第144期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 少し濃い夜 志島洲 923
2 夢は窓にと ララバイ・グッドバイ 702
3 幼馴染 鈴崎幽吏 988
4 白地 岩西 健治 933
5 一億本目の棒を あさぎいろ 485
6 台風の喜多 なゆら 740
7 緑の腕 Y.田中 崖 1000
8 無人島 池田 瑛 997
9 霞の美人画 吉川楡井 1000
10 哀れな祈り スナヲ 1000
11 あっ 白熊 1000
12 未発表原稿 qbc 1000
13 俳句仙人 ロロ=キタカ 708

#1

少し濃い夜

 彼は、地元の電鉄会社に就職してしまった。大都市トウキョウからは遠く離れた地元の、ほとんどが不採算路線ではないかと思われる、電鉄会社。そこの社員として、今頃研修でいろいろな部署を回っているであろう彼を想像すると、目の前にある安っぽい発泡酒の缶の輪郭が少しぼやけた。
 とるに足らないひとだった。そう思いなして、空になった発泡酒の缶をペコリと潰した。その間抜けな音に無性に腹が立ったので、ビーチサンダルを引っ掛けて玄関のドアを開けると、外は思いのほか明るくて、今何時だっけ、と部屋の中の時計を確認する。17時52分という表示を見るや否や、私は財布と部屋の鍵を持って家を出た。行けるところまで、行こう。
 西に向かう電車に乗って、私は彼のことを思い出していた。中、高、大とバスケットボールをやっていて、洋画が好きで、高校生の時の彼女で童貞を喪失した、彼のことを。西に進むにつれて日が暮れて、感傷が押し寄せてきた。あまりに大量に押し寄せてくる感傷に手が負えなくなり、涙が溢れてきた。電車という公の空間で、いい大人がボロボロと涙を流しているので、周りの乗客はぎょっとして私を見ている。しかし、涙は止まらない。
 結局私はずるいやつなのだ。「行けるところまで行こう」なんて正気を失ったふりをすることで、今でも彼のことがこんなにも好きなんだとアピールをしているのだ。いかにも錯乱したように部屋着のまま家を飛び出して、電車に乗って、めそめそと泣いている自分に酔っているのだ。だいいち、衝動的に家を飛び出す、というときに、家の鍵を閉めることなんて思いつかないだろう。私は、ちまちまと鍵を閉めてから「衝動的に」家を飛び出した自分の間抜けな姿を想像して苦笑し、次の駅で降りようと思った。座席を離れてドアの傍に立つと、情けない顔をした自分がガラスに映っていて、それをじっと見ていた。
 駅に着き、電車を降りると目の前にあったベンチに座った。どうやらこの駅が終点だったらしく、乗客はみんな降りて行った。日はすっかり暮れて、ホームの照明がこうこうと私だけを照らしている。そして、不意にああ、ビールが飲みたい、と思った。大都市からすこし離れた終着駅の夜は、色が少し濃くて、息苦しい。


#2

夢は窓にと

少しだけ悲しくなって、史は涙をこぼした。
父親を介護のあとに見送って、兄は都会にと帰っていった。
両親は史が高校の時に離婚をして、母には別の家庭がある。
子供も生まれた。
父がローンで建てた家は、サラリーマンにしてみれば、ちょっぴり贅沢。
父の生命保険がおりれば、ローンの残りは返せるだろう。
兄は既婚者で、子供もいる。
史は、ぼんやりと戸棚のティーカップを、テーブルに並べた。
四つ、揃ったカップとソーサー。
その一つに沸かした紅茶を、静かに注いだ。
胸の奥にも赤茶色の景色が、ゆるゆると拡がった。
彼女の孤独に、誰も色を着けてはいけない。
それは、彼女のすべき事なのだから。
何も絶望をしなければならない程、不幸なことではない。
だが元気づけるための言葉が、皮肉に響くこともある。
当面の間、彼女は恋をしないことだろう。
派遣の仕事を、続けていくだろう。
出逢いは求めるものにしか、現れぬとも限るまい。
史の前には、道が百八十度にと拡がっている。
希望を持つことを、責めるようなやつもいまい。
しかし彼女は今、胸のうちを吹き抜けていく、淋しさに身を委ねたいと思っている。
四辺にカップと皿が並んだ、その景色は、それにふさわしい。
この家の、この部屋には、かつて笑い声があふれていた。
夢とか希望だとか、そんな言葉で語られる感情が、部屋の空気を彩っていた。
幻想なんかでは、ない。
本当にあった、そんな時間。
時計の針は人の指で戻せるが、時間は止まることさえ知らない。
史には、すべてが愛おしく思えて、仕方がなかった。
二度と戻っては来ない、そんな時間だから。
かつて存在した、一つの家族の終焉を悼むように、史は静かに紅茶のカップを皿に戻した。
明日の音がした。


