第149期 #12

ひとりの景色

階段をおりてから、財布をなくしたことに気がついた。
地下の電車は来ていたから、わたしはためらいながらも乗ることにとした。
このご時世で落とした財布を拾ってくれる人がいるのか、少し疑問だったが、他人を信用するのもいいのではないかと、そう思った。
半年前の私なら、そんな行動はとらなかっだろう。
しかし今のわたしは無性に他人を信用したい、そんな気持ちだった。
再就職先の会社をリストラになり、妻と子供も私から去っていった。
残されたものは家のローンだけで、時間だけは有り余るほどにとある。
だからだろうか、財布を誰かが拾って届けてくれていたなら、世の中を信じれる気がした。
もう一度、やり直せる気がした。
電車の中では見知らぬ他人が、無言のままで座っている。
わたしも静かに座りながら、地下の景色を楽しんでいた。
こんなに精神的に余裕があるのは、幼年時代以来ではないであろうかと思う。
振り返れば、何かに急かされながら生きてきたみたいなものだ。
脱落をしてはいけないと、ただそんなことを思いながら日々を暮らしてきた。
社会は厳しいものだと。
しかしいま離れてしまってから、そうではないのではないかと思っている。
自分が社会の一線にいた頃は、確かにそう思えたのだが、脱落してしまうと違うようにと思えてきた。
世の中は優しいものだと。
あした私は、交番にと行くことであろう。
数日後に財布は、見つけられるであろう。
たぶん別れた妻や子供よりも、見知らぬ他人のほうが遥かに温かい。
そんなことを思いながら、わたしは地下鉄にと揺られ続けた。



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