# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 未来はその先にある | 井澄せな | 853 |
2 | 沈みゆく音 | たなかなつみ | 605 |
3 | 僕はカポ | ふぃろ | 924 |
4 | 研ぎ師のおじいさん | 池田 瑛 | 1000 |
5 | 12月の雪と夢 | 鈴木哀 | 988 |
6 | 新時代の幕開け | 人生二郎 | 954 |
7 | ある日の夕焼け | 春川寧子 | 823 |
8 | おとこらしく | まめひも | 774 |
9 | チユミ | 岩西 健治 | 953 |
10 | 黒い黒板 | 三田真琴 | 458 |
11 | 靴音 | 名栗 | 493 |
12 | 違う人生 | qbc | 1000 |
13 | 列車にて | こるく | 1000 |
14 | 雪と夜のタブロー | 吉川楡井 | 1000 |
15 | ギフト | かんざしトイレ | 1000 |
16 | 朽ちていく匂い | 霧野楢人 | 1000 |
17 | 銀座、雁坐、仁坐 | Gene Yosh (吉田 仁) | 999 |
18 | サイコパス | euReka | 1000 |
19 | タヌキの哀しき皮算用 | 白熊 | 1000 |
20 | 絶え間無く注ぐ愛の名を | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
田舎なんてダイキライ!
来年、高校生になる、姉ーー伊吹碧が、夕飯の支度をしている、母やわたし(伊吹紅)に、言った。
母は困ったように、
「じゃ、高校どうするの?」と、尋ねた。
姉は、迷いのない瞳でこう答える。
「あたし、東京の高校に行って寮生活がしたいんだ!」
母は、少し困ったように、
「じゃ、お父さんに伝えてみるわね」
と、答えた。
わたしたちの父親は、めったに家に帰って来ない。いつも、日本中を飛び回っていて、最近は海外にも視野を広げている。
お姉ちゃんは、そんな父に似て、活発で少し派手な印象がある。
「お姉ちゃん、ホントに東京の高校に行くの?」と、わたしが訊くと、
「行くよ」とはっきり、答えた。
「紅はさ。この先、どうするの?」
「えっ?」
お姉ちゃんが、鋭い目を向ける。
「あんた、漫画描いてること、皆に内緒にしてるでしょ?」
図星だった。
「うん……」
「あんた、そのまま趣味で終わらせるの?」
「えっ?」
わたしは、驚いてお姉ちゃんを見ると、
「わたしさ、東京にある、音楽付属高校に行こうと思ってるんだ。バイオリン続けたいし。それに、将来は、作曲家になりたいんだ」
えっ。
「あ。あんた、今、無理って思ったでしょ!?」
うっ。
「でも、いいんだ。ーー夢だから。あんたもさ、もう少し、積極的にならなきゃ!せっかく、紅なんて、情熱的な名前なのに、勿体ないよ!」
なんて、笑った。とても眩しい笑顔だった。
そう、言って姉は、東京に行くことになった。
「あ、そうだ。紅。ひとつ、いいこと教えてあげる」
「えっ?」
「漫画は描けば描くだけ巧くなるよ」
「えっ?」
「だから、最初から、無理だとか、『漫画家になる』とか、決めずに、描き続けてごらんよ」
ーーきっと、未来はその先にある。
「ーーからさ。」
太陽が、眩しい。
その中に姉は消えていく。
けれど、伊吹のような風が気持ち良く、わたしの髪を揺らす。
未来は、その先にある。
何度も、何度も、呪文みたいに唱える。
出来るかわからない。けど、確かに、
ーー未来は、その先にあるんだ!
わたしは、勢いよく走り出す。
そして、ペンを取った。
音が揺れる。波となって押し寄せ、わたしの肌へとまとわりつく。皮膚と皮膚のあいだ、体毛の生い茂るあいだ、爪の隙間にまで這い込んで、わたしを埋めつくす。気づいたときには、音の洪水だ。
堪えがたい騒音が続いたあと、音はさやさやと引いていく。関節の屈曲、皺がつくりあげる凹凸、ゆるやかな髪の流れに沿うように遊び、煌びやかなハーモニーを形づくりながら、フェードアウト。わたしは取り残される。
歌ってもいいのだと思う。そのために音は遠くからやってきたのだ。けれども、わたしには音を留めおける力がない。ただ寄せては返す音の波にまかれ、ゆらゆらと時を過ごしている。
歌で人をおびき寄せる生き物がいたのだという。それはいったいどんな景色だったのだろう。自分の奏でる音がはっきりとした形をもって他者を動かす。それはどんな喜びだったのだろう。
今のわたしに歌はない。誰とも歌い交わすことなく、ひとり。ざらざらとした砂の上に座り、少しずつ、少しずつ、埋まっていく。
音がやってくる。か細くリズムを刻む小さな小さな音が、やがて絡まり、他の音をおびき寄せ、大波となって押し寄せる。砂は音になぶられるように動いて鮮やかな線を描き、その中心にはわたしがいる。わたしは少しずつ埋まっていく。
せめて歌があればいいのにと思う。けれども、わたしには砂と対峙する声がない。指を、足を、手を、少しずつ砂に埋めながら、わたしは送別の音曲にまかれ続ける。
僕の名前はカポ。
人工知能で動くアンドロイド♪
今日はお買い物♪
何を買いに行くのかは分かっている♪
あぁ、またこのエレベータに乗らなきゃ行けないのかぁ...
はい。2階でお願いします。
どわぁーーーーーーー!何で急上昇するんだよーー!毎回ビルの屋上から飛び出してフリーフォールの用に落下する意味があるのかぁーーーー。
マジで心臓止まりそうなんですが!!