#3

幼馴染


恋人が出来た
幼馴染のアイツは身を引いて、俺と関わり合うことはしなくなった

それなのに、

彼女である明海と歩く帰り道、アイツは後をつけて来ているようだ
帰ったらガツンと言ってやる。そう、心に決めた

「明海、本当にここでいいの」
「いいのいいの、大丈夫よ。有難う晃穂くん。また明日ね」

今日のデートは、明海のリクエストでドーナツ屋だった
口の中が甘ったるい

「星七」
「あ、……」

デートの余韻に浸りながらも、呼びかけてやれば震えた声の幼馴染
バツが悪そうな顔をして、そろそろと電柱の陰から姿を現した

「お前な、」
「ごっ、ごめん」

泣きそうな顔をして、頭を下げた星七は、そのまま俺の話もろくに聞かず、逃げるようにして帰って行った

「むかつく……」

高校生男子の俺は、星七が何故泣きそうだったかなんてわからなかった
考えようともしなかった
星七はあの時、既に無くしていたんだ
心のよりどころだった、大切な人を


星七は昔から寂しがりだった
その癖人見知りで、友達なんて俺一人しかいなかった
だから、俺の姿が見えなくなる度に大泣きして、俺はそれが楽しくて意地悪してた

そんな星七が、本当にべったりで、大好きなんだって目で見てわかる程だった相手が、星七のおばあちゃん
星七に連れられて、良く家に行ってスイカやらお菓子やら食わせてもらったっけ

「懐かしいなあ」

優しい星七のおばあちゃんは、もうこの世にいないらしいと、たった今聞かされた
亡くなってから二ヶ月ほど経っていた
星七は二ヶ月の間ずっと一人で寂しさに耐えていたんだ
彼女が出来て、浮かれてた俺を陰から見詰めて、話そう話そうとしてて、一週間前のあの日、ついに見つかった
怒られそうになって、泣いたんだ

「ごめんな、星七」

俺は一人、自分の部屋で己の行動を後悔して、恥じた


「星七」
「あきっ、ほ……」

一週間前の一件以来、まともに口を利かなかった俺から声をかけられて、星七はわかりやすくどもった
ちょっと話そうと、放課後に八百屋に連れてった
スイカを買って、公園で食べた

