第144期 #1

少し濃い夜

 彼は、地元の電鉄会社に就職してしまった。大都市トウキョウからは遠く離れた地元の、ほとんどが不採算路線ではないかと思われる、電鉄会社。そこの社員として、今頃研修でいろいろな部署を回っているであろう彼を想像すると、目の前にある安っぽい発泡酒の缶の輪郭が少しぼやけた。
 とるに足らないひとだった。そう思いなして、空になった発泡酒の缶をペコリと潰した。その間抜けな音に無性に腹が立ったので、ビーチサンダルを引っ掛けて玄関のドアを開けると、外は思いのほか明るくて、今何時だっけ、と部屋の中の時計を確認する。17時52分という表示を見るや否や、私は財布と部屋の鍵を持って家を出た。行けるところまで、行こう。
 西に向かう電車に乗って、私は彼のことを思い出していた。中、高、大とバスケットボールをやっていて、洋画が好きで、高校生の時の彼女で童貞を喪失した、彼のことを。西に進むにつれて日が暮れて、感傷が押し寄せてきた。あまりに大量に押し寄せてくる感傷に手が負えなくなり、涙が溢れてきた。電車という公の空間で、いい大人がボロボロと涙を流しているので、周りの乗客はぎょっとして私を見ている。しかし、涙は止まらない。
 結局私はずるいやつなのだ。「行けるところまで行こう」なんて正気を失ったふりをすることで、今でも彼のことがこんなにも好きなんだとアピールをしているのだ。いかにも錯乱したように部屋着のまま家を飛び出して、電車に乗って、めそめそと泣いている自分に酔っているのだ。だいいち、衝動的に家を飛び出す、というときに、家の鍵を閉めることなんて思いつかないだろう。私は、ちまちまと鍵を閉めてから「衝動的に」家を飛び出した自分の間抜けな姿を想像して苦笑し、次の駅で降りようと思った。座席を離れてドアの傍に立つと、情けない顔をした自分がガラスに映っていて、それをじっと見ていた。
 駅に着き、電車を降りると目の前にあったベンチに座った。どうやらこの駅が終点だったらしく、乗客はみんな降りて行った。日はすっかり暮れて、ホームの照明がこうこうと私だけを照らしている。そして、不意にああ、ビールが飲みたい、と思った。大都市からすこし離れた終着駅の夜は、色が少し濃くて、息苦しい。



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