そう、僕はカポ。人工知能で動くアンドロイド。
心臓は電気仕掛け。止まってもまた動き出す。
2階は野菜売り場♪
お買物リスト表示。
うぅ〜ん。なんだこのリストは、ダメだな。僕が修正しちゃおう♪
これと、これと、これと、これと、あっ、あとこれね。
どうせ作るのはジェンキンスの役目なんだし、なんか食えるもん作るだろぉ。
あっ、これも買ってあげよう。うん。金額的には前のお買物リストと同じだ。しかも2品追加してるし、僕って買い物の天才だな。
あれ?コギーこんなとこで何してるの?
・・・・あぁ〜〜〜
充電器まで間に合わなかったのか。押して運んであげよう。
うっ・・・意外と重たい・・・
・・・
・・・
ふぅ〜〜〜。
僕も充電しなくっちゃ帰り持たないな。こりゃ。
うわっ。何するんだよ。痛いなぁ〜。ラモー。
痛いと思うことにしているんだよ。ぶつかったらみんな痛いんだからなぁ〜。
・・・
・・・
・・・
テンション高いなぁ〜。ラモー。だからすぐに充電なくなるんだよ。
じゃねぇ〜。ラモー。
うわっ。今度はフュー・・・・
充電はやっ!!あっという間に来て行ってしまった。フューリー・・・まともに会話したことないや・・・
・・・
どわぁーーーーーーー!何で急上昇するんだよーー!毎回ビルの屋上から飛び出してーーーーー!!
ふぅ。マジで心臓まで飛び出るかと思った。
本当は固い金属に囲まれている心臓は一ミリも動くことはないけど。
おぉ〜〜い。ヘリコプターのジェイムズ〜〜〜。
これをいつものとこに届けてくれないかなぁ〜〜。
ジェイムズの宅配はいつも完璧だ。
僕は尊敬する。そのどこにでも行ける羽を持つ鳥達よ。
僕もいつか飛べるようにぃ〜〜〜〜〜〜。えぇ〜〜〜もう戻るじかぁ〜〜〜ん・・・
僕の足は自走式。人工知能で制御できたりしないのだ。
このビルが僕の全ての世界。
いつか外へ出ていけるかな?
中学生の時だ。夏休みに1人で祖母の家に行った。祖母は祖父が亡くなってからも1人で住んでいた。
最初の数日は物珍しかったが、すぐにやることがなくなり、縁側で読書するようになった。
「商店街で買い物してくるからお留守番しておいてね。研ぎ屋さんが来たら、お台所に出しておいた包丁を研いでもらっておいて」と祖母が声を掛けた。そして、縁側に私の分の西瓜を置いていってくれた。
しばらくして、玄関の呼び鈴が鳴ったと思ったら、庭におじいさんが入ってきた。右肩に長方形の木箱を乗せて、左手でタライを抱えていた。
「こんにちは。良子さんはいるかい?」とその人は聞いてきた。
「買い物行った。研ぎ屋さん?」と私が聞くと、そうだよ、と答えた。私は、祖母に言われたとおりに包丁を渡した。包丁は6本もあった。
その人は、縁側に木箱から灰色、黒、茶色の研ぎ石を次々と出し始めた。水を頼まれたので、薬缶を抱えて台所と縁側を何回か往復した。そして縁側でまた読書の続きをした。
「これは嬢ちゃんの仕業かな?」と言って、縁側の石段を指差した。そこには、私が吐き出した西瓜の種が散らばっていた。バツが悪くなった私は、黙って頷き、そのまま本に戻った。
すりガラスを爪で引っ掻いたときのような音が響く。読書に集中できなかった。
「お嬢さんは、良子さんのお孫さんかな?」と聞かれたので、そうだ、と答えた。名前も聞かれたので、名乗った。
「大きくなったら、何になりたいんだい?」と聞かれたので、まだ決めてない、と答えた。
「そうかい」とおじいさんは言って「大人ってのは、包丁のような人と、研ぎ石のような人がいるんだ。お嬢ちゃんは、どっちになりたい?」と聞いてきた。意味が分からない質問だった。その時、私はなんと答えたか覚えていない。ただ、へぇ、そうなんだと思った。
大学に行き、彼氏が出来た。そして大ゲンカをして別れた。私は彼にひどいことを言った。しばらく、私は包丁のような人だったんだと、後悔をした。
仕事に就いた。営業の人のサポートをする仕事だ。自分は、研ぎ石のような人だったのだと思えた。
私自身も変わっていく。包丁のような人、研ぎ石のような人という私の解釈も、意味付けも変わっていく。
結婚をした。夫との生活を始めて、台所で毎日包丁を使うようになった。包丁はステンレスが普及し、研ぎ代を払うよりも、新しいものを買った方が安い時代になった。寂しく思う。
ここの時計って、こんな音してんのか。
普段の静かな時間、たとえばテスト中は諦めたら寝てるし、授業中はほぼいつも寝てるし。そもそも学校には部活と学食食いにきてるだけだし。
そこにこれから恋愛が加わるのかと、わくわくした5分ほど前の俺。いや、雪で部活が中止になり、帰ろうと下駄箱に向ったら、そこから手紙が落ちてくるという、べたべたな展開に浮足立った一時間半程前の俺。どっちにしろ、まさかこんなことになろうとは思ってなかった。
暖房が、教室に飾られている習字のぺらぺらな紙をカサカサ揺らし、皆の「夢」の字が波打っている。
雪野は、びろびろに伸びたセーターの袖をいじくりながら、丸い目を真っ直ぐ俺に向けて待っていた。たまに足を動かすとき、むき出しの膝が俺のズボンをかすめる。机一つ分の距離で対峙するこのシチュエーションは、これから始まる男女にとってドキドキ的なものであるべきなのに、俺にあるのは焦りばかりだ。