「大丈夫か」

俺が一言そういうと、星七は壊れたように泣き出した

「おばあちゃん、が、あああ」
「うん」

わんわん大泣きして、帰る頃にはもう真っ暗
星七のお母さんが目を腫らした星七を見て、安心したように笑った

「有難う晃穂くん。二ヶ月間、全然泣けなかったの。この子」

星七の頭を撫でながら、俺を見てそんなことをいうものだから、俺までじんわりと涙が出た


#4

白地

 新しい地図にもデリート地帯は描きこまれていた。
 愛知県の某市、家康の住む町を上下に挟んで上部町から下部町に渡る一帯、一万分の一の縮尺でおよそ一センチ幅に白く無地が描かれている。長さは十センチ程である。はじめは印刷ミスかと思ったが、左下の凡例欄に『※白地部分はデリート地帯です』と記載されていたことから、印刷ミスではなく意図的に描かれているものであることを知った。
 タブレットに映し出された地図(折りたたみ式の紙地図とは違う出版社)でもデリート地帯が表示されることを確認する。画面をタッチして白地部分をほぼ最大に拡大したところでブラックが静かに運ばれる。もちろん家康は喫茶店にいる。ブラックのブラウンな気泡がスプンに粘ついて渦を巻く。ブラックの表面には少しオイルが浮いている。拡大した白地の端には季節外れの蚊が舞っている。白地のように均一な視界で顕著になる飛蚊症を家康はあまり気にしてはいない。
「あかん、止まった。再起動サイキドウ」
「はずれ引いたんだわ」
「何でぇ、去年買ったばっかだがね」
 などと、やり取る。友人ビーとである。
 おそるおそる口へと運んだブラックの、想像ほどではなかった熱量に家康の鼓動が奈落に落ちた感覚のように和らぐ。
「でもここって、俺たちの町じゃね」
 再起動させたタブレットを見た家康が、白地をまた拡大して呟いた。
「最新版だからだよ。だからこの町もデリートされたの。広報見とらんのかよ?」
 紙地図をたたみながら、友人ビーが言う。
「なんか当たり前みたいな言い方」
「当たり前だろ。二〇二〇年の国会法案で橋下式デリート法が施行されたから、借金まみれの赤字地区は一旦白地にデリートって。そんなことも知らんのかよ」
「でも、まだ住んでんじゃん。人」
「予測シュミだよ」
「ヨソク趣味?」
「不可思議のシュミレーション。スパコンでしょうが」
「だって家族は? そこに住んでた人たちはどうなるのよ?」
「大丈夫だって。オレだって逃げ遅れて三回デリートされたけど全然何ともないし」
 井の頭三時五十五分にそっくりになっていた友人ビーの顔に家康は別段違和感を感じてはいなかった。
 店内には友人ビーと似た顔が三人もいる。家康が彼らがデリート地区からの移動者だと知るのはまだ先である。


#5

一億本目の棒を

 またひとつ話が終わった。丁度その時、砂時計の最後の砂が落ちるところだった。私は砂時計をひっくり返す。もう十分経ったのか。
 彼女は咽渇いたね、と言った。私はそれを水を汲んでくれという事だと思い床の水溜まりから水を掬い、ご丁寧にストローまでさして彼女の前に置いた。私は彼女にお礼を言われながらそういえばもう3時間近く休憩していないことに気がついた。話が止まらないのだ。
そもそも、彼女はなぜ私の話しについてこれるのだろう。私は世界で67番目に頭が良いけど彼女はそんな私の話に困惑することなく正しい相槌をうってくれる。まあ、私もいちいち説明するよりは理解してくれていた方がありがたい。
 あ、そんなことよりも棒を付け足さなくては。大切なことだ。
これがないと何回話したのか分かりにくい。確か今ので99,999,999本目だ。話のネタは尽きない。だけどさすがに少し疲れて来た。

けれど私は話を止めてはいけない。彼女を退屈させてはいけないのだ。
 それが彼女から全てを奪った私の罪滅ぼしなのだから。


  ごめんねと言うと彼女は、机の上に置かれた顔を少しだけ曇らせて、また諦めたように、笑う。


#6

台風の喜多

まあ、座れや。と婆は言った。
顔も見ずに無愛想なことだ、と台風は感じた。
もっともこちとら無愛想には慣れている、まだいい方だ。向かう先々で罵られ、忌み嫌われることがほとんどだ。家に入れてもらったのが、奇跡なのだ。
台風も台風で、ヒールに徹するつもり。どうせ歓迎されることはない。時々まだ世の中を知らない無邪気な子どもが台風をみてはしゃぎ回るが、彼らは台風を歓迎しているわけでなく、それに伴う非日常に心を踊らせているにすぎない。一部の乱暴者を除きそばの大人がため息を何度かつけばじきに大人しくなる。

婆は囲炉裏の向こうに座った。
自分はここに座ればよいのか、作法など知らない。
ぼんやり待っていたら婆は座れと言う。素直に従った。はぜる、囲炉裏の火は小さいが、熱い。少し上、鍋がくつくつと煮えている。これを自分に注いでくれるのか、旨そうな匂いは立ち上っている。腹は空かしてきた。台風から誘ったわけではない。婆の提案に乗っただけだ。軽率だったかもしれない。すきま風が止んだ。

