# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 御霊送り | 藤崎瑞貴 | 936 |
2 | 人魚姫の鬱憤 | まめひも | 649 |
3 | 僕の愛した彼女 | ウィザードリィ | 925 |
4 | メランコリー | 鈴崎幽吏 | 1000 |
5 | 影送りの夏 | 緒上 ゆう | 521 |
6 | ラダー、左の二の腕 | 吉川楡井 | 1000 |
7 | 朝、七時三十六分、昨日の夜から一緒。 | 岩西 健治 | 937 |
8 | い | qbc | 1000 |
9 | ペットの埋葬 | たなかなつみ | 836 |
10 | エビフライ | かんざしトイレ | 1000 |
11 | 鬼の暮し | ララバイ・グッドバイ | 706 |
12 | サイレーン | なゆら | 809 |
13 | 銀座、仁坐、鎮座 | Gene Yosh (吉田 仁) | 947 |
14 | 皆既月食を終えた夜 | 白熊 | 1000 |
男は傍らの大木の幹に手を掛け、息をついた。
降りかかる木漏れ日が風に揺れる。……その陰で、小さな寺が緑に埋もれていた。苔の屋根を葺いたそれは、退廃へと向かいながらも溢れる光を受けて静かに息衝いている。
――また来たのか。
「手土産は何もないがな」
眼前に居座る銀狐に苦笑した。降り注ぐ緑光を体表面に纏わり付かせ、尾の先でその光と戯れている。滑らかな毛並みに埋もれるような両の蒼い目は、今も泉界の淵を覗いているのだろうか。
男は銀狐の傍らに腰を下ろした。
此処は泉界との狭間であった。聖域の最奥で歳月を重ね、そして朽ちてゆく。消滅の時を迎えられないまま、際限なく朽ちてゆく。……もう男の外に此処の存在を知る者すらいない。
ただ緩やかな時の中。思索に沈んでいた男は、銀狐が立ち上がったことに気付き、ふっと現実に立ち返った。
中天を過ぎたばかりの陽光が、翳る。束の間の薄闇。風が吹き抜ける。
狐火。宙に踊りあがった銀狐の傍らに小さな灯が灯る。
それは明滅を繰り返す。それは僅かに震える。それはあまりにも儚く揺れる。
灯火が狐の毛に踊り――風が嘶き、木々が奏でる――小さな、獣の形をした光が舞う。
銀狐がその灯火を尾で跳ね上げ、飛び乗り――風が渦を巻く――口に咥える。それに抗うように灯火は、天へと駆け上がっていった。途中でさん、と物悲しい音を一つ残して。
「逝ったか」
再び、陽光が大地に注ぎ始める。風が光を揺らめかせて去ってゆく。
――随分、気忙しい奴だったな。
瞳の色をさっと変え、牙を覗かせる。銀狐は笑んだ。
一方、男は表情を変えず問うた。
「死とは、何だ」
銀狐が泉界を覗き込んだばかりの目で見上げる。その底の見えない瞳で、何を見たのか。……泉界との狭間に足を踏み入れるようになって、純粋に興味が湧いた。
霊魂。輪廻転生。それとも、消滅か。
誰も真実を知りえないそれ。いつかは誰もが手にするそれ。しかし手にした時、それを認識する自己は存在しているのか。
――死ねば分かるだろう。
自嘲。「そうだな」
男は立ち上がって、尻に付いた土塊を払った。また来るよ、と手を振る。銀狐は頷き、その体を閃かせて、ゆったりと寺へ戻っていった。
そしてまたこの狭間の場所は、際限なく朽ちてゆく。
海の底から見上げる水面は、日が昇れば白くきらきら輝いて、日暮れ前には赤い宝石のように揺らめいて、ため息がつくほど美しいのです。つまりあれが私にとっての太陽であり星であり、朝と夜の違いを告げる時計でもありました。
しかしあれから時は流れ、海は汚れました。ヘドロと油で水面は濁り、朝日も夕日も働きの悪い鈍光に変わりました。
私は苛立っていました。悲しんでいました。苦しんでもいました。海の空気がそこら中で汚れ、淀み、息苦しい。それに私は生憎、首を絞められて快感を覚えるタイプでもない。
怒り。
腹の中から怒りが湧き出てきました。
一体どこのバカが、私の水面をこうも汚く汚すのか。朝も夜もわからない、こんな不愉快な真似を、誰が一体!
