第142期 #14

爛夜花

 あんたなんか生むんじゃなかったよ。
 後ろ手に閉めた玄関のドアが、あいつの声をとざした。苔むした飛び石を踏んで、錆びついた門扉を抜ける。今夜だけとは言わない。明日も明後日も帰るつもりはなかった。セイラの家に転がりこむわけにはいかないが、なんとかなるんじゃないかな。こんな蒸し暑い夜だ。公園で一晩二晩過ごしたって害はない。
 持ちだしてきた缶ビールをあけ、飛行機公園までの道すがらに呷る。冷たい喉ごしはただただ苦く、爽快さとは趣きが違っていて少し侘しい。中三のときか、酒は一生呑まないと誓った。父が逃げ、あいつは酒に逃げた。誓いは豪語となって終ってしまったが、あいつへの感情は変わっていない。厭だった。
 風もなく、ひっそりと聳え立つ飛行機のオブジェ。ジャングルジムと融合した鉄の模造物。回らぬプロペラに巻きつけられたビニル紐の先が毛羽立ち、こちらは感じない微風でもそよいでいる。怒気を帯びた背筋はすっかり酔いで上書きされて、一言でいえばわくわくしていた。セイラから連絡はまだ来ない。
 街灯も失せた公園の出入り口に人影が現れた。長身ひとつと、その三分の一しかない影。男と手を繋いだ少年だった。気づかないふりをして、煙草に点火。むこうが先に気がついて立ち去ってくれりゃよかった。なのに佇んだまま、行きも帰りもしなかった。
 星でも観察しているのか、住宅地の狭間にひらけた夜空を見上げている。曇り空に星はひとつきり出ていないのに。
 すると、少年が背伸びをして手をふった。空へむかって。
 急に、夜が明けたのかと錯覚した。夜の底から光を引きつれて、淡桃の花々が空を覆い始めた。蕾がひらき、花びらが廻り、都度、朝露めいた光が住宅の屋根を舐める。幾重にも広がる花びらを縫って虹色の水飴が伸びてくるかと思えば、艶かしい尖端が巧緻な飴細工のように人の顔に変じていくではないか。白粉が浮き出し、朱が塗られ、忽ち美麗な女の顔になった。とても、巨大な。
「坊や、坊や、食べ……」
 夜空を埋め尽くす桃花のそこここから女の声が響き、辛うじて闇色の残った瞳が俺を見た。缶を持つ指から力が抜ける。ビールが砂地を濡らし、目線を上げたらさっきまでの夜が戻っていた。
 父子の影も消え、代わりに露出の多い格好をした少女が立ち、手をふっている。彼女の名前を呼ぶ間もなく、安堵の理由が分かった。あいつとは全然違う。
 セイラは麗若き、十六の少女だからだ。



Copyright © 2014 吉川楡井 / 編集: 短編