婆と自らを卑下している女だけあり、卑屈が瞳に宿っている。
今日はじめて目があい、台風はあらためて感じた。
なにも言わず椀に汁を注ぎ、差し出してくる。受け取り一口啜る。喉が焼ける。なんという、なんという熱さだろう、燃えたぎる、身体の芯の欲望の火種に火がともされる。反応を楽しむように婆はけけけと笑う。精のつく薬がたんと入っとるよ、好色な声色が響く。全身が熱くなっている、欲望はすでにごうごうと燃え上がり、あとは、なし崩しを待つのみ。

熱い、この熱さのもとはなんだ、台風は立ち上がり婆ににじりよる。
まるで熱帯、俺は熱帯になったのだ、ぼうぼうと燃え盛るまま、台風は熱帯低気圧として婆を包み込み、あれよあれよ、くるくるとほどける帯よさらば


#7

緑の腕

 幼い頃から姉の腕が好きだった。ピアノを弾く時が特に美しい。開いたり閉じたりして鍵盤を叩く十本の指、手首から肘の柔らかな動きに私は見入った。姉の体が時に激しく時に繊細に、流れ、うねり、跳ねる。そうして生まれる音色に夢中になった。
 姉は今、病気で部屋から出ることができない。そう父に聞いた。時々思い出したようにピアノが鳴る。

 ある晩、私は父と言い争った。父は姉をいない扱いする癖に、私にはもっと外に出ろ、しっかりしろと言う。そのことを指摘すると父は悲しげに俯いた。まるで私が悪いみたいだった。
 逃げるように自分の部屋に戻り、ベッドに倒れこむ。隣の部屋に目をやる。姉の姿が、壁越しに透けて見えるような気がした。
 廊下を進む足音が聞こえる。父が姉の食事を運んでいるのだ。お盆を置いて引き返し、階段を下りていく。しばらくして、かちゃりとノブが回る音、かさかさ何かが擦れる音。
 体を起こして部屋を出る。隣のドアの隙間から、痩せ細った腕が伸びてお盆を掴んでいた。私に気づいたのか、ぱっと手を引っこめる。
 お姉ちゃん。
 閉じかけたドアを力ずくで押し開け、私は息を飲んだ。
 室内は床から天井まで緑で埋め尽くされていた。何本もの茎が絡み合い葉が茂って壁を作っている。
 目の前の床をずるずる這うものがある。腕だ。その先に姉の体はなく、代わりに長い蔦が繋がっていた。引っ張られるようにして茂みに吸い込まれる。
 私は叫んで緑の塊に掴みかかった。喚き散らし、手当たり次第に引きちぎって進む。何本もの茎をかき分けると、緑の間に人の肌が覗いた。腕が埋もれている。
 見つけた。返せ、お姉ちゃんの腕。
 手首を引っ張ると、腕は肘の辺りでぶつりと切れた。腕の断面にはびっしり根が張っており、隙間から血が滲み出した。気づけば私の掌は赤く濡れ、ちぎれた葉や茎からもどくどくと出血している。
 背後から、私と姉を呼ぶ声が聞こえた。父が真っ青な顔をして立っている。なんてことを、と呟いて私を抱え、姉の体内から引きずり出す。私は、床の上にどす黒い血溜りが広がっていくのを茫然と見ていた。

 朝だった。やけに頭が重い。おぼつかない足取りで洗面所へ向かう。顔を洗っていると、何かが掌をちくりと刺した。鏡を覗きこむ。目を見開いてひきつった私の顔、その頬には瑞々しい緑色の芽が生えていた。
 ぽーん、とピアノの音が響く。姉の部屋で、昨日見た腕が鍵盤を叩いている。


