# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 島の青年の結婚 | 池田 瑛 | 998 |
2 | 同窓会 | ちゅん | 995 |
3 | 羽ばたいた鳥は落ちる | 無知園児 | 864 |
4 | 才能 | 海見みみみ | 849 |
5 | 不幸の在り方 | ララバイ・グッドバイ | 729 |
6 | 眠れる森の海 | まめひも | 909 |
7 | 魚符の吏 | 吉川楡井 | 1000 |
8 | 紋黄蝶 | 春川寧子 | 790 |
9 | 大嫌いで大好きな言葉 | 澪兎 | 401 |
10 | いただけない彼氏 | qbc | 1000 |
11 | まりこ | 岩西 健治 | 971 |
12 | 銀座、仁坐、任坐 | Gene Yosh (吉田 仁) | 996 |
13 | 時の過ぎる街 | たなかなつみ | 611 |
14 | トンネル | かんざしトイレ | 1000 |
15 | しのびめし | 伊吹ようめい | 1000 |
16 | ほんうたい | 常葉 コウ | 999 |
17 | 黒い雨 | euReka | 1000 |
18 | ヒップ・ホップ・ステップ・ジャンプ | なゆら | 433 |
19 | 月桂冠 | 白熊 | 1000 |
僕は漁師で、父も漁師だ。父の経験と技量には遠く及ばないが、一人前と認められるようになった。そして、今日という日が来た。実家から、新婦、つまり僕の妻となる人の家へ貰いに行き、妻を実家へと連れてくる日だ。一言で言えば、結婚式の日。
実家から出る時、門からヒンプンを見て右側の通路を僕は通った。それを父と母が庭先から見送ってくれた。
ヒンプンの語源は「屏風」で、外観も屏風に似ている。門から入ると、ヒンブンにぶつかり、左右の道に分かれて母屋へと続く。島のどの家の門と母屋の間に、ヒンプンはある。
辞書では、道から母屋を直接見えないように隠す機能があるなんて説明されているようだけど、僕の島ではヒンプンは日常と非日常を目に見える形で分ける機能を持っている。日常では左側の通路を通って出入りし、右を通ることは絶対にない。
子供は往々にして、ダメと言われたらやってみたくなるものだ。何を隠そう僕も子供のときに悪戯で右側を通ったことがある。その悪戯は母に見つかり、母は漁から帰った父に告げ、父から重い拳骨を喰らった。しかもその日、母は僕に晩飯抜きを言い渡した。僕の茶碗も箸も、ちゃぶ台には用意されておらず、父と母がご飯を食べているのを正座して黙って見ているだけ。もう二度とこんな悪戯するものかと思った。
男がヒンプンの右側を出入りできる日で、真っ先に思い浮かぶのは豊年祭りの日だ。祭りの日に家々を訪れるアカマタ様とクロマタ様は右側の通路を通る。そして、その日だけは家長も右側の出入りを許される。
古臭い風習と思われるかも知れないが、女性は右側を通れるの日は2度しかない。嫁入りの日と、ニライカナイへ帰る日だ。棺は、右側の通路を通って家から出て行く。
僕は、彼女の家でもヒンプンの右側の通路を通って中に入った。庭の真ん中に立って、彼女は僕を待っていた。彼女の母から譲り受けたであろう琉装。そして頭には一輪のハイビスカス。花嫁だった。
嫁を自分の家へと連れて帰る道で、島の人たちはクバの扇で扇いで祝福の風を贈ってくれた。
僕は、花嫁の手をとりながら、僕の家の門を通り抜け、ヒンプンの右側を一緒に通り抜けた。そして「貴女が再びここを通るその日まで、私はあなたを幸せにします」と、僕は言った。単なる慣例的な言葉であると思っていたが、それは僕の決意の言葉と成っていた。
後は、音楽と踊りと、そして酒での祝いだった。
久しぶり、元気だった?こうやって面と向かって話すのなんて本当久しぶりだ。
この10年どうだった?俺は上京して大学通って、今はしがないサラリーマンだ。部下もできた。お前、大学には行かなかったんだっけ?確か家の仕事継ぐって言ってたじゃん。よくあの本屋に行ってたなぁ。俺もお前に薦められたからたくさん本読んだよ、大学入ってからも。
そういえば俺が上京してから彼氏はできた?なんだかんだいってお前かわいいからな、悪い男に引っかかってないか心配だったんだぞ。俺?お前は驚くと思うけど、大学だと結構モテてたんだぞ。ははっ、遊んでたな俺も。
まぁ雑談はさておき、一つ報告しておきたいことがある。見て、これ。そう、俺結婚したんだ。いやぁ、社内結婚とかするもんじゃないね、今はみんな認めてくれたけど。
とても優しい人だよ。ちょっと控えめでおしとやかな感じだけど人あたりがよくて、意外と面倒見もいいんだよね。なんかどことなくお前と似てるかもな雰囲気。お互いに惹かれあって、抱き合ったりキスをしたりして、そういったことがとても自然なことに感じてさ、ただ純粋に一緒にいたいと思った。
