第148期 #13

缶コーヒー

「おにいちゃん……」
 廊下の照明が駆けつけた妹を逆光ぎみに照らしていた。表情は見えなかったが口に出した言葉の密度が今にも溢れ出しそうな気持ちを確実なものにしているのは鈍感な僕にでもすぐに分かった。
「まだ、泣くなよ」
 僕は怒鳴り声に近い声域で繕った。声は震えていたはずだ。泣くなよ、が今、本当に必要な言葉かどうかなんて考えられなかったが、それでも何か言わなければこっちが泣いてしまいそうでどうしようもなかったのだ。

 二時間前、こたつでうたた寝をしていた母が急にイビキをかき出した。その尋常じゃない空気に僕は直感で救急車と叫んでいた。
 あの、母がイビキをかいて……ちょっと尋常じゃない様子なんで……お願いし、ま、す……意識ですか……寝ていて……声を……お母さん……おかあさん……はい、頬をたたいても反応ありません……分かりました。
 救急搬送され、そのまま手術となった。ご家族に連絡を、と言われたので、覚悟を決めた僕は嫁いだ妹に電話をした。父親は既にいなかった。思いのほか冷静な自分に腹が立つ。
(来ていただいてもどうしようもないもので……はい……落ち着いたら近況を報告しますから……いえ、葬儀は家族だけで済ませようと思っていますので……お気持ちだけで……はい……花も結構ですから。えぇ、ありがとうございます。申し訳ありませんが、数日休ませてもらいます……)
 僕は明日の朝、会社に報告するための言葉を心の中で反芻した。俯瞰した自分が、何やってんだよ、なんて叫んで途方もなくなって、自販機でコーヒーを買おうとしたが、小銭を出すことさえおぼつかないくらい手が震えているのに今頃になって気がついた。動悸が襲い、救急車に乗る前にストーブを消したかとの不安にかられ、ポケットの小銭を半分ほど廊下にまき散らしても尚、手の震えはおさまらなかった。視点が不安定に揺れるので、こぼした小銭を拾うことさえできないとあきらめた僕は、手に余っていた小銭でようやくコーヒーを買うことができた。が、コーヒーを飲む気にはなれず、手の中で缶を転がしたまま幾分かが過ぎ、ふと、声のする方向を見ると妹が立っていた。妹の後ろには妹の旦那もいる。
 一瞬の時間にも感じられたが、実際にはコーヒーを買ってから三十数分が過ぎようとしていた。
「おにいちゃん……」
 既に缶に温もりはなかった。
「まだ、泣くなよ」
 僕は半分、泣きべそをかいていた。



Copyright © 2015 岩西 健治 / 編集: 短編