくる。もっと楽になれよ。ほらそんな水着なんて脱ぎ捨ててさ、阿呆同然になれよ。一度ここまできたらわかるよ。一度もこずにその浜辺でケセラセラ笑ってるだけで何が面白いってんだ。そうさ、潮の匂い、照りつける太陽、波の音、ラーメンの温さ、缶ビールの汗、女の尻、使い古しのコンドーム、花火の残骸、それがリズムだ。お前にはリズムが足りない。リズムがあればもう少し、立派な大人になれるってのにもったいないよ。俺が教えてやる、リズムとは何か、まずこれをはきなさい。そう、黒ストッキングだ。何の疑問も持たずにまずはきなさい」
カマンベールチーズ食いながらたくさんしゃべるべきじゃない。
(場所はと或る島の砂浜)
「文系の僕にはよくわからないや」
「つまり、ドーナツの形ということよ」
「この世界が?」
「そう。この世界の形が」
なんだかはじめて出逢った宗教の逸話を聞いているようだった。でも猜疑心は抱かなかった。
綿のような雲以外に視界を遮る物のない空と海は際限なく広がっていた。バニラアイスにも見える砂浜がどこまでも平ぺったく続いていた。島の外とはまるで時間の流れが隔離されているかのようだった。
「教わったことを鵜呑みにするだけじゃだめ。純粋とおバカは違うんだから」
僕は立ち上がると目を細めて水平線に目をやった。
「あ、怒っちゃった? ごめんなさい」
「ううん。でもそれは、地球は丸くないってこと?」
「丸いってその目で見たことなの?」
「見たことはないけどさ。でもこうやって見ると、やっぱり水平線が膨らんで見える気がする。それに、自分の目で見なくちゃ信じない、というのも難しいよ」
「でも大切なことなら、やっぱり自分の目で確かめたいでしょ? 人って、会ってない人でも好きになるの?」
「それはないよ。やっぱり会ってから。ねえ、なんでツイッターをやってたの?」
「みんなのつぶやきが、怒って、悲しんで、喜んで、また怒って。めぐっているのがおもしろかったから。アカシックレコードがどうして全ての歴史を記憶していると思う?」
それは僕がここに来た理由だった。その答えを知りたかったのが半分。そしてそれを聞いた後も、この世界で生きていくのが怖かったのが残り半分。
「実在するの?」
「わからない。私も見たことがないから。でもね……」
僕は腰を下ろした。さっきよりもお尻半分、彼女の尾ひれに近付いた。
海の向こうのなだらかな海面を一匹のシロイルカが飛び跳ねた。
「見て見て、あれが創造主よ」
「創造主? 何の?」
「この世界の」
「どういうこと?」
「バブルリングって見たことある? 私達はドーナツの形をしたバブルリングの中で生きているの」
「バブルリング? 地球が? それとも宇宙が?」
「地球も宇宙も同じ。バブルの内壁に立っていれば、どこも頭の上は空(から)っぽの空」
さっきのシロイルカがまた跳ねた。
「バブルリングの遠心力であなたもここに座ってる。少しずつ広がりながら霧散するまでの束の間の世界。その時になったら、あなたも一緒に外へ連れて行ってあげるね」
「イルカのバブルリング……。そうか、だから僕達は海に囲まれているのか」
結婚式前夜になって、彼が突然、俺、実は天狗なんだ、などと言う。
「証拠、見せてよ」
笑いながらそう訊ねると、ソファーの上であぐらをかいていた彼は申し訳なさそうに、そのままの姿勢で一メートルほど宙に浮き上がってみせた。笑顔が凍りついた。
「ホントに、天狗なの?」
「うん。黙っててごめん」
「あなた、鼻、低いじゃない」
「いや、俺、烏丸天狗のほうだから」
そう言われてもピンとこない。
とはいえ、今更どうしようもなかった。
友人たちからの祝辞を上の空で聞いているうちに、式はつつがなく終わっていた。
今後のことを思うと少し胃が痛んだが、お色直しの際、「鼻、そんなに低いかなぁ」と鏡を気にする彼をどうしても嫌いになれなかった。
飛ぶように十五年が過ぎた。二人の子供にも恵まれた。