私は浮上しました。ヘドロや腐った藻のようなものや、なんだか分からないぬめぬめしたものが体に絡み付きましたが、怒りのあまりそんなことは気になりませんでした。腕が、尻尾が腐った暗い水の中をそれでも力強くかき分け、そして私は憤怒の眼差しをもってとうとうあの水面を突き破ったのです。
水上の、風は凪いでおりました。海の上にはいくつもの、葉っぱのような形をした鉄の塊が浮いていました。鉄の塊の上には肌色の生き物が動いていました。
「ご、ごごご、ゴジラだ―!」
そのような絶叫を聞いたような気がします。しかしその頃にはもう、私は汚れの元を探すのに必死で、それどころではなかったのです。
ええ、あの、まさか工場を破壊したら、余計に汚れが広がるなんて、その時は知らなかったんですってば。
哲学者など、何の価値もない。何の価値もなく自殺したのに、何故彼は生まれてきたのか。彼はよく、寂しい、と言っていた。「クリスチャンでも寂しいものなのか、」と、私が牧師に尋ねたら、一人は「その人の信仰の問題だ」と、もう一人は「神のお考えは、その人にしかわからない」と。私は、人様の心の隅々までわからぬ故、寂しい、と思った。私は女なれども、体は違うけれども、心の中は彼と同じです。私は、2日間、家へ帰ってなかったので、今日両親を安心させてあげたい、と思い、帰宅した。
両親は、私を心配して、私の体を抱きました。その時感じた体の快感が、そのあと数時間さめなかったので、ある行為をしました。
電話で男の人を呼んで、街で会いたいと思いました。キレイな服を着て、鏡台で後ろ姿を見ながらファスナを締めて。少しお酒を飲んでから、赤ら顔を作り、その男の人に会いに行った。街で見たその男の人は今風の恰好で、強引に私の手を引き、ホテル、と呼ばれるところへ連れていった。その中で、私の知らないことをたくさんして、その男の人はベッドの上に座りながら、タバコをふかしていた。私はその時、自分が女であることを、改めて確信した。
そして、無理に叫び声をあげ、その男の人の気を引き離し、ホテルを出た。おちついたあと、また心配する両親のもとへ帰った。両親はしつこいくらい、理由を問いただし、私を気にかけた。
ごはんを食べた後、お風呂に入り、体をきれいにした後で、私は死にたい、と思った。彼の写真をなでながら見つめて、目を閉じた後に、何にも言わない彼の写真の前で、私は両手首を切断した。その時、はじめて親に気づかれず、私は彼のもとへ行った。もし、生まれかわるなら、私が彼と同じ心を持つ、男に生まれたい、と心から願いながら。
つと、つと、音がする。床に散らかった私の血の音?いや違った。これは彼が私に会いに来た音だ。彼の足音に違いなく、まさかドアをノックする指の音でもないだろう。夜に冷たい風が吹けば、明日の朝には暖かな日差しが目に映る。時計は2時を少し回った所。遠く離れた彼はいつも決まって私の想像の内に居た。今更悔やんでも仕方が無い。何度も瞑想した後、自分の在り処を私は見付けて居た。
火曜日の二限目
授業を聞きながら、わたしは項垂れていた
「社会の一員として」
「自身が成長するために」
嗚呼、嫌になる
教室を見渡すと、わたしとそう変わらない年齢の生徒達が真面目に前を向いている
わたしだけが、キョロキョロと脇を見ている
将来への道だってきっとそうなのだ
真っ直ぐになりたい職を、将来の夢を見詰めている周りに、わたしは置いて行かれてしまうのだ
きっとそうだ
「会社に入れば会社の代表」
「自分の行動に責任を」
「就職しろ」
「就職しろ」
同じように埋め込まれる思考回路に吐き気がした
「わたし」が矯正されてゆく
周りと同じように
浮かないように
学校が望む最良の形で卒業できるように
怖いと思った
全ての授業を終えてわたしは学校を出た
近くには高いビルがいくつもあって、決して低い訳ではないわたしの学校は埋もれている
わたしも、嫌だ嫌だと抗いながら学校が提示する就職の波に埋もれている
浮上することは不可能だ
きっと不可能だ
だってわたしは怖いんだ