お前の知ったこっちゃない話かもな。でも、故郷に帰ってきて一番最初に報告したかった、お前に最初に。
結婚の話の後にいうのもなんだけど、この10年間ずっとお前のことが頭にあったよ。本当に、だって俺お前のこと好きだったから。「だった」じゃ過去形になっちゃうな、訂正するわ。俺お前のこと好きだから、今も。
覚えてる?上京の前日に二人で会ったの。別れの悲しさを紛らわす様に二人で抱き合ってたね。外の寒さなんて関係なしにずっと。このまま時が止まってくれればいいのに、とか思ってた。あの時、毎年休みになったら絶対会いに行くよって俺約束してたよな。その約束破っちゃった。本当にごめん。ずっと会いたかった。ずっと会いたかったんだ、けど…。
お前の葬式には出たけど、その後1回も墓参りしてない。そう、ずっと避けてたんだ、現実から。
だからさ、そろそろ…現実を受け入れなきゃなって。お前とこうやって向きわなきゃなって。本当に、ごめん。今まで顔見せないで。でも俺、今でも…今でもお前のこと好きなんだ。もう、ごまかさないから。
今までありがとう…そして、これからも――
俺は元気にしてるよ。お前も元気そうだね。また来年のお盆来るから。
俺、大人になるよ。
白い大理石で圧迫された空間に、チャーチオルガンの音が響く。
入口扉から見上げると、真正面には高い天井から程近い壁面に設置されたステンドグラスがあり、そこから入ってきた月光は、入口扉真上の十字架に張り付けられた、苦悶の、しかしどこか神々しい表情を浮かべた男の石像を照らしている。
2列合わせて10台ほどの長椅子が置かれた小さな教会には、白いフードつきのローブを被った老若男女が所狭しと並び、手を組んで祈りを捧げている。誰一人として顔を上げるものはおらず、身じろぎひとつしない。
ただ一人黒いローブを被った初老の男が、ステンドグラス真下の、胸ほどまで高さのある祭壇の前で、他の信者と相対するように立ち、同じように顔を伏せていた。
オルガンの演奏が、止まる。
黒いローブの男は、手を組んだまま、ゆっくりと天を仰いだ。
「天にまします我らの父よ。ねがわくば、御名をあがめさせたまえ。ダメなら死にます!」
「「「だめー!」」」
顔を伏せていた信者たちが、一斉に叫ぶ。オルガンの演奏者がハイテンポのジャズを叩き、黒人特有の深みと伸びがある声を出す。オーディエンスの熱狂は最高潮だ。黒いローブの男は、スタンドマイクを手にして、喉がちぎれんばかりに絶叫した。
「おまえら、そんなに死にたいかー!」
「「「いえーい!」」」
信者たちが、あるものは笑顔で、あるものは涙を流しながら、絶叫で返す。
総立ちした信者の足踏みで、地震が起きたかのように教会がうねった。
「オゥケイ!みんないくぜー!」
黒いローブの男は、懐からクイズ番組の回答席に備え付けられるようなスイッチを取り出し、高々と挙げた。
「「「スリー、ツー、ワン! ファイヤー!」」」
ぽちっとな。
こうして教会は爆風に包まれ、生けるものは皆天に召されたのでした。
死ぬ教
―人間は生まれながらに罪を背負った存在らしいからとりあえず死ぬことを教義とする宗教。その鮮烈かつシンプルな教えに、老若男女問わず信者が増えているが、増えたそばからすぐ死ぬためにさっぱり勢力が拡大しない弱小新興宗教。なお、教祖は経営難ですでに自殺している―
大学の友人であるタイチが、改めて話があると言う。俺たちはファミレスで待ち合わせて席についた。
「実は俺の描いた漫画を読んで欲しいんだ」
タイチが早々に話を切り出す。タイチが漫画を描いていると聞いたのはこれが初めてだ。正直な気持ちを言うと、とても意外だった。
「原稿持ってきているんだろう? 読ませてよ」
「よろしく頼む」
タイチから原稿を受け取り、一ページずつ読んでいく。怪獣が一人の少女に恋をする恋愛物語。最初は素人の描いた落書きだと思っていた。だが、
「すまん、ちょっとトイレ」
俺はそれだけ言うと、原稿を机に置き、平静を装いトイレに入った。
個室のトイレに入り、俺は堪えていた涙を一気に放出した。涙が延々と止まらない。それだけタイチの漫画が素晴らしかったのだ。
絵は荒いし、物語も稚拙。だというのにタイチの漫画には人の心をつかむ何かが確かにあった。
俺はあまりにもタイチの漫画に感動し過ぎて、便器に吐瀉物をまき散らした。こんな体験は初めてだ。人は本当に感動すると、気持ちが高ぶり過ぎて嘔吐が止まらなくなるらしい。
落ち着きを取り戻し、トイレの掃除をすると、俺はタイチのいる席に戻った。タイチは不安そうに俺の様子を見守っている。
「あの漫画、他の誰かには見せた?」
「マモルが初めてだ」
つまりは俺以外には見せてないという訳だ。それを確認した上で、俺は原稿を手に取ると感想を語り始める。
「絵は荒いし、物語も稚拙。特にこれといって見所もないし、素人の落書きって感じかな」
俺の論評にタイチは明らかに落ち込んだ様子だった。
「うーん、やっぱりこれじゃダメか」
「そうだな。他のやつには見せない方が良いよ。恥をかくだけだから」