中二になる上の男の子は、とにかくスポーツ万能だった。
短距離でも投擲でも水泳でも、何をやらせても世界記録にさえ迫る成績を残す。
早くも多くの高校から続々と推薦の話が舞い込んでいる息子は、「最近、ファンクラブまで出来ちゃってさ」とはにかみながらも、満更ではなさそうだ。
下の小四の女の子は、驚くほど勘が鋭かった。
テストの問題からニュースを騒がす凶悪事件の犯人まで、まるで見てきたかのように言い当てる。
今日の買い物帰り、一緒に宝くじ売り場の前を通りかかった時など、「お母さん、次のロト6の当選番号はね、」と得意げに語り始めた。末恐ろしい子だった。
彼は、「そんなの俺にもできないのに」と苦笑しながら、私の隣で娘の寝顔を優しく撫でる。
時間が穏やかに流れていく。この人と結婚して、本当に、よかった。
やがて、彼の寝息も聞こえ出した。
息子は、部活の合宿で今日は戻らない。
私は変化を解くと、金糸のように輝く自慢の尻尾を毛づくろいし始めた。
墓地の入口の提灯の下には女がひとり立っている。
家康は金を払ってその女を抱く。
母の記憶を辿りながら家康は絶頂を迎える。
女の出した麦茶を飲んだ家康は急に睡魔に襲われる。
目が覚めると朝である。そこは母の墓前であった。
橙色に灯をともす提灯の光が余計に辺りを暗く見せ、白粉を塗った女の顔はほぼ見定められなかった。顔は見えなかったが、その女は家康の死んだ母より明らかに歳上である。それでも家康は酔った勢いも手伝ってその女を抱いた。多少手荒に扱っても、女のどっしりとした腕や足、胴などはびくともしない。こちらは金を払っているのだからな、と自分の正当を心の中に叫んで、家康がよだれを垂らしながら嗅いだ海の女独特の潮の匂いのする髪には、わずかに白粉の香りが混じっていた。
港から歓楽街へ続く坂を上っていく。坂の突き当たりには客引きの女が闇の中に立っている。くゆらした煙草の火だけが、まわりの提灯のせいで暗くなった闇の中で小さく息をして。交渉はあっけない。指五本は五千円であり、そこから指の本数を減らして値踏みをする勇気を家康はまだ持ち合わせてはいない。週に一度、溜まったものをはき出すために家康はこの歓楽街へと通う。散財ではない、と女への道すがら家康は鼻歌のように呟くのである。
母が死んでからは祖母が母親がわりであった。祖母は金曜の夕方になると白粉をして出かけていく。小学生だった家康は寝たふりをし、布団の中で玄関の戸の締まる音に聞き耳をたてた。そんな日は決まって父親が味の濃い、不揃いな野菜炒めを作ってくれた。祖母は明け方まで帰ってはこない。
家を出た家康は、ぎらぎらとした瞳でやみくもにさまよい、喧嘩ばかりを繰り返した。何者かになってやるという根拠のない恐怖に付きまとわれ、それを払いのけるように酒と煙草をあおり、結局は隣町で父親と同じ海の仕事に就いた。この世界は蟻地獄である。もがいてももがいても外の世界へは出られない。それは土地であり、血縁である。呪縛を知った家康は喧嘩をすることにも虚無を感じたが、それでもはき出すものは尽きなかった。
中に出しても良いと言った女の腹の上で家康は絶頂した。行為の後、ぬるい麦茶を出す女の顔は闇の中で、この意気地なし、とにやりと笑ったように見えた。明日の朝、母の墓前へ花を手向けようと家康は誓った。
昨日ある男と知り合った。白いシャツが格好良くて、私なんかに声を掛けてくるタイプでは無かったから、実は彼が死んでるって言うのを聞いたときは、酔いも手伝ってか、やっぱりなぁ、という、軽い失望っていうのが先に来た。素敵だな、って人に恋人が居るっていうのを聞いたときと似たような感じ。店を出て通りを渡る。生暖かい空気に逆に鳥肌が立った。彼はさっきから何やら言っているが、行き交う車やパチンコ屋の音で声が聞こえないので耳を近づけようとして何度も体がぶつかった。