将来を想像してみても、真っ黒に濁った未来しか見えない
明るい未来なんて見えない
いっそ、就活をやめて婚活でもしてみようかなんて甘えたことを考えて、ここで小説を書いていれば救われるんじゃないかなんて思ってる
結局は逃げるしか能のない人間なのだ
わたしには何もない
取柄も何もない
何かが欲しい
学校を見上げていると、涙が出そうになった
早くこの場を離れたかった
そそくさと早足で駅へと急いだけれど、すぐに足を止めて、引き返した
学校を通り過ぎて、ある場所へと急ぐ
高い高いショッピングモールの屋上は、夜になると恋人達で溢れ返るが、生憎今は昼間だ
それも平日の昼間だ
いるのはランチを食べるOLやサラリーマンばかりだった
ベンチに腰掛けて息を吐いた
昼食時をすぎると屋上にいた人は蜘蛛の子をはらうようにどこかへ消えた
この広い世界に、わたししか存在していないような、そんな気がしてくる
気持ちがすうっと楽になって、ふわふわと浮いてしまいそうだった
フェンスに手を添えて下を覗き見てみると、確かに小さな人間らしきモノが交差点を行き交っている
数年後には、わたしもあそこへ仲間入り
「就職しろ」
「フリーターは駄目だ」
年齢不詳の教師の言葉が蘇る
やっぱりわたしは選ばなければならないんだ
今まで体験したことのない苦しみを経て、人生を預ける会社を一つ
就活が本格化するその前に、この世から退散したい
逃げ腰なわたしの独り言を、神様のみが聞いていた
君がいなくなってから六年の月日が流れた。それまでは頓着せず過ぎ去った夏の季。
幽玄麗らかに浮遊する積乱雲。際限無く振りかかる蝉時雨。肌を焦がす日射。ありきたりな情景でも、あの夏にはいつも君がいた。それだけで僕にとっては何もかもが違う世界に見えた。
僕は疲れていた。度重なる悪意に牙を向かれ、満身創痍だった。ひとりぼっちだから、いつも孤独と遊んでいた。そんな目隠しをされたような暗闇から、君は捨てられた黒猫を拾うように掬い出してくれた。
森林に囲まれた川を裸足のままで歩いて行く君。白のワンピースから伸びる素足がやけに眩しかった。風に棚びく長い黒髪を耳にかけ、優しく微笑んでくれた。
だけど、晩夏の風と共に君は突然いなくなった。
僕を襲った悪意の目に付いて、君はどこか遠くへ連れ去られてしまった。
また、僕はひとりぼっちになってしまった。
声を枯らして泣いた。鉛を飲み込んだように喉の奥が苦しかった。
あの頃を思い返すと、最後に見た君の笑顔が伽藍堂の心に映しだされて、視界が不明瞭になる。
こうして筆を執っている今も、僕は君を探し続けている。
少し肌寒くなった秋の夕時。窓外に広がる黄昏を眺めながら、影送りのように空へ溶けてしまった君を想う。
張本人にとっては大それた決意なのかもしれないが、事実さしたる価値などありはしないのだ。周囲にとってはいい迷惑で、悲壮よりも厄介なものが遺ることもある。
弟は昔から私のすそを握って離さないような子どもで、ままに成長したような繊細さゆえか、人間関係をこじらせ退職してしまった。
直後は解放された気分だったろう。何度か笑顔をみせた。しかし一度ほつれてしまった人生は、しっかり指をそわせてやらなければさらにダメになっていく。弟は恋人に仕事のことを言い出せなかった。
明かせば済むようなものの、代わりに死への願望を口に出すようになったのは恋人が訝しく思い始めた頃からだった。
局員が三人きりいない小さな郵便局を曲がって、手入れの放棄された生垣をつたっていくと、鹿の頭部の剥製が鎮座するバルコニーが見えてくる。とうに操るもののいなくなったブランコには襤褸になったタオルケットがかけられ、隠れたマホガニーの板にはイニシャルが彫りつけてあった。
「死なんてものは、鹿とチェリーみたいなものですよ」
萎びて色が抜けたエンドウ豆のような顔の家主は、軋むソファーに私を座らせて語りだした。
後で調べてわかったことだが、『ほら吹き男爵の冒険』の作中に、チェリーの木を頭に生やした鹿と森で出くわす話があるらしい。譬え話はさておき、家主はくたびれたシャツを脱いだ。左の二の腕には異形な階段状の襞ができていた。