そこそこ美人で、テニス部で、どっちかいうと華奢な方で、スカート丈が適度に短い女の子に告白されて首を横に振る17歳男子なんて、いんのかよ。いねえよ。
そう言えたらどんなに楽かとこの5分で何十回と考えた。俺にはまだ雪野がそれを言ってどんな反応をする女の子なのかすらわかっていない。だから、彼女のどこが好きかなんて質問に、外見以外で答えられるわけがない。この結論にも何十回と至った。
だけど雪野は待っていた。たまに下唇をかんだり、瞬きをしたり、セーターの袖をいじったりしながら。真っ直ぐに待っていた。この子めちゃくちゃ面倒な子なのか。と遅すぎるタイミングで気付く。
ぼん、という暖房の切れた音と、五時のチャイムが同時に鳴った。
最後にカサリと波打った、紙からはみ出しそうな「夢」がやけに目に付いた。
雪野、雪野は、
「字が……なんか……豪快なところ… 」
ゆっくり雪野に視線を戻す。瞬きを一度した雪野は、目を柔らかく細めて笑って、なんだそりゃ、と肩をすくめた。そして、いやになった?と、やっぱり真っ直ぐ俺を見て、ふたつめの質問をなげかけてきた。
いやじゃない、と今度は即答したのは、甘いクリスマスに期待したの半分。もう半分は、はみ出しそうな「夢」が、なんだか本当に、かわいく思えてきたからだと。彼女がどんな子か分かって、ひとつめの質問にも即答できるようになったら、話そうかと思う。
これは昔の通販番組の一コマ。
TV画面に映るのは金髪の男女と一体の人形。
「ハァイ。今日はホットな商品をみんなに紹介するわ」
「いったい何を紹介してくれるんだ?」
「それはね。この高性能お手伝いロボット、ファット君よ!」
「ファット君? ずいぶんな名前だな。ほんとにホットな商品名のなのか?」
「当たり前でしょ。これを作ったのはあのサイバティック社よ」
「何だって!? あのサイバティック社か。それなら凄いに違いない」
「そうよ! 玩具ロボット年間販売台数世界一の、あのサイバティック社ですもの」
「ところでサイバティック社が素晴らしいのは十分に分かったんだが、こいつは一体何ができるんだ?」
「よくぞ聞いてくれました。この子はね、何とチョコレートを食べることができるのよ!」
「ああ、そうなんだ」
「あら? 反応が薄いわね。もちろんそれだけじゃないわ」
「やっぱりそうか! 天下のサイバティック社がそんなロボットを作るはずないよな」
「そうよ。あのサイバティック社製のロボットがそんなはずないわ。まぁ見てなさい」
「ワァオ! こいつチョコレートを食っちまったぜ」
「それはさっき説明したはずよ。まだ驚くのは早いわ」
「おいおい信じられないぜ。こいつ動き出したぞ、まるで人間みたいだ」
「それだけじゃないわよ。ファット君、そこにある本を持ってきてちょうだい」
「どうなってるんだ! 本当に本を持ってきたぞ。こいつ人間の言うことがわかるのか?」
「そうよ。このファット君は高性能AIを搭載しているから人間の言うことは何でも理解できるわ」
「おいおい冗談はよせよ。僕はいつから近未来にワープししたんだよ」
「さらに、ファット君の動力源はチョコレート。サイバティック社の新技術によって食べ物ならなんでも直接原料として発電することができるようになったの」
「てことは、コンセントがいらないし、充電の必要もないんだね」
「そうなの。このファットッ君はチョコレートをあげれば、その分だけ働いてくれるの」
「それはすごいな。一家に一台は欲しいね。さっそく僕も買おうかな」
「慌てないの。まだ値段を言ってないじゃない」
「おっとそうだった。でもこんなに高性能なんだ、高いんだろ?」
「そんなことないわ。今なら――」
――それから数十年後、機械が人間と同様の消費する時代が到来した
学校からの帰り道、どこかよさげな住宅の並ぶいつもの道を歩いて、家へ帰ろうとしていた。普段は音楽を聞きながらただ歩く道だけれど、その日は、偶然にも20mほど手前を歩いていた制服姿の幼馴染を見ていた、というよりも観察していた。
彼は近所に住んでいて、同じ幼稚園に通っていた。でもそれだけだった。小学校も中学も、もちろん高校も違う。姿こそたまに見かけるけれど、もう10年は話をしていなかった。いわゆる『初恋の人』だったような、そんな気もするけれど、そんなことはどうでもよい。どうでもよいのだ。
車の通りがほぼない道だからか、彼は歩きながら本を読んでいた。フラフラ歩いていた。電柱にもぶつかっていた。痛そうに頭を撫でると、またすぐに歩き、本から目を離さなかった。そんな彼の様子を、私と、訝しげな顔をしたお婆さんと、美味しいバターが溶けたような夕焼けが眺めていた。
本を読みゆっくり歩く彼とただその斜め後ろをスタスタ歩く私の距離は、次第にすーっと縮まっていって、とうとう横に並んだ。
一体何をそんなに夢中で読んでいるのか……彼の持つ本の題名が気になって、私は、話しかけるには少し遠い距離から、左にいる彼の、本を持つその手元を覗こうと、ほんの少し頭を落として、彼に目をやろうとした──それがたぶんいけなかった。その瞬間にこちらを見られてしまったのだ。