「だからさぁ、共通の知り合いの居ない友達が、本当にこの世に存在する人なのか証明できるのかって考えたら、意外に出来ないだろ。」
「まぁそうだけどさ。」
向かいから来るサラリーマン二人連れは話をしながらも私たち二人分体をかわすようにしてすれ違ったから、私にしか見えてないっていうわけでもなさそうだけど。言おうとしたけど黙っておいた。彼は私の部屋に来ることにすると言って、トラムに乗り込んだ。つり革を両手で掴んで、上の洋酒の広告を眺めながら、親指が眉毛の付け根に当たるようにして掻いていた。
豆電球の下でのひげの感じや、シャツの背中の匂いも、やっぱりどう考えても死んでいるという感じはしなくて、夜中目が覚めてむき出しの背中を見ていたら少し腹が立った。わき腹の下のシーツに手を突っ込んでみたらやっぱり温かくて少し湿っていた。朝一緒に部屋を出て、興味が無い風に、どこ行くの?と尋ねても、彼は「あー まあね」と言うばかりだった。駅に着くと、「ちゃんと会社行けよ、頑張れよ」とかお気楽なことを言って、回れ右をして、じりじりとした太陽の下、用水路を覗き込んだり、雑草を触ったりして住宅地のほうに消えていった。
階段をおりてから、財布をなくしたことに気がついた。
地下の電車は来ていたから、わたしはためらいながらも乗ることにとした。
このご時世で落とした財布を拾ってくれる人がいるのか、少し疑問だったが、他人を信用するのもいいのではないかと、そう思った。
半年前の私なら、そんな行動はとらなかっだろう。
しかし今のわたしは無性に他人を信用したい、そんな気持ちだった。
再就職先の会社をリストラになり、妻と子供も私から去っていった。
残されたものは家のローンだけで、時間だけは有り余るほどにとある。
だからだろうか、財布を誰かが拾って届けてくれていたなら、世の中を信じれる気がした。
もう一度、やり直せる気がした。
電車の中では見知らぬ他人が、無言のままで座っている。
わたしも静かに座りながら、地下の景色を楽しんでいた。
こんなに精神的に余裕があるのは、幼年時代以来ではないであろうかと思う。
振り返れば、何かに急かされながら生きてきたみたいなものだ。
脱落をしてはいけないと、ただそんなことを思いながら日々を暮らしてきた。
社会は厳しいものだと。
しかしいま離れてしまってから、そうではないのではないかと思っている。
自分が社会の一線にいた頃は、確かにそう思えたのだが、脱落してしまうと違うようにと思えてきた。
世の中は優しいものだと。
あした私は、交番にと行くことであろう。
数日後に財布は、見つけられるであろう。
たぶん別れた妻や子供よりも、見知らぬ他人のほうが遥かに温かい。
そんなことを思いながら、わたしは地下鉄にと揺られ続けた。
我が国の独裁者が死んだ。
彼は定例となった十二月の全党集会へと向かう道中で、突如専用車を包囲した反乱軍の凶弾に倒れた。死体は彼の側近によって無事に回収され、現在国立病院に安置されている。今後の政府としての動向は依然として不明である。新聞はどこも自らの立場を明らかにすることを嫌い、一面記事にも関わらずまるで三流の芸人が死んだかのように、淡々とした事実のみを述べていた。
僕の会社は暫くの間休みとなった。誰にも今後のことはわからなかったし、何よりも働くよりもやらなければならないことが山のようにあった。僕は二日掛けて家中の彼と関係のありそうな物証を燃やし尽くし、それでいながら党員証は捨てずにどちらにだって寝返ることのできるような準備に明け暮れた。そんな僕を見ながら恋人はくすくすと笑い、ディズニーランドに行こうと言った。僕は呆れて答えた。
「なあ、こんな国家の危機にディズニーランドに行く奴なんてよっぽどの間抜けしかいないぜ。それに第一、ディズニーランドは営業なんてしていないんじゃないか」