「苦痛を受けずに死にたいという若者が多い。貴方にはお話ししましょう。私は、心の底から彼らを蔑んでいるんですよ」
記者という職業を名目に、遠路遥々来たことを口実に、この面会はゆるされた。撮影こそ断られたが、私はこの目で見た。
皮と骨ばかりの階段を、親指ほどに縮んだ自殺志願者たちの魂がゆっくりとのぼっていくのを。半透明のそれは、ひょいと襟元を飛び越えて家主の耳のなかに入っていった。
「うるさいんだよねぇ。毎朝、毎晩、頭のなかで彼ら、パーティーしてるんですよ。やかましいったらない」
次の月、再訪した。
生垣の先に家はなく、どうやら前回から間もなくに、首をくくった家主を客が発見したという。
左肩目当ての客のその後までは知る由もないが、軽くめまいを起こして帰郷した私の左肩は、翌朝、蛇腹のように波打っていた。これがくっきりと成型されたとき、私は思い出して憎むのか、悔やむのか。
弟と、どんちゃん騒ぎをする幾千もの魂のことを。
「なにそんなイラついてるの?」
「別に……」男、女の顔も見ずに答える。
「だって、怒った顔じゃん」
「そんなことない」
「うそ」
「ないわぁ」男、車間距離調整のため、ブレーキを踏む。
「うそ」
「……」
「あそっ」女、前を向いたまま。
「……」男、信号で止まる。
「……」
「……」男、青に変わったので発進させる。
「ねぇ、調子悪いの?」女、前を向いたまま。
「全然」
「じゃ、なんで?」女、前を向いたまま。
「しゃべりたくない」
「わたし?」女、男の方を向く。
「口動かすの面倒なだけ」
「なんで?」
「……だからぁ」男、B型は朝機嫌悪いこと知ってほしいと女に思っている。
「ねぇ、好き?」
「スキって?」男、顔が赤くなる。
「……だからぁ」女、本当は分かってるくせに、と思っている。
「……」
「ほら、だんだんそうなったでしょ?」
「何が?」
「なにがって」
「何を?」男は知っているはずなんだけどな。
「わたしのこと」女、十二センチだけ男に近づいた。
「……」
「言えない?」女、あと男に六センチ近づいて、自分の肩を男の肩に静かにぶつけた。
「別に……」
「照れなくてもいいよ」
「うるさい」男、顔が熱くなった。
「うるさく言わなかったら、言ってくれないでしょ」
「うるさく言っても言わない」
「あそっ」女、二十三センチ男から離れて、ガラスの外の世界を向く。もちろん、左手でほおづえをついて。
「けっこう好きカモ」男、女が離れたことで少し落ち込む。
「もう遅い」
「ごめん」
「うそ」
「ほんと?」
「ほんと」女、五センチ男に近づく。
男はうれしいはずなんだけどな。男はハンドルを持つ左手をサイドブレーキの辺りでひらひらさせて女を誘いたかった。
「そう」
「素直に言えば? でもカモは余計かも」
だって昨日の夜、男は女とうまく性交渉できなかったんだよ。そりゃ、男も落ち込むわな。相手に相談できないし、その相手と今一緒なんだからさぁ。
「……」
男も正直なところ、いやマジで、好きって感覚が乏しいんだよ。軽々しく言えないんだよな。うぶだよな。
「ねぇ、コメダあるよ」
「あそこ?」
「うん」
「余裕ある?」
「うん、全然」
「何時からだっけ?」男、ウインカーを出してハンドルを切る。
「九時出勤」
「間に合うでしょ?」
「うん」女、手すりにつかまって、シートに姿勢をずり上げる。
大事に飼っていたペットが壊れた。
仕方がないので土を掘った。丁寧に折り畳んで穴の中に入れた。ううー、ううー、と唸るので、頭を蹴って黙らせた。折り畳んでも折り畳んでも伸びてくる手が邪魔なので、端からのこぎりで切り取った。
穴のなかが血であふれる。きっとこれが三途の川というものなのだろう。
川を渡るために必要らしいので、ペットの口のなかに硬貨を詰めた。うまく入らないので顎を割った。だらんと開かれた大きな口のなかにありったけの硬貨を詰める。お小遣い全部。これできっと無事に三途の川を渡れる。
