第143期 #4

りんご

 先輩が言った。
「それ」
「これですか?」
「そう。それ何?」
「りんごです」
「本当?」
「本当です」
「でも赤い」
「青りんごのほうが見かけないほうです」
「そうか。そうかもね」
「そうです」
「で、それ何だっけ?」
「りんご」
「最初からそうだと思ってた」
「食べたいんですか?」
「いや。そういうことじゃない」
 私が二六歳の時の話だ。先輩と同居していた。私が先輩の家に転がりこんだのだ。女の社会人の二人暮らし。すぐ終わると思っていたら半年間続いた。私がぐずで、引越費用がなかなか貯まらなかったからだ。先輩は文句も言わず私を泊めてくれた。先輩は人が好い。

 先輩がベッドの上で前転をしながら手を伸ばして、体を前転し終えたところでちょうど、テーブルの上のりんごを掌におさめた。
「赤いな」
「青りんごではないですからね」
「そうだな」
「そうです」
 今、私が開いていた画集はおもしろかった。先輩の本棚から見つけたものだ。先輩の本棚には時々おもしろい本があって楽しかった。
 休日の午後のできことだ。秋。
 先輩がりんごを片手の上に乗せて独り言。
 りんごがある。赤い。青くなかった。りんごだ。赤い。わあ赤い。まっ赤だ。赤。りんごの赤。りんごのような頬ぺた。頬を赤らめた女。女が持っているりんご。
 ねえ。そのりんご、取ってくれないか。
 画集から目を離して、先輩を見た。すると先輩は、前転までしてせっかく手に入れたりんごをフローリングの上に落としてしまっていた。
 ベッドの脇で三角座りをして画集を読んでいた私は、手を伸ばし、りんごを手にとった。りんごの底部に薄片がついていた。最初オブラートかと思って、次にニンニクの薄皮かと思った。
 私は人差指の爪でそれを剥がしとった。電燈にかざして見る。半透明というのは不思議だ。手で触れればちゃんとあるのに、こうして光にかざすと向こう側が透けて、薄片そのものが無いようにも見える。十ミリ四方のゆがんだ正方形の薄片。
 私は、爪の先にその薄い何かを乗せ、先輩に見せた。
「なんですかこれ」
「私の素顔」
 他人は言いつくせぬほど愉快だなと思った。突拍子もないことを言う。
「それって顔の皮膚ってことですか?」
「違うよ」
「じゃあなんですか?」
「だから、たぶん私の素顔」
「そうですか」
 先輩は、きっと私の素顔という言葉を言いたかっただけなのだろう。
 私はりんごを手に立ちあがった。
「きれいに洗って皮を剥いて、食べましょう」



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