しかしながら、いざ現地を訪れるとディズニーランドには途方もない数の人間が押し寄せ、開園以来の入場者数記録を更新していた。辺りには爆音のミッキーマウスマーチが鳴り響き、ミッキーマウスとその仲間たちは狂ったように踊りまくり、人々は喜びを全面に歓声を爆発させている。
「どうやら、僕が間違ってたみたいだな」
と、僕はうんざりしながら言った。
エントランスの広場には朝のうちから大勢の子供たちが集まっていた。みんな風船を片手に、静かに空を見上げている。僕がその周りを取り囲むように集まっていたギャラリーに何が始まるのかと尋ねると、誰もが口を揃えてわからないと答えた。その観衆に僕たちも加わり、後からやって来る人間に同じようにわからないとだけ何度も答え続けた。
子供たちはどこからともなく風船を片手に現れ、その数は少しずつ増えて行った。子共たちの人数が優に三百人は超えた頃、一人の子供が風船を手から離したのを合図に、彼らは次々と風船を空へと放った。赤、青、黄色。色とりどりの風船がゆっくりと空へと昇っていく。大人たちは口を開けてそれを見上げている。ミッキーマウスマーチはまだ鳴り響いていて、どこかで彼が喋っている。
――ようこそ、ここは夢と希望の王国。
僕の隣で彼女はくすくすと笑い、馬鹿みたいだねと小さく耳打ちをした。
ことんと何かの落ちる音で僕ははっと目を覚ました。ついうっかり居眠りをしたようだ。少し問題集を眺めた。ふと時計に目をやると、昼の2時半、お昼ご飯がちょうど効いてくる頃だ。どうにも眠い訳である。久々に散歩にでもと、サンダルを履いて外に出た。
太陽の光は、受験生で家に篭りきりの僕には懐かしかった。懐かしいというには少々まぶしすぎるか。長い散歩はできない、近くの道を10分ほど歩くことにした。
家を出て、並木道に入り、両脇の木の深い緑を一歩一歩味わう。木漏れ日がきらきら光って、木の影がふわふわゆれて、光はちらちら僕を照らした。なんとも綺麗、それなのに、同時に何だかうるさいように感じてしまうのは、実際蝉がうるさいからであった。ミンミンだかシャカシャカだかなんだか知らないが、大層やかましかった。この木はこの良い景色を作り、僕を木陰で涼しくさせると同時に、蝉を止まらせ、しつこくてあまり喜ばれない夏の風物詩を鳴らしたのだった。
でも、考えてみれば、今日は彼らの晴れ舞台だ。絵に描いたような夏の空が輝くこの日に、彼らは暗い土の中で長らく我慢してきた大きな声を響かせ、そして数日後には死んでいくのだ。今日ぐらい、彼らの声を我慢してやってもいい。そんな気がしてきた。
僕は周りをくるっと、またくるっと見回して、蝉を探した。蝉の、おそらく得意げであろう顔を拝んでやろうと思った……
一匹見つけた。蝉だった。ただの蝉だった。ただの蝉という以外なんとも言いようがなかった。彼の声は他の仲間たちの声に紛れてよくわからなかった。しばらくただじっとその彼を見つめていた。特に何を考えるわけでもないままただじっと見つめていた。やはりただの蝉だった。
ああ、ぼーっとしてる場合でもないか――僕はその並木道をてくてくと通り過ぎて、そうして家の前に着いた。
ぼーっとしていたせいで、家の石段でおっととつっかえた。ふと下を見た。何かがいた。蝉だった。ひっくり返って、こっちをじっと見ていた。何も考えていないようだった。
足でつんとつつく。動かない。死んでいるようだった。両手で丁寧に拾った。拾って庭に埋めた。しゃがみこんで、手を合わせて……僕はゆっくり立ち上がった。
――――僕も案外、蝉みたいなもんだったりしてな――――
僕は家のドアを開けながら、そういえばあれはなんという蝉だ、と彼の姿を思い起こしていた。家の中は少し暗く思えた。
K子の葬儀に参列する同窓生は少なかった。それも含めて懐かしかった。厳ついとか根暗とかではなく、彼女には昔から妙に近寄りがたい雰囲気があった。クラスの中では密かに「巫女」と呼ばれていた。
修学旅行の夜、ホテルのラウンジで偶然K子と二人きりになり、何の話の流れでか昔話を聞いたことがある。