死出の道を歩いていくのに必要だから、靴も用意する。折り畳んで深くに埋めてしまった足には履かせられないので、代わりに切り取った手をそれぞれ詰めることにした。顔の両脇があいているので、そこに入れることにする。ペットはあがあがと感謝で震えている。うん、上出来。
あとは花がいる。ペットの最期を綺麗に飾らなくちゃいけない。身体中にキリで穴を開けて、バラの切り花を植えていく。トゲが肉に引っかかってざりざりという音を立てる。華やいでいくのが心地いいのでどんどん植える。
ペットはもう唸らない。震えも止まったようだ。大事な大事なペットなのだ。できるだけ死出の旅を豪華にしてやりたかったのだ。どうやらその愛情は届いたようだ。
完全に壊れたぼくのペット。
泣きながら穴を埋めていく。どんどんどんどん土をかぶせていく。すっかり見えなくなるまで土で覆い、指でそっと穴を開けて、花の種を植えた。きっと綺麗な花が咲く。だって大事な可愛いペットの生まれ変わりなのだ。誰よりも綺麗な花を咲かせてくれる。
でもさみしいよ。さみしいさみしいさみしい。強度が足らなかったのがいけなかった。最期になるまで何をやっても喜んでくれなかった。次の休みの日にはまた新しいペットを探しに行く。最近公園に住みついているペット候補は山のようにいる。
愛らしく年老いた次のペットを手に入れて、今度こそ全身くまなく可愛がってあげる。
定食屋で昼飯を食っていたら店の大将からチラシを渡された。何だかよく分からないイベントが開催されているらしい。場所はここの二階で、裏の鉄階段から行けるとのこと。不思議に興味をひかれてしまってちょっと見に行くことにした。二階に上がって廊下を進むと、部屋の前に立て札が置いてあり、誰々の講演会と書いてある。中には長机と椅子が並んでいて十数人が入れそうな会場だった。
一番前の席に坊主頭の男が座っていた。体が細くて面長で黒メガネを掛けている。気が弱くて優しそうな男だ。もう一つの机にはスタッフ腕章をつけたカメラマンがいる。その後ろにはぴっちりTシャツのがっちりした男、その後ろには利発そうな小柄な女が座っていた。スウェーデンカラーのスカーフが目を引く。その女の真横に、通路を挟んで座った。一列空けて坊主頭の後ろの席だ。
三分ほどしてから、年配の男が入ってきて講壇に立った。日雇い労働者を思わせるくたびれた顔色に人生の苦渋が感じられたが、意外にも早口で流暢に話し始めた。内容は宇宙空間においてわら人形の呪いを掛けるにはどうすればよいか。ポイントはわらが空中に拡散してしまわないように透明な袋に入れておくこと。ただし可視光の透過率には注意を要する。人形自体もふわふわと浮きあがってはいけないので地上で行う以上に怨念を込めて特別な呪文を掛けなければならない。
質疑応答が始まったとき、身体にいやな感覚が生じた。下りのエレベーターが動き出したときのように急に血の気が引いた。それは気のせいではなくて、動揺しているうちに身体はどんどん軽くなり、靴は地面から離れ、尻はしばらく椅子に接触していたが、それも頭が後方に回転するにつれて別の方向にすべり去っていった。
「おい」
カミナリのように大きな声が天から降った。突如として再び重力が復活した。二メートル近くも浮かんでいた身体は急に支えを失ったかのように下に引っ張られ、床に叩きつけられる、と。
がっと顔を上げると、目の前のPCのスクリーンセーバーがまぬけな動きをしていた。先輩が飯を食いに行くぞと言っている。本人同士にしか分からないとげのある声。この先輩からパワハラを受けているのだ。坊主頭の人当たりの良さそうな先輩だが陰湿な本質を隠している。呪いの掛け方。肝心なところを思い出せない。たぶん今ではないのだろう。そういう立場になるまで力を蓄えて待つことを改めて決心した。
山から暗い風が吹き降りてきた。
鬼の一族は人間に見つからぬように、浅い川瀬を渡る。
彼らは私たちを見つけると叫び、そして、松明を持って狩りに来る。
だから、どんな時も気を緩めることは出来ない。
