第145期 #14

皆既月食を終えた夜

 さぁ、手をつないでわたろう。足がしずむ前に――。

 しずかな暗闇のなか、眼前にあるのはただただ真っ黒な水面(みなも)だった。ここは夜の海なのか、それとも湖なのか河なのか。頭上で、ほの白く浮かぶ雲の合間には、黄色い満月がのぞいていて真っ黒な世界を照らしている。小さくゆれる水面は、大きく広げられた布のように続いていた。風は無い。黒い水面は、満月やたなびく雲の姿をうつさない。
 僕の両手は隣の人間とつないでいる。頭の輪郭は見えるが表情は暗闇のなかだった。肩のむこうに数えきれない人間の並んでいるのが見える。手をつなぐ人たちはどこまでも続いている。不思議にも何億という人間が水を押しすすむ足の音は、一人のそれのようにして小さい。静寂のなかの行進だった。

 すねで水を押す。ゆれる水がズボンのすそをつかみ、重い。
 はだしの足がもつれる。もつれた足を水のなかの砂がつかんで引きずり込む。左の人間が僕の腕を引っぱり上げた。
 おさえた声で云う。
「止まるのではない。遅れるのではない」
 黄色い満月は、見たことのない表情を見せていた。ごつごつとしていて、ひどくただれているようにも見える。偽者の満月だ。

 ――これが三途の川だろうか。

 冗談にも思ってみる。しかし不安はぬぐえず訊いてみる。
「どこへむかっているのですか」
「手をつないでいれば大丈夫だろう。皆が同じところへ行くのだ。大丈夫だろう」
 それではわからない。再度訊く。
「大丈夫だろう。大丈夫だろう」
 左右どちらに訊いてもおなじ答えだった。



 足は止まらない――。


 水は重く、からだの動きにより小さく波立つ。どんなにうごかしても砂が足をつかみはなさない。墨汁のような水面があがってくる。水につかるからだの割合が大きくなり、底をつかむ足の感覚があいまいになってくる。水面を腹で押していたのがいつしか胸となり、いまは頬を波がなでる。視界いっぱいに水が押し寄せてくる。
 隣の人間と手をつないでいる感覚はあるのだが、どこをさまよっているのか。いまはもう、ひたすらにこいでみても、はだしの足は何をつかむ感覚も得ない。冷たい水が毛根をひたす。大丈夫なのかとたずねたいがもう訊けない。先までつかった髪の毛が水中にゆれてただよっている。どの位もぐってしまったのだろう。目をひらいても光無く底も見えない。みんな同じところにいるはずなのだが感じるこれは孤独だろう。ブクブクと沈んでいく。……



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