「わたしの初恋は、川だったの」
K子は確かにそう言った。彼女の祖父母は農家で、広い敷地のそばには大きめの川が流れていた。危ないから近寄るなと言われていたが、二階の窓から河畔林を眺めるたび、そこに隠された水面のきらめきを思ったのだという。
祖父母が農作業に向かい、両親が買い物に行ったある日の午後、K子は玄関から駆け出した。緩やかな土手の林の中は深い藪になっていて、当時小学生だったK子は自分より背の高い草を懸命に掻き分けた。苛立って茎を折っているうちに湿布のような匂いが漂った。
川原に抜けると、向こうの空の下は立派な森だった。振り返っても同じだった。まともに聞いたことのなかったセミの声が、森の中から溢れて空を埋めた。
川の流れは澄んでいた。中央の州に、巨大なフキたちがアジサイの花のように茂っていた。うち一本のフキが突然揺れて丈を伸ばし、ゆっくり動いたかと思えば、丸い葉の間から見たことのない男の子がそれを抱えて現れた。
日焼けに鼻を黒くした男の子はK子と同じくらいの年恰好だった。目が合うと彼は驚くわけでなく、微笑んで佇んだ。
「一緒に遊ばない? 友達になろうよ」
そう誘う彼の表情は、少しだけ寂しそうに見えた。
木の葉が風に鳴った。風はどこまで吹き渡っても祖父母の家や畑に辿りつくことなんかなくて、葉の音は遠くの山まで続いていくようだった。K子は男の子を前にして、急に心細くなった。
「ごめんね、帰らなきゃいけないから……」
男の子は微笑んだまま「そうなんだ」と答えた。K子は背筋を緊張させながら踵を返した。せき立てられるように土手の藪に入る。なかなか湿布くさい中を進めなくて泣きそうになっていると、自分を探す祖父の太い怒声が土手の上から聞こえた。
「最後に川原から、『またね』って言われた気がしたの。すぐに護岸工事があってからは行ったことがないんだけど、ずっと忘れられなくて」
話し終えると、薄いピンクのパジャマを着たK子は悪戯っぽく笑った。
K子が溺れ死んだその川へ慰霊に訪れてみるべきか、私は悩んでいる。
初めて彼氏ができた。だから、手作りチョコレートを渡そうと思った。
雪国育ちの私は室温10度でもさして寒いと思いもせず、トリュフチョコレートキットのパッケージを開けて作り始めた。
チューブに入ったチョコレートを湯煎でとかし、食品用ラップフィルムの上に6等分に絞り出した。6つめを絞り出しているときには、1つめは既に固まっていた。
固まっている1つめのチョコレートを手袋をはめた手に取り、丸める。が、チョコレートはボロボロに崩れるだけで一向にまとまる気配がない。
そう、寒い部屋で冷え症の私。とても掌がチョコレートを柔らかくするだけの温度にはなっていなかったのだ。そのことには気が付かないが、チョコレートがまとまらないという事実はわかった。
私は食品用ラップフィルムの上に出したチョコレートを回収し、再び湯煎にかけた。
チョコレートを溶かしている間、考えた。もう一度同じことをしても、結果は見えている。
最終形態から察するに、そこそこ丸くて、表面にシュガーパウダーやナッツ類などが付いてデコレーションできていればよいのだ。ただ、表面にナッツ類のようなものをつけるためには、やはり表面がある程度溶けている必要がある。
手袋をはめた手でチョコレートを丸めても、表面が適度に溶けている、という状態にはならなかった。手袋をしていては、自分の掌の温度がチョコレートには伝わらないのではないか。そう思って、私は丸く固まったチョコレートを直に掌で丸め始めた。
出来上がったトリュフチョコレートの見栄えは悪くない。白とピンクのシュガーパウダーとココナッツパウダー、クラッチナッツ。普通においしそうに見える。あとはラッピングをして、渡すだけだ。が、私には気になることがあった。作っている最中、気になって仕方がなかった。
これは、本当に食べても大丈夫なのだろうか?
