第144期 #10

哀れな祈り

 小学生の息子が死んだ。横断歩道を渡り始めたところで、お情け程度の減速で左折してきた車にはね飛ばされた。運転手はその時携帯電話を使っていて、塀の陰に隠れていた子供に気づくのが遅れたという。ありふれているようで、でも身近にはきっと起こらないだろうと誰もが何となく信じている、そんな事故で一人息子は死んだ。
 小柄な息子は、焼かれてもっと小さくなった。拾骨の時私は何度も骨を掴み損ねて、最後は左手で右腕を握り締めて骨を拾った。一番最後の最後まで骨を拾い続けたのは妻だった。少しも残さず連れて帰ってあげるのだと、真っ赤な目をして竹箸で灰を漁り尽くした。だが妻がそこまでしてくれても、骨壺は胸を押し潰す程軽かった。
 妻は頑として納骨を拒んだ。初め眉を顰めた双方の両親が渋々ながらも折れてくれたのは、明らかに妻の情緒が不安定だったからだろう。
 薬の処方を受け、カウンセリングを受診し、夫婦二人で何度も話しあった。
 どうすればあの子にもう一度会えるか、そればかりを考えている。と妻は言った。私の不安を察したように、死にたいわけじゃないの、と泣き笑いの顔をする。あなたと、私と、あの子で、もう一度同じように生きていきたいって、それだけなの。そう言って顔を覆った。やりなおしたい。妻の涙声。
 数ヶ月後、納骨をしようと言い出したのは妻だった。正確には、お墓に、壺、入れようか、と妻は言った。妻の薬の量はもう大分減っていた。食後に飲むのが服薬ゼリーで包んだ白い粉末だけになってしばらく経った頃、納骨の日取りが決まった。
 納骨式の日、久しぶりに抱いた白い壺はやはり軽かった。胸を押し潰す程ではなく、ただ虚しく軽かった。式の帰り、妻の両親に手をとり感謝された。娘を立ち直らせてくれて、前を向かせてくれてありがとう。そう泣かれた。夕食は双方の両親ととった。妻は、食後何も飲まなかった。
 夜、妻に寝室へ手を引かれた。息子の死後初めてのことだった。押し倒した私の体の上に乗りかかる体はほっそりしていて軽いのに、私の胸を押し潰すようだ。
 やりなおしましょうと妻は柔らかく微笑む。大丈夫と頷く。あの子は私の中に全部帰ってきたから。だからこれでやりなおせるわ。自分の腹部に優しく両手を重ねて、妻はうっとりと目を閉じた。あなたと、私と、あの子で。もう一度。
 やりなおすの、と夢見る声。一緒に信じてやろうと思うのは、愛だろうか、祈りだろうか。



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