#8

無人島

 朝目覚めると箱の中にいた。その箱の中から出ると、そこは無人島だった。平坦な地形、島全体が白い砂浜。コンパスで描いたような小さな円形の島。その島の中心には、最初に僕が箱だと思った、港にあるようなコンテナが不自然に置いてあり、その横には何かの悪い冗談のように椰子の木が生えていた。
 僕は、打ち寄せる波を避けながら浜辺を歩き、島を一周した。2分もかからなかった。水平線しか見えないことなぁという感想を抱きながら、僕はとりあえずネクタイを外した。そして、革靴についた砂を払った。
 鞄は何処にあるという疑問が頭を過ぎった。鞄には取引先から徴取した最新の月次売上が入っていた。紛失したら始末書を書かねばならない。慌ててコンテナの中に戻った。鞄はあった。資料もあったし、家の鍵もあった。社員証もあった。携帯もある、しかし圏外だった。
 コンテナの中には、誰の物かは知らないけれど、ノートパソコンが落ちていた。試しに起動してみたら動いた。何故かは知らないけれど、インターネットにも繋がった。トップページとして出てきた見知らぬ通販サイトには、タイムセールの文字と共に文庫用の本棚の画像が大きく表示されていた。990円は安いな、と馬鹿なことを考えながらクリックをしたら、「ご注文ありがとうございます。翌日配送いたします」というウインドウがパソコン画面の中央に現れた。阿呆らしいと思い、パソコンを閉じた。

 悪い夢だと思った。そして、僕は寝ることにした。ただ、コンテナの中は酷く暑かった。コンテナの壁は、夏にスーパーで買い物をした後の、駐車場に置いた車のボンネットみたいに熱かった。とりあえず、床は熱くはないので、鞄を枕にして寝そべった。

 寝耳に水という言葉が適当だろう。水の気配で僕は飛び起きた。コンテナの床が濡れていた。僕の背中も濡れていた。コンテナから飛び起きると、島は海になっていた。空を見上げると満月が僕の頭上にあった。
 コンテナの上によじ登り、僕は月を眺めながら、海水がコンテナの上にまで上がってこないことを願った。コンテナの壁にぶつかった波が、飛沫となって僕の体に落ちてくる。

 朝になり、潮が引いたので、コンテナの中に戻った。コンテナの中には、本棚が置いてあった。ご丁寧に納品書まで置いてあった。納品書には「ご新規のお客様につき、組立無料サービス」とも書いてあった。僕はそれを見て、思わず笑ってしまった。


#9

霞の美人画

 行方知らずとなった恋人を探しているうち、得体の知れぬ沼のほとりに迷い着いていた。目印にしていた幹がふと、どこかに消えている。気がつけばさっき避けた筈の蔦が、眉の上にぶらり。道かと思えば草叢で、開けたかと思えば樹々に阻まれる。そんなところだ。
 ようやく視界が定まったかと思えば、卵白のように揺蕩う沼の波がそばにあった。木立の空気は澄んでいたが、沼には霞が溶けているらしい。水の濁りが気化して辺りは白々しく鎖されてしまった。「……」名前を呼ばれた気がした。霞に埋もれて男の横顔があった。皺が目立つが、年より老けて見えるのだろう細面の男だった。「……」ざわめきに消されて聴こえる声は、対岸から届いているようで、か細い。もしや蜃気楼。
「水蒸気、野草が散らす草の汁だという人もいる。火炙りの煤だとも。どう思います」
 耳の近くで声が突然、明瞭になる。
「何の話ですか」
「この霞ですよ。目も開けちゃいられない」
 横顔がこちらを向いた。善良な表情だ。
「呼びかけて差し上げないのですか。会いに来たのでしょう」
 続けて沼の方へと男が呼びかけた名前は馴染みのない女の名前だった。
「影だという人もいれば、色だという人もいる。魂、俤、夢幻……」
「何の話ですか」
「彼女ですよ。貴方は貴方の、待ち人が映っているのではありませんか。ほら、そこに」
 見回しても濃淡のついた霞が漂うばかりで、女の姿などどこにもない。
「二年前に胸を患って亡くなりましてね。以来、ずっとこうして。泡沫を掴むようで莫迦にされますが、なんでもいいんです。たとえ影や幻だって、彼女であることに変わりありませんから」
 感化されてしまって霞が水墨の態をなし、意中の女を描いた気がした。確証のないうちに霞はまた霞に戻った。
「本当は沼に棲む龍の呼気らしいですよ。だから時折、酒の臭いがする。水を酒にする化学を彼の胃袋はもっているのです。けれど頼もしいですから、彼女のことも安心して任せられる」
 死んだ女のいる湖沼……いうなれば彼岸。ならばここで恋人を探すのも野暮だろう。彼女は生きている、はずだ。万一死んでいるとすれば、いますぐにでも霞に映り込んで……。