出来上がったチョコレートに詰まっているモノは、愛か、それとも、手垢か……。
スイス、ジュネーブはまだ、冬。国際会議はヨーロッパ各国が多勢で次に新興アフリカ各国が多くアジア人はごく少数。しかし20名ほどは各国代表でいたか。会議全体は300名ほど、加盟国100各国強の数名参加であったが、日本からは2名。最初に臨んだ、アジアの地域会議では、日本へ追悼の黙とうから開始、よく参加してくれたとの議長の問いかけに謝意を示した。しかし、放射能の問題は特有の疎外感を培うものであった。4日間の滞在中、CNN,BBCのニュースを毎朝、毎晩食い入るように凝視する。10000km以上離れた極東の一国の放射能汚染がかなりの時間を割いて報じられている。チェリノブイリ事故の際、欧州各地は放射能の数値管理、食料品の放射能汚染の数値など、これから日本が経験する慣れない放射能の数値を汚染という見えない恐怖に打ちひしがれる数年間を誰が予想しただろうか。家族を置いてここ欧州に出てきてよかったのだろうかと不安の毎日であった。最終日夜、ジュネーブの街に出ると、とある広場にキャンドルが大量に設置され、God Help Japan, God Bleess Japanの祈りの場がこれからその日本に帰らなければならないのだ、と気持ちを引き締めた。
翌日3月23日ジュネーブ空港は混雑なし往路の経路をたどり、香港で乗客は乗ったままクルーのみ交代でやはり18時間のフライトは往路と違い、Cクラスは2名のみで結果、スイスからの便は誰も日本に来る人間はいなかったのである。帰国後も各国からの支援、もの、人は大きな波のように日本の各空港、港を繰り返し打ち寄せた。救援隊の使命を受けた勇敢な戦士以外は文句も言わぬ貨物である。吉田は祖国なのに家族もいるのに帰りたくないと思っていた。そんな気持ちとは正反対に貨物は整然と、被災地へ輸送される時を待っていた。東京から関西、福岡へと事務所を移転した外資系企業の対応と、日本はどうなるのか、そんな殺伐とした気持ちをこの銀座は、夜の猛者どもを受け入れてくれるのである。震災から2週間後、吉田はその華燭の街にいた。昼間、白日にさらされる心の機微をすべて覆い隠す世界であることには間違いない。スイスで飲んだスコッチのロックより、ここ銀座で飲む、日本のウイスキーをまる氷のロックの味は世界の最高水準の味である。日本は閉鎖的で踏み入れ難い世界があるとよく言われる。しかし、それも日本の味である。
私は妻を飼っている。今を説明するために、相応しい言葉は他にない。
妻はあるとき事故に遇い、そのときから動物になってしまった。
唸り、吠え、叫び、暴れ、噛みつき、走り回る女。
私の娘たち、妻の両親は皆、最初は私の憐れな妻を哀れみ支え、そして次第に倦み疲れ、最後には見捨てた。
今は私だけが妻と一緒に、家族が逃げた家に暮らしている。
朝、唸る妻に餌を与え、昼は妻を紐に繋いで柱に繋ぎ、夜は窓を板で打ち付けた寝室に妻を閉じ込める。
職場を定年退職してから、そんな暮らしをもう三年続けている。
事故の前の妻は良家の子女という言葉で示せるような、優しく聡明で穏やかな人だった。だけれども、その妻だったときの貯金はもう尽きて、獣の妻は負債でしかない。
他所の人に迷惑をかけないよう、縛って、塞いで、しつけて。何もしませんように。何も悪いことをしませんように。
いっそ事件でも起こしてくれれば、いっそある朝死んでいてくれたら、あるいは私が死ねたなら。
最初の頃のそんな気持ちは毎日の中で次第に枯れて、時間はかさかさと過ぎていく。
ある日の夕方、私は妻の部屋の施錠を忘れたまま居眠りをした。あるいは、わざと忘れたまま。
妻は喜び勇んで外に駆け出していき、公園で遊んでいた子供の指を食いちぎった。