私は目が合う寸前にさっと右を向いて逃げた。彼に嫌な顔をされた気がしたのだった。実際どうなのかはわからなかったけれど、どうにも怖くて、落ち着かない心地で、正面に向き直ることすらできなかった。右を向いたままの私の目の前には赤い椿が花を開いていた。なんとも深い赤だった。
私は右を向いたまま歩き続けて、そして彼は本を読みながら、分かれ道で左に歩いて行ってしまった。北風がひゅうと吹いた。いつもの猫が私の前をてくてく歩いていた。私もスタスタ歩いて家へ向かった。
結局、私は彼が何を読んでいるのかわからなかった。
僕には、君より他に好きな女はいない。
だから非常に言いにくいんだが、君のナプキンが減っていた件について弁明させてほしい。いや、厳密には後で僕が買い足しておいたので、減ったわけではなく借りたといってもいいんだけれど――ごめん、いや、正直なところメーカーと包装パックの色と長さがあっていればばれないと思ったしばれなきゃいいと思っていた。羽つきとか羽なしの区別もあるとは知らなかったんだよ。
ああ、なんだかこの話は余計に君の機嫌を損ねている気がする。
いや違う、煙に巻く気はないんだ。そんなことで君に誤解されるくらいなら真実を打ち明けてしまおう――。
その――使ったのは僕だ。
つまり――僕は痔だ。
引くな。頼む。ちょっと、ほんとに。笑うのもなし。真面目に。お願い。
とにかく、君の部屋のトイレで大をして振り返って便器の中が真っ赤だったときの僕の衝撃は人生最大だった。パニックだった。しかし下半身を血まみれにする危険性を残したままトイレからは出られないだろう。それで、とりあえずトイレの中にあったものでもっとも役立ちそうなものを借りたんだ。
だからあの晩乗り気じゃなかったのは他に気になる女性ができたからとかそういうことじゃなく、パンツを脱げなかったからなんだ。
いや、言えないだろ! さっき痔になって君のナプキンちょっと借りたよとか言えないだろ!
とにかく、そういうわけで、君に言えないまま借り物をして、あとは君が知ってる通りだ。今は一応肛門科に通ってるので、一応落ち着いているよ。
汚い話でごめん。分かってくれて嬉しいよ。
……。
えっ、コンドームが減ってる理由? なんで知ってるんだ? 数えてたのか。あ、そう……。
わかった。
この際だから全部言うよ。浮気してた。すまない。そのせいで痔になったんだ。
でも、君より他に好きな女はいない。本当だ。
独裁者の行為よりも醜いものだとまだ知らなかった健二にとっては、ゲームなどの感覚と似て、垢で汚れたスカートの下からのびる薄茶色のチユミの足を傍観者としてただ見ているだけであった。いじめや差別といった概念は当時の健二にはなかった。単純なのである。みんながするから健二もそうしたのである。そこに悪などなかった。みんながチユミを無視するから健二もそうするのであった。
夏休みの前日、雰囲気は既に授業どころではなかった。いよいよこれは雨だなと思わせる熱気のこもったうす暗い風が、午後の教室の開け放った窓から入ってきて、健二の前のチユミの髪を薄くなでていく。たれこめた雲が教室のすぐ近くまで迫っていた。彼方に見える雲の隙間からは日の光が輝いて降り注ぎ、その光がよりいっそう雲の陰を濃いものとしている。教室から見えるその景色は、あぁ、これが地球最後の日か、と思わせる荘厳さで健二の前に迫る。健二はその景色を純粋にきれいだと思い、将来、宇宙船の設計士になることをノートの端に書きとめた。一瞬間、アスファルトが濡れたかと思ったら、次の瞬間には既にアスファルトに乾いた部分がないほどの大粒の雨。生温い風とアスファルトが水分を吸って発する匂いとが、教室のおかずとほこり臭い匂いを洗い流して、それが少し健二の眠気を覚ましもした。
傍観者だったあのころの健二にいったい何ができたというのだろうか。給食の牛乳がチユミのヒゲに白く残るものだから。すすけた色の……、チユミの持っているすべてのものが健二にはすすけた色に見えた。いや、色といえるものではない。その色は無彩色に近いのである。ただ、そういったチユミに少なからず優しい言葉などかけられようものなら、穏やかだった健二でも少しは苛立って、何で声なんてかけるんや、とその報われない優しさを汲み取ってやることさえもできない。だからといって暴言などをチユミに対して吐散らすタチでもない健二は、さんざん困った表情で無言のまま突っ立っているのが精一杯なのである。
久しぶりに聞いた彼女の名前はテレビの中であった。一級建築士となった健二と年齢は一致している。いや、ただ単に同姓同名なのかも知れないし、旧姓だとも考えにくい。そうだ、虐待死の子の親は健二の知っているチユミだとは限らないではないか。
黒板が黒く塗られていた。
八時十六分。朝のホームルームの時間の十四分前。いつも通りの時間に、始まるとも思えないけど。黒板の表面は艶々と光っていて、吹きつけられた塗料にヒビ割れはない。たぶん水性スプレーが使われたんだと思う。兄貴がプラモを塗装する時に使っているやつと、よく似た匂いがした。先生が雑巾を持ってくる。やっぱり水性だったようで、何度か擦ると、雑巾の片面が真っ黒になる。今週の掃除の班が呼ばれて、黒板を拭くように先生に言われる。えー、と不満の声が上がる。