 酒を呷り弾みで暴力をふるったせいで、彼女とは疎遠になった。ふた月も前のことを思い返しながら、無色の霞のなかで動けずにいた。男の声は途絶えた。横顔も消えた。
 霞の向こうから嘆くように吼えるように、水の音が響いてくる。


#10

哀れな祈り

 小学生の息子が死んだ。横断歩道を渡り始めたところで、お情け程度の減速で左折してきた車にはね飛ばされた。運転手はその時携帯電話を使っていて、塀の陰に隠れていた子供に気づくのが遅れたという。ありふれているようで、でも身近にはきっと起こらないだろうと誰もが何となく信じている、そんな事故で一人息子は死んだ。
 小柄な息子は、焼かれてもっと小さくなった。拾骨の時私は何度も骨を掴み損ねて、最後は左手で右腕を握り締めて骨を拾った。一番最後の最後まで骨を拾い続けたのは妻だった。少しも残さず連れて帰ってあげるのだと、真っ赤な目をして竹箸で灰を漁り尽くした。だが妻がそこまでしてくれても、骨壺は胸を押し潰す程軽かった。
 妻は頑として納骨を拒んだ。初め眉を顰めた双方の両親が渋々ながらも折れてくれたのは、明らかに妻の情緒が不安定だったからだろう。
 薬の処方を受け、カウンセリングを受診し、夫婦二人で何度も話しあった。
 どうすればあの子にもう一度会えるか、そればかりを考えている。と妻は言った。私の不安を察したように、死にたいわけじゃないの、と泣き笑いの顔をする。あなたと、私と、あの子で、もう一度同じように生きていきたいって、それだけなの。そう言って顔を覆った。やりなおしたい。妻の涙声。
 数ヶ月後、納骨をしようと言い出したのは妻だった。正確には、お墓に、壺、入れようか、と妻は言った。妻の薬の量はもう大分減っていた。食後に飲むのが服薬ゼリーで包んだ白い粉末だけになってしばらく経った頃、納骨の日取りが決まった。
 納骨式の日、久しぶりに抱いた白い壺はやはり軽かった。胸を押し潰す程ではなく、ただ虚しく軽かった。式の帰り、妻の両親に手をとり感謝された。娘を立ち直らせてくれて、前を向かせてくれてありがとう。そう泣かれた。夕食は双方の両親ととった。妻は、食後何も飲まなかった。
 夜、妻に寝室へ手を引かれた。息子の死後初めてのことだった。押し倒した私の体の上に乗りかかる体はほっそりしていて軽いのに、私の胸を押し潰すようだ。
 やりなおしましょうと妻は柔らかく微笑む。大丈夫と頷く。あの子は私の中に全部帰ってきたから。だからこれでやりなおせるわ。自分の腹部に優しく両手を重ねて、妻はうっとりと目を閉じた。あなたと、私と、あの子で。もう一度。
 やりなおすの、と夢見る声。一緒に信じてやろうと思うのは、愛だろうか、祈りだろうか。