人間は見た目が明らかに違う、自分と同程度の知能を持つ存在を許さない。
非常に誇り高い、そんな生物。
鬼には、自分たちが迫害される、その理由が分からない。
しかし、その理由が正しく理解できた時、和解の始まりがあるのだろうか。
そこで鬼たちの知るのは、人の醜さかもしれない。
鬼が鬼に生まれた理由は、鬼にさえわからないのだから。
たが何千年もの間、この世界では、それが繰り返されている。
鬼も逆襲を試みて、人を殺害したりした。
それを知った人たちは、もっと鬼刈りを主張した。
だが、時の権力者たちは、それを許さず、現在に至っている。
何故、そんなことになるのかは、分かりやすい。
鬼が存在することで、人々が心をひとつにする。
仲良くさせては、それは危険だ。
和解は、許されぬ。
けれども、全滅は権力者のカードを減らすことになる。
だから、今夜も鬼は逃げ続け、人びとは狩りをする。
マイノリティよりも、マジョリティーの方が大事だ。
だが、マイノリティにも使い道は、存在する。
鬼と人の諍いは、ずっと続く事だろう。
たが仕組みに気づいて、声をあげる者が居るかもしれない。
その時には、闇が待っている。
永遠の闇での、永遠の眠りが。
本気であるから恐ろしいのだ、きっと。
だから、表沙汰にはせずに、風化するのを待つ。
僅かな娯楽で人たちを支配できるなら、こんなに安いものはない。
鬼に生まれたことで、その運命に逆らうことは難しい。角は、切り落とせないから。
それは、大事なものなのだから。
闇をつんざく音、仰け反ったつる子さんを抱きしめて唇をふさぐ。黙れよ。今はまだ吠える時ではない。俺がよしと言うまで待ってろ、まったくなんてだらしない子だ。耳元でささやくとつる子さん、びくびくっなって目が虚ろ。それでしばらくは大人しくしておるだろうて。油断したのもつかの間、つる子さんは小鹿のように頼りなく立ち上がり、どこかへ向かっているではありませんか。これ、これ、と呼びかけたところで無視するし、いや無視という名のわがまま娘を演じているのかしらん。どちらにせよ、人格が破綻したままさまよわすわけにはいかない。監督責任が問われる。もう一度抱き寄せて唇をふさぐ。ああ別にふさがんでもよかったわ、鳴いてへんし、思ったが止まらない。母上さま、お元気ですか。拙者、口づけの気持ちのよさを知りました。だったら、これはウィンウィンのとてもよい関係。ますます、口づけをする。つる子さんの舌は昇り龍のごとく、時にうねり時に弾み時に泣き言を漏らしつつ俺の舌を縛る。どっちが主やと思とんねんな、俺は少々腹をたてる。伝わったのかつる子さんの舌の動きが鈍る。気に食わん、遠慮などせず攻め達磨のごとく舌先の騎士となり、俺を圧倒するのが奴隷の務めやないか。先ほどとは相反する気持ち、俺なりの矛盾を抱えて立っている、ふたつの意味で。このまま雪崩れ込むのもひとつの手、ですが、焦らして焦らして焦らすのもひとつの手、俺は策士としての本領を発揮せなあかん。選択のとき、天に祈り待ってろつる子さん、と持っていた中華あんを垂らす、ひいひい声にならぬ呻き、すぐに紅くなる首筋、その皮膚の弱さも今は愛おしい。たまらなく愛おしいのでねぶってみる。大変具合のよい中華あんである。ビジネスの香りがする。俺は中華飯店の出店を決意し、未来に想いを馳せる。なんということだろう、主としての油断、瞬く間に唇は離れ、つる子さんが破裂しそうなほどの音が漏れてくる。台風だ民よ逃げろ。
10月にもなると、午後6時は日が短くなり、薄暗くなってきた。並木通りに沿って路地を歩いていると、銀座6−8丁目は今夜もにぎやかだ。オリンピック開催決定の建築需要、震災の復興需要が前倒しにこの時とばかりに社用族が動き出したようだ。「あっ吉田さん、お久しぶり。お元気でした?」路地を走るマウンテンバイクから威勢のいい声がかかる。まるでトライアスロンの選手のような出で立ちで二十歳位の健康的な乙女である。「まずいなあ、今夜は忙しくてこれからケーキを買って娘の誕生日会をしなきゃならない。また今度ね。」