「こんな黒板じゃ、落ち着いて勉強できないだろ?」と先生が言う。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。梨花のことを考えた。「歯磨き粉って、粉じゃないし」,「筆箱って、筆なんて入れないのに、なんで」と梨花は言った。梨花はそういうのが許せなかった。今、梨花は教室にいない。絶賛不登校中だ。これは誰の仕業だろうか、梨花か、その意志を継ぐ者か、はたまた全く無関係のヤツか。今日ぐらいは黒い黒板でもいいのにな。黒い塗料が落ちて、緑が現れていくにつれ、そう思う。
夕暮れに降り出した雨に、父は「行ってくるか。」と玄関の傘を持って外に出た。
駅前にと母を迎えに行く、その背中は優しさに満ちていた。
定年を迎えた父は料理を趣味にとして、食材に少しばかりの散財をしている。
今日も訳もなく高い野菜や肉を買ってきたみたいで、また、母にと呆れられることだろう。
私は部屋の隅のテレビの液晶を見ながら、少しばかり欠伸をした。
涙が、目元から流れ落ちた。
もう何年、外にと出ていないだろう。
私の時計は止まったままで、それでいいとさえ思っている。
同級生たちは結婚をして子育て、または仕事を持っている。
私には何一つとして無く、石ころみたいにうずくまっているだけだ。
時折、このままではいけないと、そんな波も押し寄せてくる。
世の中は、不出来な人間には余りにも厳しい。
普通をできない人は、何をすればいいのか。
流れ去っていく時間を追いながら、置き去られるしかないのだろう。
無駄なのだ。
父親と母親の愛情に包まれている今が、壊れ去る前に去ってしまいたい。
この世界は、私には広すぎるし明るい。
そんなことを思っていると、玄関先に父と母の靴を脱ぐ音がした。
私は、まだ生きていたい。
理由は無けれども。
田園風景の中を、二両編成の鈍行列車は走り続ける。爽やかな風が青田を吹き渡り、稲穂が心地良さそうにゆらゆらと揺れていた。
「ねえ、本当に雨が降らなければいいんだけど」
と、シーナは今日で三回目ほどになる同じ台詞を呟いた。既に彼女は缶ビールを二本空けて上機嫌である。飲み過ぎだ、と私が軽く窘めると、彼女は笑いながら言った。
「だって、本当に楽しくて」
まだ、彼女が学生だった頃、彼女はこの電車に乗って毎日のように通学をしていたという。人がまばらな車内はどこか懐かしさすら覚え、辺りを見渡せばそこに学生の頃の彼女の姿を見つけることが出来るようなそんな気さえした。
窓から見えるあれこれをシーナは指差しながら、私に様々な話を聞かせてくれる。それはどれも些細なものではあるのだけれど、あまりに彼女が楽しそうに話すものだから、聞いているうちにこちらまでもが自然と笑顔になってしまう。頬杖を突きながら眺める車窓の風景は、どこにでもある退屈な田舎の風景に過ぎない。しかしながら、彼女にとってはこの風景こそがこの上ない大切な宝物であることは間違いないのだった。
故郷とは何だろうか。ふと、私は考える。転勤族であった父のおかげで、思えば子供の頃から私はどこかに長い間根を張って暮らすということがなかった。一つの場所を捨てて、また次のどこかへ移り住んでいく生活。それはまさに今、車窓を流れていく風景のように、日々物凄い速さであらゆるものがどこかへと過ぎ去っていってしまう。それをどうにかして手の中に残しておきたくて、それでもまたすぐに違う風景が私の目の前に現れるから、私の手の中はいっぱいになって、泣く泣く何かを捨てなければいけない。そんな繰り返しだ。不器用だったのかもしれない、とも思う。だからこそ、まったくいい歳をして恥ずかしい話ではあるのだけれど、彼女の姿を見ていると私は心のどこかで羨ましさと嫉妬を感じている自分を隠すことが出来ないのだった。
「ねえ」
シーナが言った。彼女は三本目の缶ビールのプルタブに指をかけている。
「私、あなたを案内したいところがたくさんあるんだよ」
窓から差し込む陽光の下で、彼女の満面の笑みがパッと咲く。私は何だか呆れてしまうような気持ちの中で、いよいよ私までもが楽しみになっている自分に気が付くのだった。
気だるい車掌のアナウンスが車内に響く。もうすぐ、列車は彼女が生まれた街へと到着する。
肌寒い夜が続くと、人肌が恋しくなる。
白くにごった溜め息が目先に霞んで、煙草をつまんだ指先も見えない鎖で縛りつけられた。アスファルトの影もない足許にはまだ踏み荒らされていない雪の道が続いている。さながら無地のキャンバスに靴底の模様を刻みつけるのも、今夜ばかりの特権だ。国道から離れた夜更けの散歩道に静寂は歪みもなく、ただぼんやり燈る街灯の明るさだけが行く先を照らしている。
あれ、今なにか通ったね。
傍らの彼女に云われ足許から目を反らすと、丁字路の真ん中に照明の輪っかだけが浮き上がっていて、少しばかしの粉雪がそのなかにちらついていた。
気のせいかな。
「だと思うよ」僕はそう独りごちるのだ。
永く佇んでいられるほど寒さに頑丈ではない僕は、ふたたび雪道に目を落とし歩き出した。彼女と初めて手を握ったとき、その場所もこの道だった。二年前だろうか。あの日も今夜のように雪が積もっていて、かじかんだ互いの指は、温もった手のひらには却って邪魔な気もしたけれど、一度触れあった指はなかなか離れようとしなかった。
