第148期 #22
ふられた方が泣くのは分かるが、ふったはずの方が胃が痛いと言っていた。出社して早々、心配された友人に「どうしたの」と訊かれると、僕をふった彼女は消え入るような声で「分からない」と答えていた。
その日の岐路、釈然としない思いと嫌悪感に苛まれながら家のドアの鍵を開けた。
ぼんやりとした気分のまま風呂場へと向かった。服を脱ぎ、浴槽の蓋を取ってみたが、あるのはお湯を抜いたままの浴槽で、湯気の一つも立っていない。空の浴槽に入ると、足を抱えてうずくまった。抱いた体からは体温を感じた。外は冬の夜だった。
蛇口を捻った。足が水に触れた。水は恐れているように、でも着実に、僕の体を浸していく。
浴槽の壁を見てみると、うずくまった、くすんだ体が映っていた。壁に映る二の腕は筋肉が浮かんでいて、大腿部は太く醜い。その褐色の体からは動物のような生々しさを感じる。膝の間に頭を沈めると、目をつむった拍子に両目から涙が落ちたのだった。
しばらくすると水面は鼻の先まで来た。体はゼリーの中にあるようで、水はロウのようにこのまま僕を抱きながら固まっていってくれそうに思えた。
水面に手を出すと掌を合わせた。親指を顎に、人差し指を眉間に当てた。目の周りは今日流した涙で固まっていた。何に祈ればよいのか分からなかった。またどんな言葉で祈ればよいのか、何の言葉も出てこなかった。
それまでは何ともなかった。代わり映えのない、でも平穏な日々が流れていた。
僕が好きになることで彼女は傷ついた。ずっと目の前にいてほしくて手を伸ばした。すると、祈るべき「何か大きな物」に失意の目を向けられた。彼女は優しい。だからこそ気を病んでいる。僕はただただ、神とも太陽とも運命とも呼ぶような、大きな何かに向かって手を合わせるしかなかった。
蛇口から流れ出ているのはただの水だけど、冷たさは感じなかった。いつしか水面は頭を越え、髪の毛は静かに漂った。
祈る事ができる。祈る事しかできない。僕の想いは災いの素だ。災難。災害。僕に好かれたのが運の尽き。世界は受け入れてくれない。僕の愛情を注ぐことが正義になる人は、この世に居ないのだろうか。彼女はその人ではなかった。僕のせいで傷つけてしまった。好きな人なのに。ごめんなさい。ごめんなさい。
水はすべてを浸してくれて、涙も何も分からなくなっていた。頭上から音楽が流れると機械の声がした。
お風呂が 沸きました