第147期 #9

チユミ

 独裁者の行為よりも醜いものだとまだ知らなかった健二にとっては、ゲームなどの感覚と似て、垢で汚れたスカートの下からのびる薄茶色のチユミの足を傍観者としてただ見ているだけであった。いじめや差別といった概念は当時の健二にはなかった。単純なのである。みんながするから健二もそうしたのである。そこに悪などなかった。みんながチユミを無視するから健二もそうするのであった。
 夏休みの前日、雰囲気は既に授業どころではなかった。いよいよこれは雨だなと思わせる熱気のこもったうす暗い風が、午後の教室の開け放った窓から入ってきて、健二の前のチユミの髪を薄くなでていく。たれこめた雲が教室のすぐ近くまで迫っていた。彼方に見える雲の隙間からは日の光が輝いて降り注ぎ、その光がよりいっそう雲の陰を濃いものとしている。教室から見えるその景色は、あぁ、これが地球最後の日か、と思わせる荘厳さで健二の前に迫る。健二はその景色を純粋にきれいだと思い、将来、宇宙船の設計士になることをノートの端に書きとめた。一瞬間、アスファルトが濡れたかと思ったら、次の瞬間には既にアスファルトに乾いた部分がないほどの大粒の雨。生温い風とアスファルトが水分を吸って発する匂いとが、教室のおかずとほこり臭い匂いを洗い流して、それが少し健二の眠気を覚ましもした。
 傍観者だったあのころの健二にいったい何ができたというのだろうか。給食の牛乳がチユミのヒゲに白く残るものだから。すすけた色の……、チユミの持っているすべてのものが健二にはすすけた色に見えた。いや、色といえるものではない。その色は無彩色に近いのである。ただ、そういったチユミに少なからず優しい言葉などかけられようものなら、穏やかだった健二でも少しは苛立って、何で声なんてかけるんや、とその報われない優しさを汲み取ってやることさえもできない。だからといって暴言などをチユミに対して吐散らすタチでもない健二は、さんざん困った表情で無言のまま突っ立っているのが精一杯なのである。

 久しぶりに聞いた彼女の名前はテレビの中であった。一級建築士となった健二と年齢は一致している。いや、ただ単に同姓同名なのかも知れないし、旧姓だとも考えにくい。そうだ、虐待死の子の親は健二の知っているチユミだとは限らないではないか。



Copyright © 2014 岩西 健治 / 編集: 短編