彼女は僕のアパートへ至る道筋をすぐに覚えた。行きつ戻りつの繰り返しはじきに回数が減り、彼女がひとりでこの道を通ってくることも少なくなった。彼女の傍らには僕がいて、僕の傍らにはいつも彼女がいる。それが当たり前になった冬は、今年で二度目を迎えるはずだった。
丁字路が間近に迫ると急に立ち竦んで、ここまでだと悟る。あと数十メートルでアパートに着くというのに、彼女はそれ以上進めなくなる。丸い光の輪のなかで乱れ降る粉雪の影が、雪道に黒く映し出されるのを眺めつつ、次第に僕は傍らの面影が霞んでいくのを感じとるのだ。
彼女の足許、不時着する綿雪のシルエットが色濃く鮮やかに映し出されている。僕の影が街灯を遮れば、幾片の雪は闇に吸い込まれてしまうというのに。
気のせいだったみたい。
彼女は云う。気のせいじゃないよと云いたいのだけど、凍えた唇では笑みを作るのが精一杯で、僕は電信柱の足許の、色めき立つ硝子の花瓶を見下ろしながら彼女のことを思うのだ。
まるで雪道に刻んだ足跡のように、誰も今では事故のことなど思い返しはしないのだけれど僕の心には残っている。
けれども時の淡雪はそれすら隠してしまうのだろうか。
声は消え、深々と降る雪の速度が感じやすくなる。
彼女が立っていた僕の傍らには、足跡ひとつ残ってはいない。
真夜中に寒さで目が覚めた。
「くそ、たまらないな」
低くつぶやいて布団を整え、毛布を身体に巻き付けた。節約のためにエアコンはなるべく使わないようにしているのだが、そろそろ限界かもしれない。なんとなく違和感があって部屋の中を見まわしてみた。
テレビは消えているが、外が普段より明るい。ベランダのガラス戸の向こうから強い光を感じる。始めは月明かりのようだと思ったが、どんどん強くなり、映画館から外に出たときのように一瞬目がくらんだ。
カチン、ズズズズ、とベランダの戸が開く音がした。光を背景にして部屋に入ってくる影が見えた。五歳児くらいの大きさで、猫背で手が長い。不釣り合いに大きい白いものを背負っている。毛深い身体はチンパンジーにしか見えなかったが直感的に、宇宙人だ、と分かった。UFOから背中のパラシュートで降下してきたのに違いない。
一歩一歩、宇宙人がベッドの方に近づいてきた。不思議と不安はなかった。だが身体は金縛りにあったかのように動かなかった。宇宙人は目の前まで来て顔をのぞきこむようにした。こういうのは昔、テレビで見たことがある。運が良いのか悪いのか。特別なことが自分にも起ころうとしているのか。ぼんやりとそんな考えが頭の中をめぐっていた。
「む、む」
チンパンジーの宇宙人は不器用ながら言葉を発し始めた。
「無力感にとらわれず、できることをやりな、さい」
「うるせえ」
なぜそんなに苛立ったのか分からない。瞬間的に叫んでいた。我に返ったときにはもう朝で、頭から布団を被っていた。管理人のばあさんに何か言われるかなとちょっと気にかかった。騒音を異常に嫌うばあさんだった。
「それさあ、サンタじゃないの?」
彼女はチョコレートパフェを食べながら言った。外は雪がぱらついているけれど喫茶店の中は暖かすぎるくらいだ。
「えっサンタ」
「そう、背中に大きな袋を背負って真夜中に現れたんでしょ。だって昨日はクリスマスイブだし」
なぜだか心臓がドクンとした。
「でも、でもそいつ、何にもくれなかったぞ」
「そりゃもうプレゼント貰える歳でもないでしょ。サンタが姿を見せてくれただけでも感謝しなさいよ」
心の中にさっと広がったもやもやが少しずつ静まって、以前よりも視界がクリアになった。
「そうか。今日はクリスマスか」
笑いが、幼い頃の様々な思いとともにこみ上げてきた。
「行こう。プレゼント買ってやるよ。三千円までだけどな」
マチのガキは枯葉をガサゴソ探っている。こちらに向けている黒いジャンパーの背中は日光を照り返し、腕を動かすたびに揺れて、何となく生意気だ。引っ越してきてからろくに友達も作らないくせに、彼は会うたびに仮面ライダーなんちゃらへと変身する。今日もそのうち寸劇が始まるのだろう。悪者はぼく。暴力的で我が強いのは、呆れるほどマチに似ている。
軽く厚く積もった枯葉はきっと彼を傷つけたりしないだろうが、ぼくには彼を置き去りにすることができない。平坦な土地一帯、鋭角に幾筋にも幹を分ける背の高い裸木が、どこまでも無造作に乱立している。それらと同じように、それら自身だった生命の燃え滓の絨毯に、ぼくも彼も埋もれた。
「さっきから何を探してるんだよ」
ガキを見下ろしながら小さく足元の枯葉を蹴る。ガキの手元と同じ音がした。
「兵隊だよ」
「兵隊、こんなところにいるのか。迷彩服でも着て隠れてるの?」
「ううん、茶色。ちっちゃいから葉っぱに隠れられるんだよ」
ガキはしゃがみながら少しずつ移動している。足を動かすたびに背中は小さく上下する。果敢で機敏で、しかも満足するまでは意地でも動こうとしない様はまるで戦車だ。
「見つけて、集めてるんだな」
「ううん、違うよ。だってここは兵隊の国だもん」
「拾わないで、見るだけなのか」
「そうだよ。みんなで暮らしてるの。ぼくもう学校と教会も見つけたよ」
ガキに合わせて移動するぼくを制止し、そこ、と彼は指を差す。彼と同じようにしゃがみ、日光に濡れそぼった落ち葉を動かしていくと、楕円形に膨れたドングリがいくつも現れた。一帯の林は広大な夢の領土だった。