「わかった」
俺はタイチに原稿を返し、タバコに火をつけた。ふぅーっとあたりが白い煙に包まれる。
「それにしても」
「やっぱりプロの漫画家は言う事が違うなぁ」
タイチが尊敬のまなざしで俺を見つめる。
俺、少年タックル連載漫画家、久村マモルはこうして一つの才能を握りつぶし、ライバルを一人葬った。
ためらいながら橋を渡り始めると、中学生くらいの少年が駆け寄ってきて言った。
「おまえは不幸になる。」
その時の純朴な明るい笑顔は、脳裏に残っている。
その町の由緒ある家の娘とつき合っているというだけで、わたしは罰当たりみたいであった。
昭和も50年に差し掛かろうとする頃、旧態依然とするそんな風景が残っているとは、当時のわたしには驚きであった。
都会で育ったわたしには、戦争のあとの荒廃した街並みは一番遠い記憶。
だが、この地方では大して戦争は傷跡を遺さなかったのだろう。
自ずと流れる歴史や時間も、違うものにとなる。
学校で教えるものが本当とは限らないと知ってはいたが、直に感じたのははじめてだった。
この町では戦争は、老人の昔話。
耳を傾けて静かに聞くだけの、そんなものであった。
ある日、彼女は言った。
「わたしは、この町を離れたくないの。
あなたから見たら何もないかもしれないけど、そうなの。
だから、あなたと一緒になることはないわ。」
彼女の言葉は逞しく、大きなものを背負っているみたいにみえた。
その横顔は夕陽に染まって美しく、それが彼女だった。
何年かつきあったあと、しだいに疎遠になり、別れた。
もう何十年かぶりに、わたしはここへと来た。
そして、知ったこと。
彼女は結婚をせずに子供を産んで、四十代のはじめで死んだということ。
わたしは結婚をしたが、子供に恵まれずに離婚にと至った。
子供のことだけが原因ではないが、それもあるだろう。
あの橋で少年がいった言葉、「おまえは、不幸になる。」
わたしは、世間一般にはそうなのだろう。
先の短い自分の人生を感じながら、彼女がこの世界に居ないことが、無性に淋しかった。
そして自分の他愛もない不幸を、嗤った。
涙が、少しだけ流れた。
久しぶりだった。
道端に、少し、内臓のようなものが落ちていた。
あれは父さんだったか母さんだったか。それとも私のものだったのかもしれない。
ふとそれが愛しくなって私は道端の内臓を拾い上げた。それは私の手の中で柔らかく温かく微かに動いていた。
「それ、ほるモンと名付けたの」
「きもっ! てか、そのまんますぎ」
彼が爆笑しながら、ほるモンをシャーペンでつつく。つついた部分から少し血が飛んで、彼の青いシャツに水滴のような染みを作った。
「ぎゃっ、汚ッ」
彼はばさばさと服を脱ぎ、洗面所に走っていく。
「水で流すのよ―。お湯だときれいに落ちないからね」
「わーかってる―!」
私はほるモンを抱き上げ、そのままごろりとベッドに横たわる。ぐじゅり、とどこかが潰れた音がした。
少しの温かみをいつまでも残すそれにしがみつくようにして、私は眠りについた。
「それなんか大きくなってるんだけど」
彼が嫌そうな顔でこちらを見る。彼は決してほるモンの名前を呼ばない。
「ごはん食べるからね」
「ごはん、食べるの?」
「そう」
「何を?」
「肉」
彼は黙って私を見る。それとも、ほるモンを見ているのかしら。
ほるモンは温かく私を包む。最近すっかり大きくなったので、ほるモンが私を抱くと私はすっぽりと埋もれてしまうほどだ。温かい、柔らかい、気持ちいい。
「……お前、どこ? てか、いるの?」
部屋一杯に私は広がる。ほるモンと私は溶けて一つになる。
「おい! ふざけんなよ、なんなんだよ!」
じゃばじゃば、と彼の手が生ぬるい肉の海をかきわける。
うるさい。
「私」がむくりと起き上がると、彼は怯えたようにこちらを睨んだ。
「あいつを返せ! 化け物!」
うるさい。
こんなに気持ちいいのに。彼の声が妙に高くて鋭くて、まるで肉に刺さりそう。うるさい。私の肉が彼の口を、鼻を、喉を、すべてを包む。
私は、気がついたら街全体を飲み込んでいた。ぐじゅぐじゅとした桃色と紫の肉が鉄の街を覆う。波のような肉のひだが、電柱も公園も犬も人も何もかもを飲み込んでいく。
やがて、夜明けより早く飛んできた飛行機の群れが、私の体に炎を撃ち始めた。
太陽が昇る前に私の体は灰になる。
後には少し、骨が残るだろう。
南宋に劉洪托という獄司空がいて、早朝に東京開封府(河南省)を出て杭州の沿岸にある銅の採掘場に向かっていた。連れ立った刑徒は、汚職の下級役人やら暴力を働いた丈夫がほとんどで、採掘した銅を運ぶ小火車を渡すための軌条敷きの工事に遣わすのだ。
もとは沼の底だと謂れの採掘場に着くと、黄砂の積もる窪んだ土地。「史記」に伝わる悪名高き妲己の伝承を想起した。「酒を以て池と為し、肉を懸けて林と為し、男女をして裸にしてその間に相逐はしめ、長夜の飲を為す」との謂れのあれである。劉洪托は刑徒を場に放ち監視にいそしむ。群がる者の差異はあれど廖郭たる様、紂王がつくらせた石造りの池苑さながらであった。
