第145期 #6

ラダー、左の二の腕

 張本人にとっては大それた決意なのかもしれないが、事実さしたる価値などありはしないのだ。周囲にとってはいい迷惑で、悲壮よりも厄介なものが遺ることもある。

 弟は昔から私のすそを握って離さないような子どもで、ままに成長したような繊細さゆえか、人間関係をこじらせ退職してしまった。
 直後は解放された気分だったろう。何度か笑顔をみせた。しかし一度ほつれてしまった人生は、しっかり指をそわせてやらなければさらにダメになっていく。弟は恋人に仕事のことを言い出せなかった。
 明かせば済むようなものの、代わりに死への願望を口に出すようになったのは恋人が訝しく思い始めた頃からだった。

 局員が三人きりいない小さな郵便局を曲がって、手入れの放棄された生垣をつたっていくと、鹿の頭部の剥製が鎮座するバルコニーが見えてくる。とうに操るもののいなくなったブランコには襤褸になったタオルケットがかけられ、隠れたマホガニーの板にはイニシャルが彫りつけてあった。
「死なんてものは、鹿とチェリーみたいなものですよ」
 萎びて色が抜けたエンドウ豆のような顔の家主は、軋むソファーに私を座らせて語りだした。
 後で調べてわかったことだが、『ほら吹き男爵の冒険』の作中に、チェリーの木を頭に生やした鹿と森で出くわす話があるらしい。譬え話はさておき、家主はくたびれたシャツを脱いだ。左の二の腕には異形な階段状の襞ができていた。
「苦痛を受けずに死にたいという若者が多い。貴方にはお話ししましょう。私は、心の底から彼らを蔑んでいるんですよ」
 記者という職業を名目に、遠路遥々来たことを口実に、この面会はゆるされた。撮影こそ断られたが、私はこの目で見た。
 皮と骨ばかりの階段を、親指ほどに縮んだ自殺志願者たちの魂がゆっくりとのぼっていくのを。半透明のそれは、ひょいと襟元を飛び越えて家主の耳のなかに入っていった。
「うるさいんだよねぇ。毎朝、毎晩、頭のなかで彼ら、パーティーしてるんですよ。やかましいったらない」

 次の月、再訪した。
 生垣の先に家はなく、どうやら前回から間もなくに、首をくくった家主を客が発見したという。
 左肩目当ての客のその後までは知る由もないが、軽くめまいを起こして帰郷した私の左肩は、翌朝、蛇腹のように波打っていた。これがくっきりと成型されたとき、私は思い出して憎むのか、悔やむのか。
 弟と、どんちゃん騒ぎをする幾千もの魂のことを。



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