第149期 #21

エア

 たぶん春です。

 うみうしのあとをこっそりついていったら私、磯のにおいがして、波のおとがきこえてきました。 すると磯のほうから牛がやってきて、うみうしと牛で何かを話しているようでした。
「ほしいものを手に入れたから僕、もう海へ帰るよ」とうみうしはいいました。「ずいぶん多くの人を傷つけてしまったけどね」
 そしてうみうしが空を見てごらんというので、私ゆっくり空を見上げると、白い鳥がおとも立てずにおおきな、空いっぱいにおおきな円をかきました。
「なんだか、取り返しのつかないことをしてしまった気がするんだよ。空なんか見てるとさ」
 うみうしと牛はさよならを言ってわかれ、それぞれの場所へかえっていきました。 私この出来事を、耳をすませながらノートにきろくしました。もしうっかり忘れてしまったら、この出来事はなかったことになるからです。
「きっと君は、感傷的なんだよ」とだれかがいいました。足元に生えた草花が何もいわず風にゆれています。「ほとんどすべての出来事は誰にも記録されることはない。それに世界が終わってしまったら、君の記録を読むものなんて誰もいない」
 あなたは誰なの、と私たずねると、君の夢の中だよとそのひとはいいました。しっかり目をあけてごらんと。

 私、牛のように重いからだを起こし、ノートをさがしましたがどこにもありません。目をあけてあたりをよく見ると、そこらじゅうがすっかり焼け野原のようになって、景色がひどくこわれていました。
「君、だいじょうぶか?」とオレンジ色の人が声を掛けてきたので、ノートは知りませんかと私、たずねました。
「ノート? そんなことより君、よく生きていたね。これから病院へ搬送するから君、何も心配しなくていいんだよ」
 その人が、君、君、君と気安く呼ぶのが癪にさわったので私、その不快感をその人の胸ポケットに差してあったメモ帳に書きました。そしてきろくとは、そういう、どうしようもない感情ではないのですかと風に問いかけましたが、あのときの風はもうありませんでした。

 私は春がきらいです。

 私、あれから病院でいろいろ考えて、退院してから新しいノートを買いました。そしてうみうしと牛のことを書きましたが、夢の中のようにはうまく書けません。
 牛はあのあと人間に食べられたのかも知れませんし、うみうしは一人ぼっちで泣いているかも知れません。
 世界のつづきは、きっと私にしか書けないのです。



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