身震いをおぼえ小用に立った劉洪托は、岩の狭間の枯れ草のなかに腰かける道士を見つけた。口を聢とむすんだ道士もまた、虫螻のように採掘坑に集る者共を見下ろしていた。
「明帝のゆるし得ず立ち入ってはならぬ」
劉洪托の一喝で道士はおもむろに立ち、懐から符を取り出した。
「昔日にここで親を没めたことがおありか」
「侮るか。この手で人を殺めたこともない。まして故郷に健在なるぞ」
劉洪托が短刀を引き抜くと、道士は「沙羅紗々紗、更沙羅更紗」と軽妙に小筆でなぞり、掌で符を包む。つかの間に呪詛を唱えたかもしれず符は空を舞い、劉洪托の目先をそよいだ。
「生き死にの母ぞ乾屍。泥の王都を穢してはならぬ」
切りつける間際、道士は陽炎然として消えてしまった。劉洪托は空を泳ぐ符を掴んだ。
採掘場では刑徒が散って作業をしていた。
劉洪托が降りていくと握った手から符が自然と離れ、刑徒のひとりの肩にとまったではないか。たちまち刑徒は目下を夢中で掘り始め、やがて踝あたりの深さに至ると水が湧いて乾いて固まり、世にも見事な黄金と化したのである。
乾くのを待たず水を呑んだ刑徒たちは錯乱の態。同じく眩さに正気を逸しそうになった劉洪托は、痙攣する半裸の背中を見て慄然とした。刑徒たちの頸から腰にかけた背骨が隆起し、破竹めく音を立ててまくり上がったのだ。背骨だと思しきは骸骨魚の幾枚もの背びれであり、それは抜け殻になった刑徒の骸を飛び立つと黄砂の地に落ち、掘削機さながら地中へと没んでいった。
劉洪托はやみくもに黄金を拾うと、逃げるように帰郷した。職こそ失ったが後の劉家は孫の代まで栄えた。
劉洪托は孫が生まれてほどなく、漁場の魚を食らい毒にあたり死んでしまった。
5時間目の、古典の授業が始まった。
──春は曙。やうやう白くなりゆく、山際少し明かりて──
先生が優しい声で、ゆっくりと、春の日の小川のきらきら流れるように読んでゆく。それを右耳で聴きながら、僕はぼうっと左の窓から見える中庭を眺めていた。
お昼ご飯を食べたあとだから、体の中からぽかぽか眠たい。耐えなければ……ああ、外が綺麗だ。本当に、春の陽気だ。クラスで中庭に作った畑を、影を作って邪魔することだけは喜ばれないが、おおらかで、綺麗な、ずんと大きく伸びた木。何の木かはわからないがその木は、そよ風に吹かれ日を浴びて、ちらちら白く光りつつ、コクリコクリと枝をもたげる、これまたずいぶんと心地の良さそうなものである──枕草子の清流はまだ、ゆったりと流れてやまない──中庭に何か飛んできた。スズメだ。ぴょんとはねながら、水たまりのそばによって、先客のハトと共に水を飲んでいる。仲がいいらしい。それを喜ぶ黄色の何かが、ひらひらふわりと舞っている。君は何かと問いかけた。紋黄蝶だと返ってきた……
がん、と殴られた。突然頭を殴られた。
はっとして咄嗟に、誰だい殴ったやつは、と軽く憤りをおぼえながらあたりを見回した。見ると他の生徒は皆、先生か黒板か教科書かノート……とにかくその辺りを、平然と眺めていた。それだけだった。僕はきょとんとした。そうか、ああ、誰でもなかった。自分だった。あの夢心地から、こっちに戻ってくる衝動で、自分が、自分を殴ったらしかった。目ははっきりと覚めた。だけど、頭がまだ覚めない、まだ紋黄蝶が飛んで、僕を出迎えている気がするのだ。不思議な感覚だった。
視線が再び中庭に向きかける。しかし、いけない、授業中だ。クッと前を向いた。先生が黒板に板書を始めているのに気がついた。それと同時に頭も覚めた。僕の視線はそのまま黒板に吸い込まれていった。
その紋黄蝶は隣のクラスの方へ飛んでいった。
「ありがとう」
それは、お礼の時に使う言葉
私はありがとうが大嫌いだった、違う、ありがとうを言えない私が大嫌い
生まれた時から私は自分の声を聞いたことがなかった。勿論、お母さんもお父さんもね。原因なんて、お医者さんに言われたけど覚えてない。
周りの人は皆話せるのに、私が発しると空気に混じって消えて、虚しい気持ちしか残らなかった。
せめて一言だけは言いたい、だから、声を発せるように何回も出してみた。声が出たら一番言いたい「ありがとう」を
でも、出なかった。何回何百回やっても空気に混じって消えた。
だから、この言葉は嫌い、言えない私も嫌い
でもね?一番好きな言葉でもあるんだ
ありがとうは大嫌いで大好きな言葉
パタンと本を閉じる少女が呟いた。
「私も親に日頃の感謝を伝えないとな、声が発せられるしね」
立ち上がり本を置き、何処に走りだした。
本が風に吹かれて表紙がめくれる。
そこには、『大嫌いで大好きな言葉』と書いてあった。
まりこのことをまあとかまあちゃんと呼ぶ。
