第145期 #8

「コピー五〇部ね」
「はい了解」
 ガーガー。旧型コピー機の音。安らぐ。
 そのとき気づいた。あたし奴隷だ。上司の奴隷。上司の命令は部下であるあたしにとっては絶対。だから奴隷。そうか。奴隷か。奇妙。だけど納得がいく。気分が良かった。

 週末。居酒屋で大学の同窓のTちゃんに奴隷の話をした。
「慧眼だね」
「え。そうかな」
 照れる。なにしろTちゃんは良い家庭に育ち良い会社に入った世間を軽やかに渡りあるく華やかでそのうえ話も愉快な人生の全面的成功者さんだからだ。引き換えあたしはあまりにも普通。死への平板な一車線を軽自動車で法定速度を守りながら走行している。
 Tちゃんがあたしに訊ねた。
「今日まだ時間ある?」
 ある。Tちゃんはあたしを居酒屋から連れだした。夜の闇のはらわたのような路地裏の隅に鎮座する長方形の金属製の扉の前にTちゃんとあたしは立っていた。バー。蒲鉾大の看板に「ファクトリイ」。

 月曜日。
「コピー一〇〇部」
「はい了解」
 ガー。プシュプシュ。ガーガー。旧型コピー機から吐きだされた紙を取りあげる。あたしはヴェレダで買ったアロマスプレーを中に噴霧する。その香りの空間に紙をぴらぴらと踊らせる。紙に直接に噴霧すると香りが強すぎる。こうしてほんのりと紙を匂わせる。
 あたしは一〇〇部すべてに香りをつけて上司に手渡す。紙をめくるたびに芳しさが上司の鼻腔をすがすがしく洗うだろう。
 これは週末の晩に「ファクトリイ」で授けられた秘儀だった。

「奴隷の自覚があるのならなぜ奴隷らしくふるまわない」
 あたしは奴隷調教バー「ファクトリイ」で主に叱られた。
「今日の奴隷の献身が明日のご主人様の成功を助けるのだ」
「ファクトリイ」の偉い人が言う通りだった。あたしは今まで自分の上司を馬鹿にしていた。乾燥肌の頬に撫で肩のあたしの上司は忘れられた浅黄色の古新聞。どうせならTちゃんのような準貴種が良かった。でもそれ違う。Tちゃんが自分も奴隷だと告白してくれた。誰かの奴隷でいるからこそ自分を成長させられるのよ、と。
「身近なご主人様を喜ばせることができない者がどうしてまだ見ぬより良い上司を喜ばせられようか」
 その通りだった。

 帰り道。Tちゃんが教えてくれた。
「『ー』じゃだめよ『イ』」
「トリーじゃなくてトリイ」
「そう」
「ファクトリイファクトリイ」
 あたしは口の中で何度も新しい言葉を弾ませた。楽しい。心が反動で押しひろげられてゆく。



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