#11

あっ

 金曜日夜八時すぎの地下鉄。仕事のやり直しをくらって帰宅が二時間延びた男は不機嫌だった。中央駅で地下鉄を降りると私鉄の改札へと向かった。
 地下街の店舗で新しい石鹸を売り出していた。近くまでいくとその匂いがはっきりと分かった。男には匂いで思い出す女がいた。学生時代に好きだった一つ年上の女だった。
 女は大学四年の時に中国へ留学した。男は女とSNSで連絡を取り合っていた。男は女の帰国を待った。迎えに行こうと帰国の日時を訊いた。しかし、その返事はなかった。それから何年もの時が流れていた。
 地下街を抜けて私鉄の改札を通りホームへ向かった。行き交う人の中で男は一人の女に気がついた。それはさっき思い出した女だった。通り過ぎる時、男は視線を動かさなかった。男の横顔を見ていた女は男の背中に「あっ」と声を上げた。二人の周りにこの様子を見ていた者がいれば、容易に久しぶりに知り合いを見つけて声を上げた女と、それに気付かずに通り去っていく男の関係を、見て取れたことだろう。
 男はホームに来た電車に乗り込んだ。夜の車窓で女に見られた自分の姿を確認した。もしかしてメッセージを送ってきてないかと、久しく使っていないSNSをスマホで開いてみた。しかし、何も来てはいなかった。
 あの時は男のメッセージに女が返事をしなかった。男はずっと無視されている立場だった。今日それまでの立場が入れ替わった。声をかけて無視されているのは女のほうになった。これで男は女を無視している立場を得た。相手に渡せたのは無視のバトンだった。もしまた女が男を見つけて声をかけても、それに男が応じなければ、一生この立場は入れ替わらない。今日の仕事のこともあって男は嬉しさを覚えていた。
 男は帰宅するとそのまま風呂に入った。湯船の中で思い出していた。女は声をかけてどうするつもりだったのだろう。しばらく考えていたが、あそこで女に返事をしたとしても、自分がしただろう行動は、アでも、ハでもない、鼻から息の抜いた音を吐いて、あからさまに気のない様子で「久しぶり」と答えるだけだ。あの後の展開はなかったのだ。展開はないのだから、やはり展開のないにも関わらず、行動した女が悪かった。男は自分の正しさを感じた。
 久しぶりに思い出された恋は、展開のないまま一抹の虚しさと共に終わった。風呂の窓からは中秋の月が見えた。男は自分の正しさを共有できる相手が欲しいと思った。


#12

未発表原稿

(この作品は削除されました)


#13

俳句仙人

私は俳句仙人の驚異的な記憶力に驚いた
「私の記憶力を見よ」
名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉 「孤松」
名月や北国日和定めなき    芭蕉 「奥の細道」
命こそ芋種よ又今日の月 芭蕉 「千宜理記」
たんだすめ住めば都ぞけふの月 芭蕉 「続山の井」
木をきりて本口みるやけふの月 芭蕉 「江戸通り町」
蒼海の浪酒臭しけふの月 芭蕉 「坂東太郎」
盃にみつの名をのむこよひ哉 芭蕉 「真蹟集覧」
名月の見所問ん旅寝せん  芭蕉 「荊口句帳」
三井寺の門たゝかばやけふの月 芭蕉 「酉の雲」
名月はふたつ過ても瀬田の月 芭蕉 「酉の雲」
名月や海にむかかへば七小町 芭蕉 「初蝉」
明月や座にうつくしき顔もなし 芭蕉 「初蝉」
名月や兒(ちご)立ち並ぶ堂の縁 芭蕉 「初蝉」
名月に麓の霧や田のくもり 芭蕉 「続猿蓑」
明月の出るや五十一ヶ条 芭蕉 「庭竈集」
名月の花かと見えて棉畠 芭蕉 「続猿蓑」
名月や門に指しくる潮頭 芭蕉 「三日月日記」
名月の夜やおもおもと茶臼山 芭蕉 「射水川」
名月や海もおもはず山も見ず   去来 「あら野」
名月や畳の上に松の影 其角 「雑談集」
むら雲や今宵の月を乗せていく  凡兆 「荒小田」
名月や柳の枝を空へふく     嵐雪 「俳諧古選」
名月やうさぎのわたる諏訪の海  蕪村 「蕪村句集」
山里は汁の中迄名月ぞ  一茶 「七番日記」
名月をとつてくれろと泣く子かな  一茶 「成美評句稿」
名月や故郷遠き影法師   夏目漱石 「漱石全集」
望の月呑みたる真鯉包丁す 長谷川櫂 「初雁」
 
 私は俳句仙人の驚異的な記憶力に夜も眠れなくなり秋の夜長を満喫する事が出来た。


編集: 短編