別段甘えている訳ではない。まりことかまりとか、とにかくリアンとか莉緒とか里奈とかリカとか凉子などの名前でもそう。悠里や友里や愛梨や樹里やカリンや香里奈でもそう。リアンとか莉緒とか里奈とかリカとか凉子の場合、もうほとんど名前では呼べない。悠里や友里はゆうちゃん。愛梨だとあいちゃん。ここまでは不自然な感じがしない。樹里はジュジュだったり。カリンはかぁ。ちゃん付けだと母ちゃんに聞こえるのでちょっと躊躇する。香里奈の場合もカぁとか。カぉでもいいのだけれどカぉだと香織とか佳織とかぶるのでちょっと考えたりもする。ああちゃんとかあっちゃんでもいけるような気もする。
とにかく「り」の発音が自身の中でしっくりこない。自身の発音に自身の耳が嫌悪を示すのが分かる。自身の声なのでなおしようもない。むりやり解説すれば、百合子だと「ゆりこ」ではなくて「ゆるぃこ」の発音に近い感覚である。「る」は小さい「る」の音のように上あごに舌が軽く接触する発声。樹里だとじゅるぃ、凉子だとるぃょうこ。れぃょうこも近い音になるけれど、口をすぼめて発声する「る」に対して「れ」は口を開いて発声するから少し違う感じに聞こえる。
名前の文字の二番目や三番目の「り」の場合、最初の文字から愛称を導き出せば済むことが多い。ただ、リアンとか莉緒とか里奈とかリカとか凉子のように名前の最初の文字が「り」の場合は名前から引用された愛称ではなくて、別な部分から引用された愛称で呼ぶことを望みたい。だからといって、みんながりっちゃん、りっちゃんとよんでいるのに自身だけがそれほど親密でもないのに別な愛称を使うのは何だか不自然である。差し障りのない場合、友達なら名前ではなくて名字で呼ぶ。これは、打ち解けていないのではなくて、自身に嫌悪感を受けることを防ぐための防御の意味での名字呼びなのである。
名字にも「り」が含まれていて、尚かつ、名前で呼べる間柄でもない場合はやはり「あのさぁ」とか「すいません」とか「ちょっと」になる場合が多い。そんなことを考えているうちに「り」の付く名前とは自然と距離を置くようになってしまった。
まりこのことを名前で敬遠するのは間違っているとは思う。それでも名前を呼ぶときには一呼吸、自身の中でステップを踏んでいるのが分かる。
今週はいらっしゃる?、さあ、顧客の地元は新宿、会食の予定はあるが、それから2次会を銀座とは長距離移動2-3名なら可能だが、中華料理丸テーブル8名〜10名となると、タクシー2台の移動、こりゃ大変だ。例のミニクラブは「サウダージュ」倖ママからのメールに微妙ですね。もしかしたら連絡すると答えた吉田であった。3月10日木曜日、中華レストランの食事は盛り上がり、結果、2名以外は2次会へタクシー2台分乗で銀座6丁目へ向かった。入店後カラオケが始まったのは11時過ぎで、6名のカラオケマンは2組に分かれ、対抗歌合戦よろしく、クマさん、ぞうさんチームに別れ、あらゆるジャンルに合計40曲、あっという間に午前3時、途中で2名は帰りましたが、最後まで4名で歌いつくし、午前3時半には「サウダージュ」を追い出されたのであった。以前このメンバーはニューヨークマンハッタン49番街でも出張時に合流した猛者である。49番街は日系のクラブが並んでおり、足蹴に通う日本人を49ers(フォアテーナイナーズ)と揶揄したものである。銀座は飲み歩く者たちをクラブサーファーと称して今回の一ヵ所定住型と違い短時間移動の梯子族の2種類が存在している。どちらも3〜4の行きつけを持って、1か月に数回繰り出している。一晩で使う金額はどちらも同程度で、対抗歌合戦は珍しいがたまには大人数で豪遊する、打ち上げなど、特別なご褒美に来店することがあるのである。出席者たちは昨晩の検討を湛え、次回もよろしくとお礼のメールを配信終わったのが3月11日金曜日午後2時頃であった。吉田もメンバーからのメールが出そろったところで、返信を書こうとしたときに、震度5の東京では大地震の波状攻撃が開始されたのである。倖ママはこれから起きようとベットの中であった。地震の揺れで目を覚ますのは初めての経験。自宅内の被害はなかったが、今夜は営業できるか、どうしようか、途方に暮れる、吉田の仕事は国内外の運送に関わっていた。報道の映像が世界中を駆け回り、世界で最大級の地震と津波の状況が手に取るように目に焼き付いて、とある国の支援の物資の輸送は早かった。週末に貨物を到着させるので、東北の各地の状況を在日大使館に調べさせ、車両を抑える指示が日曜日中に依頼が入った。原発の事故発生の前である。実際の輸送は宮城、岩手、青森と輸送手配を行った。壮絶な2週間を過すのである。
時の過ぎる街にいる。それは空間を少しずつ浸食して、すべてのものをことごとく朽ちさせていく。
電灯の笠が朽ちる。扉の取っ手が朽ちる。足下の床が朽ちる。
朽ちていく部屋のなか、洗ったばかりの手を眺める。しなびた指。皺だらけの甲。傷だらけの爪。
そうして、わたしも朽ちていく。
わたしが婆さんになっても愛してくれる? 幼いわたしの問いに、あなたは笑って頷いた。当然だろ。いくつになっても、きみはきみだよ。
本当にそう?
