第148期 #19

街角

 何もない冬だった。
 俺は舗道を歩きながら、後ろから付いてくる女を気にしていた。
 わざと横道に入ったり、急に立ち止まったりして様子をうかがったが、女は白い息を吐きながら、素知らぬ顔で放射線測定用のモニタリングポストを眺めたりしている。建物の角を曲がって待ち伏せすると、驚いた顔をした女と目が合った。
 ちょうど雪が降り出してきたので、俺は思わず空を見上げた。
 ずいぶん遠くで犬が鳴いている。
「私を買って欲しいの」と女は言った。
 女の声はやっと聞こえるぐらいの大きさで、肩はもう雪で白くなっている。
 俺は財布から2千円取り出して女に渡した。そして、もう付いてくるなと言って女と別れた。

 次の日、街角には子どもらが作った雪だるまが地蔵のように並んでいた。頭にビール瓶が刺さった雪だるまを眺めていると、後ろから腕を引っ張られた。
 昨日の女だ。
「やっぱり返すわ」と女は言って、俺に2千円を差し出した。
 じゃあこの金で昼飯を食べに行かないかと誘うと、女は無言でうなづいた。
 アウシュビッツという看板の安食堂へ入り、俺がチキンソテーを注文すると女も同じものを頼んだ。ときおりテーブル越しの女と目が合ったが、少しも照れることなく、まるで犬でも見るように俺を見ていた。女はボサボサの金髪で、眼の中に緑色が光っている。
 お前の眼は海の底から拾ってきたガラス球みたいだなと俺は女に言って、食堂を後にした。

 それから何もない冬が一日ずつ過ぎていったあと、街角には小さな花が咲いた。
 いつもの舗道を歩いていると、丸くうずくまっている女を見かけた。俺は戦場の死体を眺めるようにやり過ごしたが、次の日も、その次の日も女はそこにいる。十日ばかり過ぎた頃に、つま先で軽く背中を蹴ると、女は小さく声を上げた。
 俺は女を部屋に運んで、温めたミルクを飲ませてやった。すると女はひどく咳き込んだあと緑色の眼を開いた。
「私、ミルク嫌いなの」と女は言った。「でもありがとう、チキンソテーさん」
 俺は女をソファーに寝かせてやり、そのあと自分のベッドに入って横になった。眠れないまま壁を眺めていると、毛布が静かにめくられて女が入ってきた。
 俺は男として役に立たないんだと言うと、女は知ってると答えた。

 朝、目を覚ますと女は消えていた。
「やっぱり2千円はもらっておきます」というメモが俺の額に貼り付けてあった。
 窓の外は、あのときと同じ雪が降っている。



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