黙々とマチのガキは空想を組み立てていく。そうすれば、母親の姿をも夢見ることができるらしいのだ。ぼくの見たことない、エプロン姿をしたマチ。林の向こうから「帰るよ!」とその声がするのを、この背中は待っている。
こうなったら、彼を連れ戻すにはぼくが何度でも悪者を演じるしかない。昔仲が良かったからという理由でぼくを頼りにしたマチのおばさんは、そのことをけっこう気にかけているらしい。
上着のウール生地の触り心地を確かめながら両腕を抱え、立ち上がったとたんに眩暈がした。狭窄感に平衡感覚を奪われ、柔らかな落ち葉の鋸歯が頬を叩く。
芳しく朽ちていく匂いがする。
「いい匂いだな」
明度の回復を待つ視界のなかで、振り返ったマチのガキは怪訝そうな顔をしていた。
2011年3月11日、事務所の前の歩道は普段、人通りが少く、たまに夜のウォーターフロントをそぞろ歩きするカップルというよりは年齢差20-30歳の不倫カップルが歩く程度なのでが、帰宅を徒歩で何とか週末を家で過ごそうと家路を急ぐ人々が大量に都心を背に南下していた。吉田はとても歩ける距離ではないため、事務所に残り、同じ帰宅困難者と一夜を明かすのであった。近くのコンビニはまるで昼食の買い出しのように長蛇の行列で、食料が瞬く間に棚から掻っ攫われた。しかし、缶ビール、缶酎ハイなどは残っていたため、これぞとばかり大量購入、ファストフードチェーン店は早々と閉店、煌々と照明を照らす中華料理屋は斯き入れ時と、次から次の客にフル回転、持ち帰りを3品ほど社員に食わすため、持ち帰った。夜10時過ぎ地下鉄が動きだしたとの情報で、帰ったものは1時間ほどして、駅が大混雑であきらめて戻ってきた。その路線に家がある妊婦の社員は事務所に残ることを決断、その子は5月に生まれ健康に問題なく今は3歳半となっている。
吉田は土曜日も泊り、日曜日の夜電車で帰宅、しかし、明日月曜日は電車は運休と原発事故の電力不足と早々と東京電力に協力して運休を決めた。そのため朝4時半、発空港連絡バスで羽田空港へモノレールで折り返すという苦渋の通勤手段を取るしかなかった。
世界各国からの緊急物資の輸送をさばき、被災地への搬送を手配、とても現地の受け入れ態勢が確保できないため、受け取り手のない車両手配を実行するしかなく、軍隊のロジステイックとはこんな後方支援体制を取っているのだなあと感じたのでした。
しかし、18日からはスイスジュネーブへ会議のために出張しなければならないとこれまた日本の都合で不参加をするわけにもいかず、国際会議とはそういうものだと、上司に諭されることもあった。
予定通りに出張、成田空港へ羽田空港からたどり着くが、スイス航空は緊急事態に、日本線のクルーを日本-香港の往復体制とし、スイスからのクルーは香港の折り返し、直行便がクルー交代の香港乗り換え便になり、乗客は乗ったまま、クルーが代わるという、放射能対応の危険手当を出す緊急体制で1か月ほど乗り切るとの事。18時間かかってジュネーブ空港に到着。原発事故の報道はCNNなどで現地のホテルで受ける、日本のインターネットニュースは日本の孤立を伝え、吉田は日本に帰れるか不安の中にいた。
平面リスの森に普通のリスはいない。
「夏の木はとっくに死んだよ」と平面リスは言うと、黒焦げの木の実を私の頭に落とした。「なにしろあんたのことを100年も待っている間に、この世を終わらせるような戦争が2度もあったからね。夏の木が残したものはそれだけさ」
私は地面に落ちた黒い木の実を拾いながら、君とは何も約束などしていないと、木の枝に貼りついた平面リスに言った。夏の木の下で約束をした相手は、きっともうこの世にはいないだろう。
「ここは土も水も汚れているから、あまり長くいてはいけないよ」と平面リスは言いながら、剥がれかけたポスターのように風に揺れていた。「あんたは約束を果たすためにここへ来た。そしておいらはあんたと約束などしていない」
1度目は悪魔が起こした戦争で、2度目は神が起こした戦争だと私は聞いている。そして1度目の戦争で言葉が死に、2度目の戦争で季節が死んだと。
「あんたはまるで詩人だな」と平面リスは吐き棄てると、ただの紙切れになって風に飛ばされた。「言葉や季節が死んだというのは本当だが、正確にいうと、誰もこの世界の意味を考えなくなったということさ。言葉はそこら中に転がっているが、それらはアウシュビッツの無数の死体と同じなんだよ」
棄て台詞にしては長すぎると思ったが、別れ際などに言葉があふれ出ることはよくある。たとえ明日また会えるとしても。
「つまり言葉に意味がないなら、人間にも意味はない。だから平気で人を殺せる」
私は適当な大きさの石をあつめ、夏の木があった場所に碑のようなものをつくった。風も無いのに、森の木陰が地面で揺れていた。
「ねえ旦那、それなあに」という声が聞こえたので振り返ると、子狐がこちらを見ていた。
私はしばらく碑を眺めたあと、首をかしげる子狐のほうを向いて、自分の来た場所を覚えておくためのものさと答えた。
「でも、どこかへ行くたびに石を置いてたら、世界中が石だらけになるよ」と子狐は言った。