彼女の名前は麻衣子、ミニクラブと言われる小さなお店、マックス客数10名程度、女子数は5名程度の店である。昔、ビッククラブを卒業した経験10年以上の淑女がママを勤めるお店が多い。そのママが雇う娘たちなので、未経験者を安く雇っているので、このチャリ娘も近所築地に住む所要時間10分、経費の掛からない自宅通勤、深夜も自走、タクシーも近距離の娘である。しかし、器量はママのおめがねに掛かる男をその気にさせるものを持っている、さすがである。ドレスは店で用意しているので、通勤は軽装である。いつも同じドレスを着ている記憶もある。経験少ない若手が多いのが現状で、これから大所を目指す、一年生ホステスが昼の仕事を持っていたり、この銀座には行き交うのである。「吉田さんも浮気しないでよ、この時間から開いてる店はないと思うけど」そ、今、6時30分では開いていないと思いきや、お客も事情があり、午後4時ごろから食事して5時半には入店したいという方も多いようでシフトを組んで営業しているお店も多いようです。また、若い子ばかりと思って覗くと、かなりの年季の入った淑女もおりまして、いったん卒業して戻ったり、年増の新人もちらほら、ママの裁量により、お客の年代も加味しての取り揃えです。「じゃママによろしく。来週末は2−3名で伺うと思うんで」と言い残し麻衣子と別れた。いつものように銀座の夜が始まった。3年前の3月もこの調子で店を訪れた吉田とその客らは想像を絶する過酷な困難に直面し、なかなか立ち直ることができなかった。そう東日本大震災である。この3年半をどのようにもがき葛藤をしたか、銀座にまつわる話にお付き合いください。つづく
さぁ、手をつないでわたろう。足がしずむ前に――。
しずかな暗闇のなか、眼前にあるのはただただ真っ黒な水面(みなも)だった。ここは夜の海なのか、それとも湖なのか河なのか。頭上で、ほの白く浮かぶ雲の合間には、黄色い満月がのぞいていて真っ黒な世界を照らしている。小さくゆれる水面は、大きく広げられた布のように続いていた。風は無い。黒い水面は、満月やたなびく雲の姿をうつさない。
僕の両手は隣の人間とつないでいる。頭の輪郭は見えるが表情は暗闇のなかだった。肩のむこうに数えきれない人間の並んでいるのが見える。手をつなぐ人たちはどこまでも続いている。不思議にも何億という人間が水を押しすすむ足の音は、一人のそれのようにして小さい。静寂のなかの行進だった。
すねで水を押す。ゆれる水がズボンのすそをつかみ、重い。
はだしの足がもつれる。もつれた足を水のなかの砂がつかんで引きずり込む。左の人間が僕の腕を引っぱり上げた。
おさえた声で云う。
「止まるのではない。遅れるのではない」
黄色い満月は、見たことのない表情を見せていた。ごつごつとしていて、ひどくただれているようにも見える。偽者の満月だ。
――これが三途の川だろうか。
冗談にも思ってみる。しかし不安はぬぐえず訊いてみる。
「どこへむかっているのですか」
「手をつないでいれば大丈夫だろう。皆が同じところへ行くのだ。大丈夫だろう」
それではわからない。再度訊く。
「大丈夫だろう。大丈夫だろう」
左右どちらに訊いてもおなじ答えだった。
足は止まらない――。
水は重く、からだの動きにより小さく波立つ。どんなにうごかしても砂が足をつかみはなさない。墨汁のような水面があがってくる。水につかるからだの割合が大きくなり、底をつかむ足の感覚があいまいになってくる。水面を腹で押していたのがいつしか胸となり、いまは頬を波がなでる。視界いっぱいに水が押し寄せてくる。
隣の人間と手をつないでいる感覚はあるのだが、どこをさまよっているのか。いまはもう、ひたすらにこいでみても、はだしの足は何をつかむ感覚も得ない。冷たい水が毛根をひたす。大丈夫なのかとたずねたいがもう訊けない。先までつかった髪の毛が水中にゆれてただよっている。どの位もぐってしまったのだろう。目をひらいても光無く底も見えない。みんな同じところにいるはずなのだが感じるこれは孤独だろう。ブクブクと沈んでいく。……