第149期 #20

月を青く塗る

 誰もが月は黄色いものだと信じていて、望遠鏡の開発まで二百年、塗師の誕生まで千年ほどの時間がかかった。前夜になると塗師の家では仕度に取りかかる。刷毛はていねいに清水で洗い、毛を軟らかくするために揉んでやる。根元のほうで凝り固まってしまうと斑ができてしまうから、こちらも丹念にほぐしてやり、じゅうぶんに乾かしたあと小刀で毛先をととのえる。より繊細な刷毛遣いができるかどうかはこの工程で決まる。
 顔料は鯨の油を引いた椀のなかで鉱石をすりつぶし、篩にかけ粒をできるかぎり細かくする。指を動かしただけで粉塵が舞うような、それぐらいのきめ細かさが必要だ。注水してまずはほどよく粘らせ、そして薄める。塗った際にかすれるのを防ぐためだ。

 わたしは月が青でも黄色でもどちらでもいい人間だ。けれど稼ぐために顔料作りの手伝いをしている。隣のマチコもおなじだろう。四つと二つになる男の子を育てている。
 その子らの父親についてマチコが語ったことはない。大陸の岩盤掘削に借りだされたとか、南天の浜で波乗りに興じているとか、うろんな噂ばかり聞く。塗師が寄ってきて、わたしたちの肩を揉んでいく。長い爪が食い込んで血が垂れる。しずくが椀に入って粉粒が紫に染まる。それをまた青に戻すため、わたしたちはすりこぎを動かす。

 でき上がった顔料は樽につめられて橋まで運ばれていく。今年の券は相当売れ余ったようだ。川岸を埋める見物客は去年のそれとくらべると明らかに少ない。操橋士の男が梃子をいじくり橋の先端を月のたもとに近づける。羽と鎧で身を固め、塗り道具一式背負った塗師が、橋を駆けのぼり月面にぴたとはりつく。樽に突っ込まれた刷毛がそよぐと、金色はあざやかに青に染まった。直後の月は光を反射することがないわけだから、日が没したばかりの夜空に溶けきってしまい輪郭さえ明瞭としなくなる。されども人は暗黒の月を、描かれていない絵を観ることだって可能なはずだ……と、年々歳々のこの催し物はそんな詭弁からはじまった。

 先に仕事をあがったマチコが家族で観にきていた。男の子ふたり挟むように立つ黒い影に向かって、マチコは微笑みかける。夏も暮六つ過ぎて、いよいよ月は青白く輝き立つ。汗を拭って腕を組む塗師は、橋のそでで刷毛を洗うわたしに銀貨を与えてくれるだろう。
 空をつかむより手中の確かな感触を重宝するわたしは、冷えきった手ながらそれを受け取り、礼を云う。



Copyright © 2015 吉川楡井 / 編集: 短編