そうだな、と私は言うと、手に持っていた石を地面に放った。
「でもその石を見たら、ぼく、きっと旦那のことを思い出すよ」と子狐は言うと金色のシッポをこちらに向けた。「じゃあね、暗い顔の旦那」
私は待ってくれと子狐を呼び止めた。君は一人ぼっちで、ほんとは帰る場所なんてないんじゃないかと。
「誰だって、さよならを言うときは一人ぼっちさ。でも旦那は、やっと100年後に会いにきてくれた」
人間界には「捕らぬ狸の皮算用」などという、けしからぬ言葉があると云う。
何の因果かヒドイもので、家族でどんぐり拾いに出かけたのが運の尽き。道中山腹でダダダンと音が鳴り響いてびつくり仰天。腰を抜かしてばたつく足に任せるままに、一人離れた茂みへ跳び込んだ。ガタガタ震えながら地面にへたれた家族を眺めていると林の奥から影が現れた。見れば立って鉄の筒を持つ熊のヤツ。どうもあの筒で離れた処から家族をなぶったと見える。
近頃キテレツなカラクリが人間界で流布していると聞く。熊は体がでかいばかりで知恵の無いものと思っていたが、いつの間にあんなカラクリ筒を手に入れたのか。前足で器用に家族の亡骸を摘むと奥の茂みへと姿を消した。
昨日までの日々が夢のよう。一転、天涯孤独の身となりて、憎き家族の仇敵、熊のヤツを絶滅せんと心に決めた。しかし小生には手段も知恵も何も無い。無き物求めて人間界の万屋へと降り立った。
「おや、これは珍しいお客さんだ、どうなさいました」
「実は熊に、家族の敵討ちをしたいのです」
「ほお、敵討ち。ほな、このてつはうなんぞは如何でしょうか」
「おお、それはまさに熊が持っていた鉄筒」
「どうぞどうぞ、これを持ってお行きなさい」
「しかし、小生には銭がありませぬ」
「構いませぬ構いませぬ、見事熊を撃って来られたら、手前が熊を買いとって差し上げます。そうすれば借金は返せますぞ」
「それは有難い。ではそうさせていただきましょう」
山へ戻り、鉄筒を背負いて匂いを手掛かりに探していると、遠くで寝ている熊を見つけた。油断しているのかヤツの鉄筒は見えぬ。こちらは構えをとって、引き金を引いて熊を撃った。一発、二発と撃ち込むと熊は舌を垂らして地面に伸びた。小生は熊を引きずって万屋へと持ち帰った。
「では、手前は皮を剥いでこれを外套に致します。ささ、狸さん、まだまだ熊が足りませぬぞ。借金には利息という物が御座いますからな」
それからは鉄筒を背負いて山へ出かけて熊を撃ち、万屋へ持って帰ってまた出かける日々の連続。憎き熊を撃つはいいが、借金は利息で増えるばかり。
「ささ、お客さん、まだまだ熊が足りませぬぞ」
狸のマタギとはこれ如何に。きょうも熊のヤツを撃つ為に、鉄筒背負いて出かけます。あの鉄筒を持つ熊とは出会えぬまま、本当の敵はどこにおるのか。日に日に万屋は熊と狸の皮が増えていく。
ああ、哀しき因果、ここに極まれり。
「たった1000文字も書けなくなった」
そう言い残してkは自殺をした。
だから男は葬式には行こうと思っていた。実際大学へ休講手続きを取った後、街へ葬式用のスーツを買いに行った。
「どうぞ」
店員がすすめたスーツはひどく趣味が悪く、こんなものが売れるのか、と男は尋ねた。
女店員は何も答えず奥からシャツ、ネクタイ、革靴、その他小物を次々と取り出し、男の服を脱がせて鏡の前へ立たせ、それらを着るように促した。
「お似合いですよ」
男はズボンを引き上げベルトを締め、鏡を見つめた後、もう少しだけ苦しめにネクタイを調節した。
「お似合い、です」
女店員は丘の上のマンションに住んでいた。ワインを二人で飲み、やたら塩気の強いパンを共に食べた。
二人は三本目のボトルを持って共にベッドに入る。
「俺はkが好きだったよ」
女は男を見下ろしている。
「自殺をしたから俺はkがもっと好きになった」
「泣いてるの?」
「いや」
「嘘泣きなの?」
葬式へは行くつもりだった。だが男は結局一晩眠れず、頭には安ワインがぐるぐると回っていたし喉の奥は塩辛かった。
昼過ぎまで裸のままベッドにいて、それからようやくのろのろとスーツを着だしたのはもうすぐ夕方、という時刻だった。
間に合わないのは解っていたが葬式の会場へ向かった。女が車を出してくれたから助手席で男は眠った。ラジオからは様々な音楽、ニュース。
会場に着くと大勢の人だかりが出来ていた。
赤色灯、サイレン。
ラジオで聞いてはいたが本当だった。会場は武装勢力に占拠されており、出席者達は皆殺しにされていた。
三日後に蘇る、全て救われる、八十年前の戦争の真実、歴史、歪曲、女達、自由。
そのような事を武装勢力の女達は拡声器で叫んでいた。
それらは、多分、恐らく、全て真実なのだろう。俺は、救われる。
そして同時に、俺には関係が、無い。
男はそう思い、イヤフォンを耳に入れ音楽を聴く。音楽ライブラリの大半はkとの会話を録音しておいたものだった。
(「砂漠では生体には塩の管理が何よりも重要です」)
(「砂漠なんて地球から無くなっちまったのにこんな講義は意味があるのかい?」)
シャッフル再生されたのはkの前で講義の練習をした時のものだった。
何度修正しても重要な所にはノイズが入っていて聴き取れなかった。またやり直さなければならない。ぐるぐるは消えていた。喉の奥にはひどい塩気がひりついていた。