細胞は刻一刻と朽ちていく。わたしから剥がれたわたしの身体だったものは、シャワーの湯にまかれて流れていく。わたしはそれを愛さない。愛することができる人のほうが稀だろう。
温まった身体(それはまだ「わたし」にはりついている「わたし」そのもの)をバスタオルで覆い、棚に飾っている写真立てを眺める。そこにはわたしから剥がれた「わたし」がいる。わたしはそれを愛さない。
写真のなかで笑っている「わたし」だったものの横に、あなたがいる。それも当然「あなた」だったもので、あなたから剥がれたあなたの身体の残骸。さらにそれを写したまがいもの。仮にわたしがそれを愛しているとしても、それは「あなた」ではない。
「あなた」だったころの幼いあなたが問うた。ぼくが爺さんになっても愛してくれる? それで、「わたし」はなんて答えたのだったか。
写真はすでにセピア色。総天然色の部屋のなかで、わたしも少しずつくすんでいく。朽ちていく。
空から落ちてきたのは、作ったばかりの雑巾のような汚れのない存在だった。程良いごわごわとそれでも優しい肌触りと、それが誰かの優しさを伝えてくるような。見上げるとたくさんのそれが、ふわりと雪が舞うみたいに、ミサイルの光を遠くで捉えた現代戦争の映像みたいに、音のないヘリコプターが大挙して押し寄せたみたいに。淡い空を背景にアホウドリの灰色の翼がはためくみたいに、いくつものそれが静かにゆっくりと降った。
あの人の家には鍋はあるけど冷蔵庫の中にはマヨネーズがない。鍋つかみはたぶんあるけど、どんな柄だったか覚えていない。もしもドラえもんの手だったら困る。そこの角を曲がったところにクリーニング店があって、同じ軒先にお饅頭なんかを売っている。確かどら焼きもあったはず。どら焼きを買って行こう。四つくらいあったら良いだろうか。そうかもしれないけど十二個ぐらい持っていきたい。そんな気分だ。
交差点には自動車が三台。先頭が黒の四駆で、その次が白の軽、それからスポーツタイプの車。別にカーに詳しいわけではないので、どういう車なのか分からない。色もどう言ったらいいのだろう。メタリックと言ったら何か伝えたことになるのだろうか。車には人が乗っていない。信号も変わる気配がない。辺りにも何の気配もない。動いているものが何もない。
トンネルは緩やかに傾斜していて、奥に行くほど少しずつ下っていく。真ん中あたりまで来れば今度は上向きに変わるのだろう。まだ下りの終わりは見えない。トンネルの電灯はだんだん間隔がひろがってきて、ちかちかチカチカと明滅を繰り返している。オレンジ色、暗い青色、ときにはどす黒い赤色に、心臓の鼓動が変わるのに合わせるように、正確に時を刻む秒針のように、台風の前の日の耳鳴りのように、軽薄に断固として電灯は明滅を続ける。
位牌に書かれている文字は読めない。誰にもらった名前なのか。線香はもう三年は燃えつづけている。仏壇は博物館の地下にあって、地下室の入り口は隠し扉になっていて、ミイラの棺のふたを開けるとミイラが寝ていて、ちょいとごめんよ、なんて干からびた遺体を半分転がし、暗証番号を入れようと思ったらそれが思い出せない。スマホにメモしてたかなと思ったらスマホのロック解除が思い出せない。そういえばどこに行こうとしていたのか思い出せない。どこにいるのかも思い出せない。帰りたいけど歩き方が思い出せない。
大学を出て晴れて忍者になったものの、何年経ってもやらされることは簡単なおつかいや雑用ばかり。そのうち「こいつが食事当番の時の飯がうまい」という話から当番を固定にされ、今では新設された台所長として腕をふるっている。なんでだよ。一人暮らしの経験が変なところで役に立ってしまった。自分はもっと忍者っぽい任務に憧れていたのに。
とかなんとか考えながら雑木林を進む。忍者の基本は隠密行動である。枯れ葉の音を立てないように慎重に歩き、目的の岩に隠された目立たないパネルにパスコードを打ち込む。
【yama?】
「kawa」
スーッと岩に一線が入り、人が一人通れそうな隙間が空いた。素早く入って中から閉じ、まとっていた光学迷彩を解除する。店内は明るく広い。
要するに、スーパーである。忍者はその存在を認知されてはならないため、こうした忍者用の店というのが各地に点在しているのだ。少し前はネット配送を利用している里もあったが、配達員を装った忍に被害をもたらされるケースが増えてきてからというもの、買い物の類は昔ながらの忍スーパーで行うのが一番とされている。
