第144期 #2
少しだけ悲しくなって、史は涙をこぼした。
父親を介護のあとに見送って、兄は都会にと帰っていった。
両親は史が高校の時に離婚をして、母には別の家庭がある。
子供も生まれた。
父がローンで建てた家は、サラリーマンにしてみれば、ちょっぴり贅沢。
父の生命保険がおりれば、ローンの残りは返せるだろう。
兄は既婚者で、子供もいる。
史は、ぼんやりと戸棚のティーカップを、テーブルに並べた。
四つ、揃ったカップとソーサー。
その一つに沸かした紅茶を、静かに注いだ。
胸の奥にも赤茶色の景色が、ゆるゆると拡がった。
彼女の孤独に、誰も色を着けてはいけない。
それは、彼女のすべき事なのだから。
何も絶望をしなければならない程、不幸なことではない。
だが元気づけるための言葉が、皮肉に響くこともある。
当面の間、彼女は恋をしないことだろう。
派遣の仕事を、続けていくだろう。
出逢いは求めるものにしか、現れぬとも限るまい。
史の前には、道が百八十度にと拡がっている。
希望を持つことを、責めるようなやつもいまい。
しかし彼女は今、胸のうちを吹き抜けていく、淋しさに身を委ねたいと思っている。
四辺にカップと皿が並んだ、その景色は、それにふさわしい。
この家の、この部屋には、かつて笑い声があふれていた。
夢とか希望だとか、そんな言葉で語られる感情が、部屋の空気を彩っていた。
幻想なんかでは、ない。
本当にあった、そんな時間。
時計の針は人の指で戻せるが、時間は止まることさえ知らない。
史には、すべてが愛おしく思えて、仕方がなかった。
二度と戻っては来ない、そんな時間だから。
かつて存在した、一つの家族の終焉を悼むように、史は静かに紅茶のカップを皿に戻した。
明日の音がした。