第144期 #11

あっ

 金曜日夜八時すぎの地下鉄。仕事のやり直しをくらって帰宅が二時間延びた男は不機嫌だった。中央駅で地下鉄を降りると私鉄の改札へと向かった。
 地下街の店舗で新しい石鹸を売り出していた。近くまでいくとその匂いがはっきりと分かった。男には匂いで思い出す女がいた。学生時代に好きだった一つ年上の女だった。
 女は大学四年の時に中国へ留学した。男は女とSNSで連絡を取り合っていた。男は女の帰国を待った。迎えに行こうと帰国の日時を訊いた。しかし、その返事はなかった。それから何年もの時が流れていた。
 地下街を抜けて私鉄の改札を通りホームへ向かった。行き交う人の中で男は一人の女に気がついた。それはさっき思い出した女だった。通り過ぎる時、男は視線を動かさなかった。男の横顔を見ていた女は男の背中に「あっ」と声を上げた。二人の周りにこの様子を見ていた者がいれば、容易に久しぶりに知り合いを見つけて声を上げた女と、それに気付かずに通り去っていく男の関係を、見て取れたことだろう。
 男はホームに来た電車に乗り込んだ。夜の車窓で女に見られた自分の姿を確認した。もしかしてメッセージを送ってきてないかと、久しく使っていないSNSをスマホで開いてみた。しかし、何も来てはいなかった。
 あの時は男のメッセージに女が返事をしなかった。男はずっと無視されている立場だった。今日それまでの立場が入れ替わった。声をかけて無視されているのは女のほうになった。これで男は女を無視している立場を得た。相手に渡せたのは無視のバトンだった。もしまた女が男を見つけて声をかけても、それに男が応じなければ、一生この立場は入れ替わらない。今日の仕事のこともあって男は嬉しさを覚えていた。
 男は帰宅するとそのまま風呂に入った。湯船の中で思い出していた。女は声をかけてどうするつもりだったのだろう。しばらく考えていたが、あそこで女に返事をしたとしても、自分がしただろう行動は、アでも、ハでもない、鼻から息の抜いた音を吐いて、あからさまに気のない様子で「久しぶり」と答えるだけだ。あの後の展開はなかったのだ。展開はないのだから、やはり展開のないにも関わらず、行動した女が悪かった。男は自分の正しさを感じた。
 久しぶりに思い出された恋は、展開のないまま一抹の虚しさと共に終わった。風呂の窓からは中秋の月が見えた。男は自分の正しさを共有できる相手が欲しいと思った。



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