台所長なんて大仰な役職に就いてはいるが、やっていることは食事当番だった頃と大差ない。余っている食材や食事する人数、時節等を考慮し、本日のメニューを決め、調理する。偉くなって変わったのは作業の多さだけだ。毎日毎日同じことの繰り返し。食事は毎日やってくるわけだからこれといった休日もない。命の危険こそ殆どないが、ひりつくようなスリルも、昇格もない。限られた人を喜ばせ、緩慢に死んでゆく。
カブが目に入る。これからグッとおいしくなる野菜だ。しかも安い。嫌なことではあるが、何年も店に通ううちにだいたいの物の相場は覚えてしまった。頭が回転を始める。カブと……蔵に新じゃがの余りがまだあったはずだ。セットで安くなっているウインナーもカゴに入れる。
分かってはいるのだ。自分は外へ出て戦うのなんて望んでいないこと。仲間を縁の下から支える今の役目にやりがいを感じていること。最近気になるくノ一がいて、いつにも増して気合を入れていること。ここのところ、料理の感想をきっかけにちょっといい感じに話せていること。
遠藤さん、ポトフは好きだろうか。
レジを通り、食材を布に包み、光学迷彩をオンにして外へ出る。うっかり鼻歌なんか歌いそうになり、慌てて抑える。忍者の基本は隠密行動なのだ。
片手に収まった本が深い黄昏に濡れている。鬼灯色の夕陽が空を溶かし、底から夜を引き上げる。今日は朝から晴れていた。今夜は歌声がよく響くだろう。
『本謡』の夜は子どものように心が跳ねる。これぞという本をつれて、いそいそと月のない空の下を歩く。星明かりだけの広場に同志が集まっていた。
「昔読んだ本をもう一度読んでみたの」
「今回はちょっと自信ないなあ」
「あら、話題書ね。どうだった?」
あちこちで本の話に花が咲いている。『本謡』は自分と本の宴なのだ。
大事に読まれその内容を深く理解された本は、新月の夜、もち主のために歌いだす。人の心に響いたぶんだけ朗々と歌う。童話が、恋愛小説が、戦記物が、料理本まで高らかに歌い上げる。
前回のミステリは実にいい声で歌ってくれた。トリックの妙、意外な犯人にすっかり魅了されたからだ。今回も、と意気揚々とつれてきた本にそっと手をおく。
空は磨き上げられた黒曜石のような色と艶を放っている。触れれば絹か天鵞絨のような手ざわりがするに違いない。
「こんばんは小西くん」
「こんばんは有馬先生。いい夜ですね」
高校時代の恩師とは、卒業後も本謡の同志として交流が続いている。在学中はわからなかったが有馬先生は存外負けず嫌いだった。
「今夜は私のほうがよく歌うと思いますよ」
「僕だって負けませんよ」
本と自分がどれだけ密に心を通わせたか、それを自慢できる場でもあるので読書家たちはとっておきの一冊を携えてやってくる。有馬先生と視線を合わせてにやりとしたとき、広場に高く低く声が重なりだした。本謡が始まった。本が歌いだしたのだ。
朗らかな声、澄んだ声、太く穏やかな声、子守唄のようなその柔らかさ。本の声は夜空の星をつなぎ、僕たちに降り注ぐようだ。
有馬先生が小振りの辞書の表紙を何度か撫でた。辞書はよく響くテノールで豊かに歌いだす。辞書とは先生らしい。得意げな顔が悪戯っ子のようだ。僕もつれてきたビジネス書をいそいそと取りだす。つるりとした表紙をそうっと撫でると、堅苦しいタイトルの本は掠れた声でつまらなそうにもごもごと歌い、そのうち欠伸をして黙ってしまった。
「ダメだよ小西くん。恰好つけたビジネス書なんかじゃ」
僕の見栄っ張りを見抜いた有馬先生は茶目っ気たっぷりに目を細めた。
照れ笑いしながら、次は娘と絵本をつれてこようと思った。彼女が瞳を輝かせるあの本は、どんな声で歌うだろうか。
ななめに、倒れるか倒れないかぐらいななめに立っている人を見てしまった。私は沈んでいく夕日に、ただサヨナラを言っていただけなのに。
「やあ神様」とななめの人は私に言った。「あるいは人間かもしれないが、もしお前が人間なら、うっかり詩を書くこともあるだろうね」
ななめの人の隣には、誰も座らない椅子が一つ置いてある。
「君にはいろいろと事情がありそうだな」と私は言葉を返すと、夕日に背を向けた。
「きっと誰にだって事情くらいあるさ」とななめの人は私の背中に言った。「でもみんな事情なんてない振りをして生きている。大抵は恥ずかしいことだからね」
私は家に帰ってテレビを点けた。どういう話題か知らないが、番組の司会者もまたテレビ画面の中で「恥ずかしい」と言っていた。妻は台所で夕飯の支度をしながら「東京には空がない」と詩を暗誦している。
「どの空も同じで、ほんとうの空なんてないとしたら、私はいったい誰なのか」
そして彼女の子どもはプラスチックのおもちゃを抱きしめながら、窓の前に立って暗い空を見上げていた。「UFOでも見えるのかい」と私がたずねると、子どもは一瞬振り返ったあと、黒い雨が降っていると答えた。