妻を野放しにした私への批判は凄まじいものだった。
妻を野放しにしないために私が普段妻をどう躾けていたか、それを見せると批判は一層強まった。
私は申し訳なさそうな顔をして誰にでも謝ったが、内心はどうでも良かった。これで妻がどこかに去るなら、今がマシになるかもしれないとは思った。
なのに妻は病院にも刑務所にも行かないまま家に帰ってきた。私は唖然とした。つまり、世の中が、妻を家に戻していいと、そう判断したのだということに。
妻は相変わらず獣のままだ。日々の変化はあるけれど、良くなることはまるでない。
私は今日も妻を飼っている。飼育の先の、答えは見えない。
すっかり月の熔けた夜、辿り着けない金星にまで続く道を歩いていると、ランプを携えた灰色の三つ編み一つとすれ違った。三つ編み一つは心底眠そうな欠伸をこぼし、その途中で私を見つけると、どうするのが正解か迷ったふうな会釈をしたあと、すさっと口を閉じ、ちゃんと欠伸を完成させた。私が会釈を返すと、笑みのようなため息のような小さな音が聞こえ、そのまま三つ編み一つとランプは遠ざかっていった。
月灯りはもちろんなく、辿り着けない道に街灯が作られることもなく、ランプがないと不安だなとまったくもって今更なことを考えながら歩いていくうち、道の端に屋台の灯りを見つけた。
通りすがりついでに覗き込むと、屋台にはお好み焼きや焼きそばを作るための黒々とした鉄板があり、その上にさっきの三つ編み一つがちょこんと正座していた。ぴしっと音がしそうにランプを胸の前で掲げ、しかし時計の秒針が一回りするまで待っていれば、その手がランプの重みでぷるぷると震え出すところが拝見できそうだった。
足を止めた私に気づいた屋台の店主が、「焼きますか?」と聞いてきたので、私は反射的に「いえ、生で」と答えた。そうしなければいけないような気持ちで手を差し出すと、三つ編み一つはランプを鉄板の上に置き、指先を私のてのひらに置いた。それはもしかすると餌を啄む夜の鳥を演じたのかもしれなかった。
正座のせいで足が痺れていたらしく、三つ編み一つは屋台から降りるのに手間取り、私と店主の笑みを誘った。不服そうに、かわいらしくふくれるところにも、また誘われた。
鉄板に今度は三つ編み二つをのせようとしている店主と別れ、私は三つ編み一つと一緒に辿り着けない金星にまで続く道を進む。三つ編み一つの持つランプが道を照らしているので、灯りのない不安は解消されていた。
足元しか見えない、代わり映えのしない道を延々と歩いていく途中、「どこまでいくんですか?」と三つ編み一つが聞いた。
「金星までね」
私はそう何の面白みもなく答える。
「辿り着けませんよ」
「知ってるよ」
「……そうですか」
さほどの興味もなさそうに三つ編み一つは呟き、それからただ心底眠そうな欠伸をこぼした。
誰もが月は黄色いものだと信じていて、望遠鏡の開発まで二百年、塗師の誕生まで千年ほどの時間がかかった。前夜になると塗師の家では仕度に取りかかる。刷毛はていねいに清水で洗い、毛を軟らかくするために揉んでやる。根元のほうで凝り固まってしまうと斑ができてしまうから、こちらも丹念にほぐしてやり、じゅうぶんに乾かしたあと小刀で毛先をととのえる。より繊細な刷毛遣いができるかどうかはこの工程で決まる。
顔料は鯨の油を引いた椀のなかで鉱石をすりつぶし、篩にかけ粒をできるかぎり細かくする。指を動かしただけで粉塵が舞うような、それぐらいのきめ細かさが必要だ。注水してまずはほどよく粘らせ、そして薄める。塗った際にかすれるのを防ぐためだ。
わたしは月が青でも黄色でもどちらでもいい人間だ。けれど稼ぐために顔料作りの手伝いをしている。隣のマチコもおなじだろう。四つと二つになる男の子を育てている。
