第147期 #14

雪と夜のタブロー

 肌寒い夜が続くと、人肌が恋しくなる。

 白くにごった溜め息が目先に霞んで、煙草をつまんだ指先も見えない鎖で縛りつけられた。アスファルトの影もない足許にはまだ踏み荒らされていない雪の道が続いている。さながら無地のキャンバスに靴底の模様を刻みつけるのも、今夜ばかりの特権だ。国道から離れた夜更けの散歩道に静寂は歪みもなく、ただぼんやり燈る街灯の明るさだけが行く先を照らしている。

 あれ、今なにか通ったね。

 傍らの彼女に云われ足許から目を反らすと、丁字路の真ん中に照明の輪っかだけが浮き上がっていて、少しばかしの粉雪がそのなかにちらついていた。
 気のせいかな。
「だと思うよ」僕はそう独りごちるのだ。

 永く佇んでいられるほど寒さに頑丈ではない僕は、ふたたび雪道に目を落とし歩き出した。彼女と初めて手を握ったとき、その場所もこの道だった。二年前だろうか。あの日も今夜のように雪が積もっていて、かじかんだ互いの指は、温もった手のひらには却って邪魔な気もしたけれど、一度触れあった指はなかなか離れようとしなかった。
 彼女は僕のアパートへ至る道筋をすぐに覚えた。行きつ戻りつの繰り返しはじきに回数が減り、彼女がひとりでこの道を通ってくることも少なくなった。彼女の傍らには僕がいて、僕の傍らにはいつも彼女がいる。それが当たり前になった冬は、今年で二度目を迎えるはずだった。

 丁字路が間近に迫ると急に立ち竦んで、ここまでだと悟る。あと数十メートルでアパートに着くというのに、彼女はそれ以上進めなくなる。丸い光の輪のなかで乱れ降る粉雪の影が、雪道に黒く映し出されるのを眺めつつ、次第に僕は傍らの面影が霞んでいくのを感じとるのだ。
 彼女の足許、不時着する綿雪のシルエットが色濃く鮮やかに映し出されている。僕の影が街灯を遮れば、幾片の雪は闇に吸い込まれてしまうというのに。

 気のせいだったみたい。
 彼女は云う。気のせいじゃないよと云いたいのだけど、凍えた唇では笑みを作るのが精一杯で、僕は電信柱の足許の、色めき立つ硝子の花瓶を見下ろしながら彼女のことを思うのだ。
 まるで雪道に刻んだ足跡のように、誰も今では事故のことなど思い返しはしないのだけれど僕の心には残っている。

 けれども時の淡雪はそれすら隠してしまうのだろうか。
 声は消え、深々と降る雪の速度が感じやすくなる。
 彼女が立っていた僕の傍らには、足跡ひとつ残ってはいない。



Copyright © 2014 吉川楡井 / 編集: 短編