第148期 #2

甘美なひととき

 私が美沙を知ったのは、今日のように何気ない日のことだった。いつものように仕事を終え、そのまま家に帰るのは億劫だったので、バーに行った。最近1人で飲むことが多くなった気がする。
 妻との関係は冷え切っていた。私には、愛などといったものは似合わなかったのかもしれない。
「すいません、お隣いいですか?」
 すっかり自分の世界に入っていたので、自分に言われているのだと気づくのが少し遅かった。もしや私に言っているのか、声が聞こえたほうを向く。
 思わず息をのんだ。彼女の魅力に吸い込まれてしまったのだ。私の意識が完全に持っていかれている。これを一言で表すなら、一目惚れだ。
「どうぞ」
 私はなんとか平然を装って答えた。
 彼女が隣に座る、その1つの動作をじっと見ていた。彼女はカクテルを頼んだ。グラスを持つ手に色気を感じた。彼女の手はまぶしいくらい白く、指は細く長い。見れば見るほど、私は彼女の魅力の虜になっていた。
「よかったら、一杯ご馳走しますよ」
 意を決して声をかける。私は精一杯スマートに言ってみせた。
「え、あたしですか?」
 彼女はちらっとこちらを向く。
「あなたです。私でよかったら……」
「本当ですか?ありがとうございます」
 彼女は24歳のOLで、私と比べて若さがにじみ出ている。話し方と比べて服装はカジュアルな感じだ。よく1人でここに飲みくるという。
「どうしてあたしに声をかけたんですか?」
「それは、あなたが魅力的だからですよ」
「……見た目のクールな感じとは違って、口のほうはベタなんですね」
 彼女はくすくすと笑う。

 その後も何度かそのバーで会った。会うたびに、私の目には彼女が美しくなっているように見えてしょうがなかった。彼女の行動の一つ一つが、私をまるで挑発するようにみえた。どこまで我慢できるかを試すように。その言葉やしぐさに、私は堕ちていった。
 
 とある日の朝、電車に揺られながら私は家に帰った。特に後ろめたさはなかった。
「ただいま」
 返事はなく、冷たい部屋に私の声だけ響いた。
「律子、いるのか?」
 居間へ向かう。すると、妻はソファに座っていた。
「どうした?」
 私は、カバンを置いて、妻に尋ねた。
「昨日、何で帰ってこなかったの?」
「それは……」
「別にどうでもいいけど……帰んないなら、そう言ってよね」
 妻は冷たくあしらった。私は、1つため息をついた。
「なあ、律子」
「なに?あなた」
「別れよう」



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