その子らの父親についてマチコが語ったことはない。大陸の岩盤掘削に借りだされたとか、南天の浜で波乗りに興じているとか、うろんな噂ばかり聞く。塗師が寄ってきて、わたしたちの肩を揉んでいく。長い爪が食い込んで血が垂れる。しずくが椀に入って粉粒が紫に染まる。それをまた青に戻すため、わたしたちはすりこぎを動かす。
でき上がった顔料は樽につめられて橋まで運ばれていく。今年の券は相当売れ余ったようだ。川岸を埋める見物客は去年のそれとくらべると明らかに少ない。操橋士の男が梃子をいじくり橋の先端を月のたもとに近づける。羽と鎧で身を固め、塗り道具一式背負った塗師が、橋を駆けのぼり月面にぴたとはりつく。樽に突っ込まれた刷毛がそよぐと、金色はあざやかに青に染まった。直後の月は光を反射することがないわけだから、日が没したばかりの夜空に溶けきってしまい輪郭さえ明瞭としなくなる。されども人は暗黒の月を、描かれていない絵を観ることだって可能なはずだ……と、年々歳々のこの催し物はそんな詭弁からはじまった。
先に仕事をあがったマチコが家族で観にきていた。男の子ふたり挟むように立つ黒い影に向かって、マチコは微笑みかける。夏も暮六つ過ぎて、いよいよ月は青白く輝き立つ。汗を拭って腕を組む塗師は、橋のそでで刷毛を洗うわたしに銀貨を与えてくれるだろう。
空をつかむより手中の確かな感触を重宝するわたしは、冷えきった手ながらそれを受け取り、礼を云う。
たぶん春です。
うみうしのあとをこっそりついていったら私、磯のにおいがして、波のおとがきこえてきました。 すると磯のほうから牛がやってきて、うみうしと牛で何かを話しているようでした。
「ほしいものを手に入れたから僕、もう海へ帰るよ」とうみうしはいいました。「ずいぶん多くの人を傷つけてしまったけどね」
そしてうみうしが空を見てごらんというので、私ゆっくり空を見上げると、白い鳥がおとも立てずにおおきな、空いっぱいにおおきな円をかきました。
「なんだか、取り返しのつかないことをしてしまった気がするんだよ。空なんか見てるとさ」
うみうしと牛はさよならを言ってわかれ、それぞれの場所へかえっていきました。 私この出来事を、耳をすませながらノートにきろくしました。もしうっかり忘れてしまったら、この出来事はなかったことになるからです。
「きっと君は、感傷的なんだよ」とだれかがいいました。足元に生えた草花が何もいわず風にゆれています。「ほとんどすべての出来事は誰にも記録されることはない。それに世界が終わってしまったら、君の記録を読むものなんて誰もいない」
あなたは誰なの、と私たずねると、君の夢の中だよとそのひとはいいました。しっかり目をあけてごらんと。
私、牛のように重いからだを起こし、ノートをさがしましたがどこにもありません。目をあけてあたりをよく見ると、そこらじゅうがすっかり焼け野原のようになって、景色がひどくこわれていました。
「君、だいじょうぶか?」とオレンジ色の人が声を掛けてきたので、ノートは知りませんかと私、たずねました。
「ノート? そんなことより君、よく生きていたね。これから病院へ搬送するから君、何も心配しなくていいんだよ」
その人が、君、君、君と気安く呼ぶのが癪にさわったので私、その不快感をその人の胸ポケットに差してあったメモ帳に書きました。そしてきろくとは、そういう、どうしようもない感情ではないのですかと風に問いかけましたが、あのときの風はもうありませんでした。
私は春がきらいです。
私、あれから病院でいろいろ考えて、退院してから新しいノートを買いました。そしてうみうしと牛のことを書きましたが、夢の中のようにはうまく書けません。
牛はあのあと人間に食べられたのかも知れませんし、うみうしは一人ぼっちで泣いているかも知れません。
世界のつづきは、きっと私にしか書けないのです。