しばらく経ったある日、私は、ななめの人が電車の中でななめに立っているのを見かけた。周りの乗客は気にしていないようだったから、私も気にしないフリをして吊革を握っていた。やはりななめの人の隣には椅子が一つ置いてあったが誰も座ろうとはしなかった。よく見ると椅子の背もたれには「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」と小さく書いてあった。
私は目的の駅で降りると、改札を抜け人ごみに紛れた。そしてこの世の中に野蛮でないことがあるだろうかと、心の中で反駁した。スクランブル交差点は人であふれかえり、そこら中にヒュンヒュンと銃声が飛び交っている。きっと戦争が始まっているに違いないのだが、ニュースでは全く話題にならないし、人々が銃弾に倒れていっても、歩みを止める者は誰もいなかった。
交差点の中央にはあの椅子が置いてある。
私は人ごみを掻き分け、椅子に腰掛けながら空を眺めた。何もない青い空を10秒も眺めていると、ここがどこか分からなくなった。するとふいに誰かが傘を差し出して私の視界を遮った。
「ほら、雨が降っているじゃないか」とその人は言った。「この世にも、野蛮でないことは一つぐらいあるさ。早く家へ帰りな」
キングオブステージ、すなわち、
ステージの王様。つまり、耳が驢馬。
隠すための、はちまきなのか。違うの?
そもそもはちまきは巻いていない?
ヒップホップグループははちまき巻かない?
はい、だとしたらうちの国のそれと違うのかな。
だいたい巻いてるし、手に紙コップ。
恵んでくれよう、乞う、お賽銭、恵んでくれよう。
と囁くし。
マジ?それはヒップホップグループじゃない?
じゃあ、なんなのさ。うちの国ではそれがヒップホップグループなの。
この気持ちどこにぶつければいいの。
ぶつぶつ音階がないようなつぶやきをさ、囁いてるんだからそうでしょう?
何が違うと、言うのさ答えて。
え、紙コップもって恵んでくれえというはちまきの輩はここにもいる?
それはなんと言うのさ?修行僧?
そう。
いや!修行僧ぐらい知ってるし、
修行僧ははちまき巻いとらんし
知っとるし。だまされんし。無垢ちゃうし。
処女は16で捨てたし。行きずりの関係やったし。
免許あるし。熱帯魚飼っとるし。水草めっちゃあるし。
だまされんし。バブー。
南無三。
霜月、富山は黒部渓谷。小雨の降る、宇奈月駅のホーム。
写真をとる、ホームの色を持たない乗客たちが、赤い客車に乗っていく。すり減った、古いカメラを手に、自分も幅の狭い乗車席にこしかける。長く連なった車両。走り出す。四軸の、オレンジ色のトロッコが二台、客車を牽引していく。
ふもとと離れる、はじまりの、赤く大きな新山彦橋を渡っていく。色づいた山の木々に、降りてきた白い雲がかかっている。向こうでは、ビニール傘をさした人たちが、こちらに手を振っている。
橋の向こう、山に空いた、丸いトンネルに入る。トンネルが連続する。抜ければ、黒部川を横目に走る。きれいな青碧色をした川の水。木の幹に、隠れるようにして見える仏石。山の斜面は、赤、黄、橙。雲の白。ゆたかな彩りに包まれた世界に、むろいが滋る。
客車に動力はなかった。黒薙の駅にとまると、エンジンの音が聞こえない。山からの音だけの、静寂の世界。僕をとおりこして、流れていくのは、色を持たない人の声。家族連れやカップルが、ホームへと降りていく。
続く線路。続くトンネル。心地よい揺れ、疲れ。まぶたがおもたくなる。トロッコの走る音も、とおくなっていく。
歩いて、歩いて、歩いて。思えば遠くへ来たものだ。木々の間にのびる、先の見えない細い道を、ゆるやかな、坂道を、走らず、時折立ち止まり、立ち止まっては、歩いて。六年の月日が流れていた。
「石の上にも三年」というけれど、僕は六年だった。人よりも、要領が悪い、効率が悪い。人が一つ間違えば、二つのことに、気付けるところを。要領のいい人なら、三つ、四つと、気付けるところを。僕は一つ一つ、人からすれば、同じ間違いだということも。時には自分でも、同じ間違いだと思うことも。
強くない。そんなに、歩き続けられる、ものではない。時には冬季歩道。立ち止まり、休み、うずくまって、情けなく泣いてきた。
子供が黄色い帽子をかぶって、小学校に入って、卒業するまでの期間。中学、高校と、青少年が思春期をやりきるまでの期間。それと同じだけの月日を、一人、歩いてきた。
うっかりまどろんでいた、自分に気付いて外を見てみると、トロッコは雲の中。終点、欅平の駅に着いていた。手に新しいカメラ、ホームへ降りる。ここまで乗ってきた人間は、気付けば僕一人。
改札を抜ける。僕はそこにいた、色のない女性から、「おつかれさま」と、頭に枝葉の冠を頂いた。