第142期 #9
地球を踏みつぶす勢いで、いびつに片減りしたスニーカーをおもいきりアスファルトにぶつけた。カカトが痺れる以外ただ、何もなく、小石が二、三、不自然に飛び散った。腹立ちまぎれに、あん、と張り上げた声で、隣をすり抜けた老婆が少し距離を置いたのが照れくさかった。心の中で、怖くないがね、と叫べば叫ぶほど顔がいびつに歪む。昼飯に食べたたくあんの繊維が奥歯に挟まったのをずっと気にしている。信号が赤に変わるのを目の端に捉える。
タイルの敷き詰められた三角地帯。しなびた鳥屋と、古びた下駄屋が一瞬で取り壊されたあとには、例のごとくコインパーキングができあがった。鳥屋の前の歩道にいたうっとうしい数の鳩は、ぱたりといなくなった。ただ、いなくなると途端に寂しくなった。きれいに舗装はされたがどこかが嘘くさいのである。こうして駆逐された昔は、誰かの撮った写真の記録としてさえもなく、こつ然と記憶からなくなるだけなのだろうか。三十数年前の我が町の風景は心の中で熟成されていく。ダイエーの最上階にあったレストランを思い出し、サンドイッチとクリームソーダが大層なごちそうだったことを懐かしむ。そんな三角地帯横のダイエーのあった敷地には今、これも例のごとく斎場ができあがった。
中途半端な雲。密度の濃い湿気が雨を予感させたが、それでもギリギリ降らないのが気持ち悪い。いっそのこと、どしゃ降りにでもなってくれれば。傘が他人を排除してくれたことが唯一の救いになったかも知れなかった。
雨がマンホールを軽々と押し上げる。タンポンのアプリケーターが下水から溢れ出す。今どき、汚水処理もままならないのか。数百のアプリケーターがうごめく一つの個体として、押し合いへし合い同じ方向へと流れていく。汚水まみれの不愉快な白が、時折はみ出し見え隠れしている。拾い上げる勇気はなかった。いまだ、奥歯に挟まった繊維質を気にしている。舌がいい加減痛い。中途半端な雲だから、もちろん雨など降っていない。おそらく老婆もすり抜けていない。舌の痛い感覚は確かにあるので、たくあんの繊維はあったはずだが、それはきっと朝食だったと考え直してみる。信号が青になって、自転車が車道を走っていく。頭上の雲が途切れ手前の地面を陽が照らす。歩き出した視界が少しだけ白くなった。